2017年 03月 04日
総合目次 / 和声学序説:基本的前提
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総 合 目 次


           和声概念 (1)

           古典和声の検証分析 ①
             「 実際に機能している基本現象 」
                情報・知識の最前線
                分析結果
                本来的機能
                定義の出発点

                  01 - 実体論的思考
                      「 説明原理 」
                         原理的保証
                         相対的概念
                         理論的空間

                    02 - 知識獲得の可能性
                        「 理論と論理 」
                           和声構造の基本概念
                           直示的定義
                           理論構成

                      03 - 象徴事実
                          「 実証と疑似 」
                             モデル形成
                             基礎資料
                             不可欠条件

                        04 - 人間能力の根本原理
                            「 概念的解明 」
                               成立根拠
                               反転している検証結果
                               実証的論述

                          05 - 分析状況
                              「 認識基準の定義 」
                                 本源的論証
                                 事象現象の解釈
                                 システムテスト

                          06 - 概念枠組
                              「 和声の歴史と論述の歴史 」
                                 創出行為
                                 共通感覚と事実性
                                 象徴化の過程
                                 新しい理論基盤

                        07 - 限定以前の現象
                            「 実在概念 」
                               認識の発展と分析方法
                               創造的性格
                               知識の体系的構造

                      08 - 理論家グラレアーヌス
                          「 妥当性を守る教程 」
                             和声学の眼目
                             構造的可能性
                             実在現象の資源化

                    09 - 基本的前提の克服
                        「 開かれた概念定義 」
                           本源的な情報資源
                           基本的前提の条件
                           論理的基礎論




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:38 | 総合目次 | Comments(0)
2017年 03月 04日
和声概念 (1) / 和声学序説:基本的前提
和声概念 (1)


 まず理論的・論理的な命題のひとつの例を示そう。
 和声学の歴史において、人間が創出する和声のことを何でも解きあかそうとして、なぜそれが可能となったのかという問いを発することが和声学の始まりだといわれる。これは、和声学とは、認識の諸段階を昇りつめ、真の実在はどれか、対象の本性は何かを尋ねようとするものであり、そうした事実を理論的にしかも論理的に説明しようとするものである、という意味である。そのためには、私たちは「歴史的・実践的実在(たとえば、大作曲家たちの創意工夫による和声的思考)はプログラミングできない」という極端な言動を慎む必要がある。というのも、現代人は、対象の検証分析を拒否する知識には事実認識を妨げる偏った見解が立ちはだかっている、と考えるからである。
 その例をいくつか挙げてみよう。

           J.S.バッハ _ Four-Part Chorales "バッハのコラール"
           W.A.モーツァルト _ Symphonie No.41 "ジュピター"
           ベートーヴェン _ Violin Sonata No.5 "春"
           R.シューマン _ 8 Novelletten Op.21 No.1 "ピアニストA.ヘンゼルトに献呈"
           ブラームス _ Symphonie No.4 "ブラームス交響曲の最後の曲"
           マスネ _ Meditation de Thaïs "タイスの瞑想曲" など

      これらは、日本の和声テキストに示された規則禁則に照らし合わせると、正しくない解決や進行、つまり規
      則違反や禁則の事象現象が次々と現れる楽曲_ということになる。

 このような人間の実践的課題の重要性から目をそらす特殊な概念規定は、意識的に、規則禁則が古典音楽や一般的な音楽においては基本的な認識基準であると見せている。つまり、虚構的テクストとしての規則禁則の地位を主観的な論述を通してだけでなく、現代の理論家たちが閉じられた構造として論じているように、一切の多様性と変化性を排除する一元化、概念の外延に関わる定義であるにもかかわらず、さして実体論的思考のない非現実的な推測や仮説を通して行なわれているのである。このように、それは蓋然性が高い和声の仕組を体系的に踏査し、理論的に説明したものではないのだとすれば、こうした概念規定が、私たちに与えていたものとは何であろうか。
  21 世紀に入り、それまで動的な本質を否定してきた`機能和声_声部の書法`の限定制約からようやく脱却し、「基本的前提」としての事実認識に達したいま、現代人はこのように考えるようになったのである。`和音の進行`の使用価値と範囲を離れれば、何の価値ももたない。経験する実体概念の認識がないなら、すなわち可能性が活動していないなら、それらは概念として静態的であり、伝統的和声の面からも破壊的である。なぜなら、現存在を明確に語るための実在検証の直接的間接的な排除は、無邪気な誤りで済まされるものではないからである。それを妥当性があるものとして操作することは明証化のゆがみを助長する。音楽人にとって、この後退的概念の規定は妥当性をもたない。
 それに加えもっと受け入れがたいことは、つまり、`限定進行`の価値は人間の思考活動によって生み出された音楽以外のものにより正当化される、という考えである。その価値を別の目的のための道具と見ることは、理性であれ共通感覚であれ、人々の合理的な経験を封じ込め偽装の論理を再演することである。また、`禁則`が正当化されるのは_ここは日本なのだから_というローカリズムの限られた領域内においてであり、和声学に関する認識基準においては実践的実在性を放棄した便法にほかならない。実際この検証分析を拒絶する`原則`は、古典音楽との音楽的な情報伝達の知的環境を混乱させている。だが、結局、分析・実技・総合を小さくしてしまう。よく知られているように、私たちの合理的な体験が棚上げにされる撞着規定の選択は、「人間の実践」によって具体的現実的に統一される「本来的な思惟」と「歴史的な存在」とは合致しない、ということになったのである。
 この時点で奇異を通り越す概念規定は、意図的な事実隠しの問題にも関係している。概念硬直を放置する一方で、次の世代が将来背負う概念的矛盾に眼をつぶれば、和声学を維持するのが難しくなる。だが、このような規定は規則禁則の妥当性を正面から問うこともせず、また自らが事実の証明に用いている特定対象と認識方法を明らかにすることもなく、「限定に準じる思考以外に方法はない」の言説を繰り返している。それゆえ、和声学基礎論は、その概念規定が「限定進行および禁則を遵守していない和声構造は、すべて美的不正である」として、古典音楽の和声が示す活動的な多様と変化を切り捨て、何ごとも無批判に従う思考に合わせた「実在性を終始隠蔽する規則主義」に陥ってしまった、と見ている。
 ルールという問題を捉える表出的認識論において、理論解説者が「歴史上の大作曲家たちはこのルールに従っていたのではない」とわざわざ注意を呼びかけているように、そうした概念的方向と視点は自明であり人々の間では常識化されている。しかもルールは、古典和声(作曲・演奏・聴取活動)そのものではなく、本来的理論としての基礎的役割から外れていることを、少なくとも単純な事実の論述に還元できない概念規定であることを常に示すことになるのである。概念の内包を明確に与える定義、それは和声全体の問題を論じる場合、基本的な認識基準にほかならない。ゆえに実体とのコミュニケーションの様態だけが事実の論述と音楽文化社会を結びつけるのである。なぜなら、それはあらゆる人に共通するものに関係するからである。しかし、私たちが古典音楽の演奏や鑑賞において経験する和声の実践原理を理論の問題に対して当てはめてみるなら、つぎのような事実が分かってくる。

 「古典音楽における和声の様式特性を保全しようとする限り、そこで検証分析される実践的実在(バロック_J.S.バッハ、古典派_モーツァルト、ベートーヴェン、そしてロマン派_シューマン、ブラームス)の和声そのものはすでに限定制約というルールの支えなしに成立していたのである」。

 和声学が古典和声の様々な現象を再生するという役割は、現象の情報伝達力にある。今まで続いていた反社会的文化的欲求の原則主義の動きが止まるのは、永々と続く古典和声の恩恵を知るときである。不明確な概念から解放されない公理を基本的前提とするために実在そのものを俯瞰できなくなっている考えを、概念的に古典的な意味での和声の正しいあり方として規定することは妥当なのだろうか? その歴史的・実践的実在という実体の多くを例外視する概念化が矛盾していることは明らかである。こうした矛盾は事実をルール化する際の対象と認識基準とのセマンティカルな問題であり、理論構成の意味においても概念の象徴化においても、和声学の知識体系が和声構造の客観的実在性を枠組としているからである。
 古典和声の様式とは、人間が歴史上において獲得した実現行為であり、ノーマルな聴感覚に裏打ちされた検証を通じて人間を豊かにする経験の対象でもある。そうした対象は、理論の基本的象徴と本質的概念となるものである。理論がその認識根拠と概念規定で人間的実現行為と結ばれているのは、個々の音楽理論家の生きた分析と総合という研究があるためである。とするなら、和声学が人間的実現行為を前提条件とする理論的探究、事実判断の拠りどころとなるような明証的な認識に到達するための実証的研究である限り、なんらかの音現象を古典和声の構成要素と認めるためには、対象の現実性と効用性とを確保した「事実であるもの」と、分析データの裏付けを欠いた「事実ではないもの」を前もって区別しておく必要がある。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:36 | 和声概念 (1) | Comments(0)
2017年 03月 04日
古典和声の検証分析 ① / 和声学序説:基本的前提
古典和声の検証分析 ①

実際に機能している基本現象


 情報の最前線
 いまや和声学は情報化を組み入れている時代である。理論家も、理論解説者も、そして学習者の誰もが濃密な情報社会の恩恵を受けている。事実、そういう社会状況の新しい変化によって、おびただしい和声の分析資料を把握することが可能な環境にある。その意味で、もし和声という響きの世界に、ひとつの現象だけを正しいとして、すなわち、限定的な規定によって正誤判断するという、限定性を凍結した前提条件が本当にあることを信じ、これに様々な願望や期待を寄せることによって、人間の思考や選択のあり方を排除することは妥当であるとするなら、話はまったくおかしいことになる。つまり私たちは過去と現在だけでなく、未来の和声についても知り尽くせることになるからである。過去の人間の文化創造における思惟・存在・実践が極端に断片化され、機能不全に陥った限定性凍結の概念は、理論的構築性に疑問符をつける不条理と矛盾があることを意味している。
 理論の構築において、最終的には「人間という実践的存在は必要としない」あるいは「新たな選択的叙述は例外視される」という歴史の動きを否定する時代が来るのかも知れない。しかし、いま私たちは歴史という大きな流れの中に立っている、ということは、それは過去のあらゆる人間たちにとっても同じであったように、まさに私たちは現実を乗り越え歴史を創造していく存在である。創造とは新しい実践を生み出すことであり、創造性とはそうした能力または性質をいうのである。人間的能動性、合理性、自律性によって具体化された多様で多数の創造性は、どんな時代になったとしても人間社会の学問という分野において生き続けるであろう。体系的に組織化された理論そのものが、音楽創造における自由とは何か、自我の創造性をも許せる自由とは何かを示す縮図である。
 もっとも慎みのない振る舞いは、聴くことも、また検証もせず、「そこから先は立ち入り禁止にしよう」という止まることのない論理を和声学における概念認識の形成過程に取り込むことである。今まで私たちは古典和声に関する知識を得るために、ルールがもつ定義概念の必要条件なるものについて多くの考察から検討を加えてきた。そのさまざまな象徴化において、理論家は明晰な理解者としてつねに一連の論理的言説の頂点に立つ者であった。では理論家というものは、自分自身を象徴化における最終決定者とでも考えているのだろうか? いや、そのような考えはもっていないだろう。
 なぜなら、有能な理論家には、象徴化は何らかの運命的な超越的思弁に決定の根拠をゆだねるような認識根拠ではなく、選択に関わるメタ・コミュニケーションによって支えられるものであり、その過程を放棄すれば現実に体験している世界からは逸脱し、選択のリスク_人間の思考や古典和声の世界のうちに現存する「選ばれなかった可能性」を暴力的に切り捨てる行為を冒すことになる_という「倫理的自覚」があるからである。
 この意味において、限定制約にかかわる選択された概念規定の結果がどのようなものであれ、理論家は神学的な考えによる思弁や過去の観念的な認識方法に責任を転嫁することはできないのであり、理論家自身が全身で「概念認識の形成過程」のために、「実際に機能している基本和声現象」の検証分析を引き受ける必要がある。一般的には、日常体験、諸科学において用いられる対象の表出すなわち現象・事象の事実を、明確に与えることを定義と呼ぶ。そのように現象・事象の事実を規定しようという場合には、概念のもつ特性を、できるだけ熟知された対象全体を考察しその検証データをリスティングすることがしばしば行われる。検証データというのは、コンテキストのなかで言葉の代わりに用いても、対象全体の意味に変化が起こらないような認識基準と考えれば、直接、譜例提示で置き換えるという作業は一種の定義と言える。


 分析結果
 和声学の言語や符号で述べられた論述の基盤となる与件、つまり「定義の出発点」とはいったい何処に位置するのであろうか? ここで私たちは、「西洋 18 世紀の音楽文化において創出された現実的な和声の構造特性」と「それを象徴化したといわれていた限局的な概念規定」とを比較しながら検証することにしよう。


導音進行の実在検証

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           検証分析                            原則
                                           
 
        導音進行は6種ある                      導音は限定進行音

  
     1)長3度下行            →             × 規則違反  「誤」

     2)短2度上行            →             ◯ 規則    「正」

     3)完全・減4度上行         →             × 規則違反  「誤」
                              
     4)長2度下行            →             × 規則違反  「誤」  
                            
     5)長2度上行            →             × 規則違反  「誤」 
                             
     6)増1度下行            →             × 規則違反  「誤」
 
     * 導音重複             →             × 禁則    「誤」

                                           

 J.S.バッハ以降、伝統的な機能性を肯定して継承した作曲家      原則だけを「正」として他を[誤」と判断した作曲家

                                           

     ヴィヴァルディ、
     ヘンデル、
          
     ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、
 
     シューベルト、ショパン、                        存在しない 
     シューマン、ブラームス、
                 
     フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラベル、

     エルガー、ディーリアス、ヴォーン・ウィリアムス

     ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、ショスタコヴィチ
     プロコフィエフ
     バルトーク、コダーイ

     グロフェ、コープランド、バーバー    
                                                                                               
     (リアル・ハーモニー)                     (ペーパー・ハーモニー) 
      
                                          

     [ 導音進行の客観的実在性 ]                 限定進行の証明可能な判断基準が不明確。
                                  この規定には実在的な現象の現実性と効用性の概念
                                  が欠落している。

                                             
                                          

     [ 古典和声の再生可能な概念 ]                西洋古典楽曲に関する和声分析の範囲は対象が限ら
                                  れ、その諸現象と概念定義を密接に連関させること
                                  ができないのは明らかである。

                 

     [ 実在の検証分析によって導音進行の事象(事実)は
                  多様で変化ある現象(姿)として捉えられる ] 

                              

理論体系の基層的本質

 導音に関する分析において、私たちは導音に関する何らかの実践的関心を満たすために知ろうとするのである。つまり、知ろうとする導音の性質が、特定様式において私たちにどのように働きかけてくるのかを考察しようとする。現代の理論家は、この、導音の私たちにみせてくれる古典の実践的事実という和声のあり方が、私たちの思考の概念的方向であり、その方向に従い認識することがまさに事象に対する概念の適用である、と考えている。
 上記、右側_「局所的単一現象という捉え方を意図した原則から帰結する導音進行の正誤判断」は、左側_「経験的存在としての実在和声における導音進行の概念的本質」とは明らかに矛盾している。それは私たちの音楽思考が指し示す合理的な概念的方向や対象全体を再生させようとする和声現象としての自律的概念ではない、それゆえ、導音の検証と分析においてそのひとつの進行だけを切り離し正誤判断したところで、導音進行の性質を説明したことにはならない。たとえそうした性質に適応能力のない人間によってそのほとんどが規則違反とされたにせよ、実在する導音進行の現象には人間的能動性と音楽的事象の実践を明らかにできる確かな内容が多く含まれており、それらは導音に関する「和声学基礎論」の概念定義の重要な未来的・創造的・生産的な次元を構成するものなのである。


 本来的機能
 和声の世界における諸現象の歴史的・実践的事実をいくつか示してみよう。


   例 1.
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   例 2.
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   例 3.
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   例 4. 
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 導音進行(↑)(↓)の例は、バロック・古典派の多くの作曲家によって統一された確かな実践の例である。J.S.バッハが前時代の段落・終止和声における導音進行の概念と実践的存在の影響下に発展させたのは、まさに音楽的な意味作用のもつ導音進行のより一層の多元的な面に他ならない。音楽的な実践が意味をもつのは、それが他の音楽的な実践と関わりをもつことによってそれが存在することを期待させるからである。その意味において、直示的定義(譜例提示)によるすべての各概念は、現代の和声学的な導音進行の概念となっている。とはいえ、真に本質的な概念定義と規定(自己同一性=導音進行は限定されない)が登場するためには、理論家による最近の実証的分析データを待つ必要があった。


   例 5.       
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   例 6.
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   例 7.
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   例 8.
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   例 9.
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 導音重複_J.S. バッハ - 例2、モーツァルト - 例5、ベートーヴェン - 例9_の現象は、人間が生み出した多くの思考システムと同様に古典和声の実体概念であり、歴史に由来する根元的本質である。事実によって証明する認識方法によれば、第3音重複,さらに第7音重複(後述)は、本来、他の和音構成音重複と等価値のものである。これらの重複の特質は、言葉によって説明するまでもなく、バロック・古典派和声様式におけるありふれた(恒常的・本質的) 表出であり、とくに古典派和声のなかに頻繁に現れるものの、先行和音および後続和音の内容によってその形態は変化する。


   例 10.
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   例 11.
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 並進行(連続) 5・8 度(↑)(↓)の実践は,和声表出におけるれっきとした人間の思惟活動である。古典音楽の和声には「連続の存在する和声」と「連続の存在しない和声」が共存する。こうした事実の考察分析に基づく認識は規則禁則への一切の志向を斥け,私たちのさまざまな思考的状況と常に相対的である普遍妥当性をもたらす自然な知識を提供してくれる。そして古典和声のもつこの相対的特質は、和声の論述に厳密に還元し得る「並進行(連続)5・8度」を現実的に理解可能な一般原理である,ということを「人間の聴感覚がもっている正当な基本的基準」として認めているのである( 和声 1 / 再検証_http://practicus.exblog.jp/ )。


   例 12.
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 譜例に表出されたこの交響曲を支える和声的な事象現象は、第1楽章全体にわたって繰り返し取り扱われる。柔らかで、さわやかで悠長に明るく進んでいく。説明するまでもなく、こうした特徴は第2楽章においても何の奇もなく穏やかに展開される。


    例 13.
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 定義の出発点
 概念とは、特定対象と他の多くの対象との類似性を指摘するものであって、概念による認識は諸現象を集めて事象全体を再生させようとするものにほかならない。それにもかかわらず、旧態の古典和声学の概念と定義は、たとえば「導音進行は主音への進行以外はすべて誤り」としてそのありふれた実在性を否定する。それは概念規定にもたらされた疎ましいほどの理論と論理の固定化である。しかし、対象の広範な検証を行ってみると、たとえば_ 2) 導音進行は主音へ_を一集合にまとめてつられた疑似和声のモデルのような特別の概念は存在しない。したがって、導音化の概念定義のための論理の展開において、また、中世・ルネッサンス和声において導音の生成過程での思惟的動機としての導音は主音への認識、そして、ある特定作曲家の実践において導音を主音へ進行める現象が多く認められるにしても、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートヴェンの和声を枠組とする和声学であるならば、上に挙げた実例とその歴史的経過からも判るように、「導音は限定進行音」というルールは和声学的な実体論的思考を逸脱した認識基準であり、その結果、普遍妥当性を欠いた概念規定となるのは明らかである。導音進行の性質は、被定義概念_写真撮影であるなら被写体_となる「元の対象」の考察・分析を介してはじめて事実確認ができる。
 つまりそうすることは、導音と第7音の進行および重複、並進行(連続)と第3音重複の命題について、人間が陥りやすい矮小化された先入観、さらには事実を受け入れることを拒否する偏見、そして真偽の根拠を先へ延ばそうとするか、または断念するかなどの心理状態に対しての「自由化」といえよう。


機能論的思考につながる実体論的思考


 古典音楽を枠組とする対象の検証において、和声の認識・選択基準となる導音進行の実体は、従来の概念規定(規則禁則)によって陥りやすい固定観念をはるかに超えたものであり、音楽人が共有する知識あるいは常にもつ必要のある共通感覚となる。しかも、その射程、柔軟性、理論史、人間のさまざまな思惟・聴覚的状況と絶えず相対的である事実の実証的研究を踏まえてみても、根源的な原理を十分に捉えそれを常識化する。今日、それは現代の統計的手法によっても検証され、すでに事実の現実性と効用性とを確保する理論の基本概念となっている。
 ところで、調構造とは、事象実質のなに刻み込まれた特性やその組み合わせの全体であるばかりでなく、様々な表出によって感受される諸現象の全体であり、調的とされた和声様式に見られる和音および音進行の全体である。多元的な導音進行という恒常的・本質的現象は、古典音楽における調構造がそれなしには考えられない性質つまり属性である。とすれば、多様な導音的機能性の構造認識は、理論の骨格である 18 世紀古典音楽_バロック・古典派和声様式の調に関する象徴化において重要な命題となる。このことは、調和声に関して Ch.ケックランが行った説明のなかにはっきりと含まれている。というのも、調和声は、孤立した導音の限定進行に還元されてしまうものとはみなされておらず、むしろ、動的に、必然的に、両議的、多義的導音進行と導音重複の機能的背景のなかに位置づけられており、それによって形作られているからである。この調構造こそ、古典的次元を必ず含むものなのである。
 理論とは、あくまで文化社会が認める歴史的・実践的存在の中に創出された構造特性を対象とした概念規定によって構成されるものである。しかし、現実には存在しない、ルールという唯一性の概念をあたかも存在するかのように理論のあらゆる面で適用する極端な非論理的言説は、伝統的な西洋音楽文化と理論の歴史に対する否定であり、少なくとも現実の意味ある体験を全く包含できないことによって妥当性をなくしている。たとえ、倍音共鳴論の本質的な論述さえもなく、そういった概念規定を基準にした西洋古典音楽の分析から新しい理論が生まれることはない。それは経験的実在を顧慮しない単なるアプリオリな認識論の産物であり、それ自体がさらなる誤解を引き起こすものでしかないため、概念の内包を明確に与えるより根源的定義の出発点に戻る必要があるからだ。
 現代の和声学の「理論構築」のなかで、実在の概念的本質の検証が占める位置は、もっとも基本的な出発点というよりは、その出発点である公理定理あるいは概念定義の妥当性を確かめる手段ということになる。理論を構成する場合でも、和声の検証は、古典和声の実体概念の本質的規定と古典的事象あるいは現象との間に、関係があるはずという構造認識が前提であり、それがあってはじめてその検証が組み立てられ実行に移されるのである。当然のことながら、基本的前提とされる構造認識が明らかにされなければ、どんな検証を行なうかの見当さえつかない。旧態の「声部の書法」における「原則」が、多少の幅はあるにしても狭い領域に生きることしかできず、したがって現に規定された範囲内に閉じ込められ、画期的発展を遂げられなかったことを考えると、私たちは、実在論に基づかないそこには過去も未来もない和声学基礎論の無意味さを、充分に知ることができる。
 和声学基礎論の価値基準は、それが包括し得る全対象の客観的実在性の有無と範囲の大小による。現代の和声学は現象の生起という事実は様々な調構造様式に関係していること、それが統一的全体に共に属していること、を明らかにすることにより、その実体論的思考に基づいた多様な考え方を理論の正面に据えたといえる。普遍的な概念規定が古典音楽の和声を離れて、存在している、ということは考え難い。他方、ある概念規定を示されたときにそれが普遍であるか否かを見分けるための価値基準は私たちに存在しているといえよう。つまり普遍とは、創造されるものであり、普遍を創造する未来は私たちにはまだ壮大な可能性として開かれているのである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:35 | 古典和声の検証分析 ① ** | Comments(0)
2017年 03月 04日
01 - 実体論的思考 / 和声学序説:基本的前提
01 - 実体論的思考


「 説明原理 」


 相対的概念
 人間は根源的に実践的存在である。つまり、はじめに「実践」がある、のである。しかし、人間の思惟・存在・実践といったものすべてを規則禁則で推し量ろうとし、序列化できるものだけに価値を見い出そうとする概念規定がいかに実践を歪めていることか。とくに序列化によって固定化された価値は、規則化された価値である。その規定は人間の想像力をも含めて、そればかりか人間そのものまでをも含めて、すべてのものを規則で判断させるような世界に若者を招き入れる。それでは、規則の実践に、しかも、その実践の予想させる方法が厳密に守られたとすれば、もっとも想像力の乏しいものにおいて結びつくことになる。和声学において何でもルールという視点でものを考えるように強いられた人間は、多数の実践を単純に例外視する。その結果、規則化できない多様な存在を見逃してしまう。彼にとって規則化できない存在は第二義的あるいは全く関係のないものとなり、ただ規則が要求する実践ばかりを果たしているうちに、与えられた要求を受け入れるだけで自分に与えられた固有の思考や能力を失ってしまうのである。
 ルールによる和声学とはこんなふうに考えることができよう。一般に規則禁則論は、多少の幅はあるにしても狭い部分を説明することしかできず、したがって部分に与えられている事象現象に閉じ込められることになる。ところが、検証分析や演習を介して聴感覚の発達がある人間は、実在の音楽体験と連動した記憶や想像の働きによって、過去や未来という「次元」を開くことができる。正確に言えば、全体の中に、ルールとは異なる歴史上に展開された自然な事象現象が認識されるようになり、そこに伝統性あるいは現代性と呼ばれる次元が開かれてくる。そうした次元との関わり方が記憶・想像と呼ばれるものである。そうすることによって人間は、現に与えられているある一つの和声構造を考えながらも、そこに過去に存在したことのある和声構造や、存在し得る思惟可能な和声構造を重ね合わせ、それらを互いに切り替え、さまざまな和声構造を相互に関連させながら多様性・変化性を事実として理解することができるようになる。このように多様な構造をさらに高次に構造化する概念の認識、変化ある事象現象をさらに拡張された事象現象のもとに関係づける概念の認識を、認識論や論理学の領域で実体論的思考による概念認識という。和声学に特有の世界とは、そうした認識方法によって構成される実体論的思考体系のことなのである。
 和声学は人間の「5感」によって認知できない存在を考える学問ではない。また、歴史的な「時間性」の外に位置した神学的観念において、服従するか、反抗するかを決定する場でもない。それは人間の合理的経験論と一般的な認識論に依拠する。その基本的概念は対象とそれに関わる数々の対象とを突き合わせることによって見出すことができる。その手段となるのが考察である。つまり事実に基づく分析である。この比較検証は一挙に行われるのではない。何らかの実践的関心を満たすために検証するのである。しかし、概念規定のあり方が経験的実在から得られる事実を象徴化していないなら、理論をその方向から構成することで私たちにもたらされるものは少ないということだ。さらにそのような事象に対する非現実的な概念の適用は、現象の多数と多様をひきかえに神話に相当する認識基準の混乱を引き起こすものなのである。
 音楽とは何か? この問いは、音楽理論にとって積年の課題であった。それは西洋音楽理論史における中世の音楽について詳しく述べた「音楽教本/著者不詳_ムシカ・エンキリアディス 」、「同書への注釈書_スコリア・エンキリアディス」が理論書として音楽の世界に現れ出るはるか以前から同じである。これらの理論書は、グレコローマンの著書から引用した諸原理を採用するものであり、多くの研究者が筋道を立てて述べているように、和声現象に関しては、ピタゴラス理論をはじめギリシャ音楽の音組織、和声の根本原理となったオルガヌムに依拠する_音程の和声_を明らかにしたものである。
 ボエティウスは音楽と人間の関係について「音楽は本来、私たちと親しい関係にあり、私たちを気高くすることも節操を失わせることもできる。すべての知覚力は人間に生まれつき自然に与えられているが、心に感じることを見つめているだけでは何も分からない。その行動にともなう感覚機能にとって根本的なものとは、また感覚的に感じていることの性質とは何であるかは、事実に沿って専門的に塾考することができないのであれば明らかにされることはない」と述べている(De institutione musica/Book one_1.Introduc- tion / Boethius 音楽教程-第1巻)。
 古代世界の文化において、音楽は、民族性や道徳性に影響を与えるものとして、また、真理探究の哲学的導入手段として一般教養である7自由学科の主要4学科の中に置かれ、算数、幾何、天文学と並んで数理的な教科の一つとして重要視されていた。すなわち音楽は人間の精神的な豊かさを示す顕著な実例であって、想像力や実践力を理解するための源泉であった。この音楽についての考察は、中世・ルネッサンス・バロック・古典派・ロマン派・近代的という段階を経て、現代の実証的研究に至るまで連綿と続いている。そうした理論書は音楽の無限の可能性と固有の構造特性とを見い出した点で、ヨーロッパ音楽理論史の発展を意味するものである。 20 世紀において西欧の思惟が経験したように、歴史家・理論家・評論家が新たな角度から論じる機能論的思考と実体論的思考は、理論を社会的・文化的実践と定義する。


 原理的保証
 本来、実証的精神を踏まえてきた和声学がなぜ規則禁則へと向かい変わってしまったのか。その理由を、現代の理論家は、ルールの普遍化からもたらされた公理的理論とみる。その特殊的概念は和声をコントロールできるかのような錯覚をもってしまった。定義概念の形成過程は排他的であるから、他者の表出である古典音楽の実践的存在は視野に入らない。和声表出の面からいうなら歴史的存在である音楽作品の関係という問題を全く無視している。現象の多数を、現象の多様を語ることに対しても無関心。したがって、理論と演習は規則主義によって拘束され、私たちはもはや変化発展のない疑似和声を嫌でも聴かされることになる。唯一論的な理論構成はこの孤立化する限定・制約の概念規定から一歩たりとも超えることができなかった。つまり、人々に力強く訴えかけてくるJ.S.バッハやモーツァルト・ベートーヴェンの和声と一緒に音楽芸術作品への畏怖の念をすでに失っている」と指摘する。
 周知のように旧態の和声学は、定義不十分で不正確なドグマを前提とするため、理論の中枢部には本来的実体を排除しようとする正誤判断と、調構造の論述においても部分であるにすぎない概念の適用がしきりに起こる。歴史的な結果責任という意味においてもその説得力の足りない論理は言ってみれば、創造における可能性探究の道を逆行するものである。それだけではない。古典音楽という芸術作品が有する確かな現象の多くを例外に区分する考えは、実践的事実と自己判断の不適合性を打ち消そうとした取りつくろいである。また、曖昧な概念化は単なる埋め草。それは語意が示すように素材を構造特性に結びつける機能は存在せず、このような概観性や全体的な直観性が欠ける概念は事象の起こる必然性を考えた機能理論にとって適切な象徴化ではない。それに加え、近代的な機能本位の合理性を曖昧にし、大々的に現象の機能性を語るにしてはあまりにも破壊的である。しかも象徴的概念の基盤となる芸術作品の実例表示を怠る、すなわち、歴史や実践の事実に対して対応能力の備わっていない定義概念は、私たちを現実体験から引き離してしまう反文化的なナンセンスに陥っている。
 音楽芸術は本質的に歴史的である。その移り変わりの現象を離れてその本質は論述できないとされる。音楽芸術が歴史的であるということは、その和声における構成要素も人間の記憶と現実的な経験の一部をなしている。それは論理的な確実性にあらゆる概念を引き入れるものでもある。その明証を一般的な定義概念とするためには、原理的な保証を歴史的事実に求める必要がある。だからこそ、私たちの体験が現実である古典の直接的な探究を決して無視することはできないのである。よく引き合いに出す「ドイツ和声」「フランス和声」についての概念の規定は、たとえ過去におけるエクリチュールがどのようなものであれ、ドイツそしてフランス古典音楽における伝統的な和声構造を再生するために、しかも、現実的・具体的に理解可能な基本的基準を数多く見い出せるように、まず事実に基づいた特定対象の考察と分析から始まったのである。かつて西洋の和声学が、起源的な音組織となる教会旋法の排斥、際限のない借用和音論の乱用や元の対象と合致しない規則禁則の固定化、また、古典における事実検証の放棄を容認しなかったのはなぜなのか? そうした逆説的な意味において、有用な和声現象を理論に還元するための理論家の常識的なバランス感覚、確かな認識方法に依拠した客観的で合理的な基本的前提そして多義的な概念定義から学ぶところはいまなお大きい。


 理論的空間
 和声創出の世界には、その全体をつらぬきそれを成り立たせている多くの独立した「原理」がある。その歴史は特殊な領域内部の断片的・限定的概念規定から成り立つものではない。作曲家それぞれが創意工夫した実践と各技法間に生じる相互作用の結果として得られるものであり、その多数で多様な和声のあり方は、人間が自ら変化しようとする本能によって、昔からどんな時代にもどのような作品の中においてさえも見ることができる。私たちには仮に一義的に見える現象であるとしても、それは多義的な表出をもつことを前提としている。それゆえ、近い将来にはデータ・バンクが提供してくれる知識体系を活かす方法、また、その新しい認識根拠と基本的基準が必ず問題となるだろう。たとえ、そうなったところで、対象の全体像を洞察するという知的活動が不要になることはない。というのも、私たちが音楽文化社会という世界にはめ込まれ、音楽文化に参与した存在である限り、実践によって統一される思惟と存在を区別する公理的理論は成り立たず、音楽体験は本質的に両議的なものとして現れるからである。このような根源的両義性は、諸理論の解決の手前にあり、ルールの唯一論的規定によって霧散するようなものではなく、考察と分析を通じて、一つひとつ明らかにされていくにすぎない。各時代の理論書を見ると、理論の構成というものが古典音楽の和声構造を本来的実体とする一般的な説明原理に基づいたものであり、私たちの思考の概念的方向への問いかけが自然にかたちになり、そのかたちを確立していった理論であるということが判る。周知のように理論とは、人間が試行錯誤しながら身につけた実際的な知識の総合体であった。その認識方法は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ時代と共に変化発展していくものである。
 現に和声学が背負っている問題とは、前提である西洋古典音楽の和声からみれば、概念規定が不正確でしかないというパラドックスである。前提を認めるなら、そこに実在したものを肯定する必要がある。前提を認めた上で、その実在を否定することは、自分の矛盾を表明していることに等しい。もし、理論の目的が誤って導かれたままであるなら、その明確な問題解決のためには対象となる様式特性レヴェルを明確にした事実の考察と分析が必要なわけを理解することだろう。なぜなら、実体論的思考への顧慮を忘れた規定は人間が日常的に体験する概念内容を反映させることができないからである。原理的保証のない公理とルールから独立した媒介機能と理論的空間を生み出す必要がある。人間活動を認識する実体論的思考を放棄するとき、それは単なる原則主義に変貌してしまう。これが20世紀までの和声学が教える必然的な結果であった。
 現代の和声学は、よく知られているように、歴史的・実践的存在を学ぶ場である。現代の理論家に支えられた象徴化の多くは、この点に関してきわめて明確である。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:34 | 01 - 実体論的思考 | Comments(0)
2017年 03月 04日
02 - 知識獲得の可能性 / 和声学序説:基本的前提
02 - 知識獲得の可能性


「 理論と論理 」


 和声構造の基本概念
 私たちはしばしば他の人の常識のあるなしを問題とする。しかしその場合、常識あるいは非常識とは何を根拠にして判断されるのであろうか。ごく普通には、自明なものとしてそのまま音楽行為の規範とされ、多様な事実の考察によって象徴化された共通な感覚を基盤としている意見や思考様式が常識と呼ばれている。つまり専門的・技術的分野で、それに従事する者が当然知っている基本的知識を指すのである。となれば、和声の本当の姿と出会えることができる場所とは一体どこにあるのだろうか? 和声学からすると、それは対象再現のためのルールによって抽象化される理論的モデルということになる。それなら和声学は、思いつきを口にしたり、無理を通そうとするのではなく、人間の側に任意選択権が委ねられているルールの妥当性を筋道を踏んで論議し、事実をもって現象の現実的な法則を洞察すればよいのである。
 もし、概念的方向とその視点についての論理的な説明もなく、ましてや西洋和声音楽に参入するために必要な経験的実在の洞察もなく、創造の場である歴史を喪失した規則禁則だけが唐突に示されるとしたら、それが象徴的概念の属性を明確に与える科学的で有効な定義とはなり得ないことは、もはや繰り返すまでもなかろう。その説明の出発点となる理論的モデルは、事実に基づく「基本概念」を提供するばかりでなく、さらに新しい問いを導き、新しい現象をさがし、将来の予見をたてるのに役立つものである。
 とはいえ、従来の和声学は、その理論と演習においてイデオムとしている概念規定というものを考えてみると、事態はかなり矛盾したものになっている。「個々の和声構造に機能性を与えているものは何か」。それについて歴史上の大作曲家たちは実践をもってみごとに論証している。まず、和声構造というものは限定・制約される現象そのものではない。なぜなら、個々の現象は多義的なものであるからである。また、和声構造というものは規則主義的な考えそのものではない。なぜなら、考えというものは人によって異なるからである。さらに、和声構造というものはルールが示す音進行そのものではない。なぜなら、和声構造のもつイデオムはルールがもつ諸性質とは違っているからである。そして、和声構造というものは公理そのものであるわけではない。なぜなら、和声構造はつねに規則主義的な公理定理を超えた相対的特質をもつからである。要するに、定義における基本的な問題は、分析の対象が一般的に熟知されている必要があり、直接、様式特性(現象、調構造もも含め)を指し示す「直示的定義」が必要になる。こうした認識方法が有効なのは、少なくともカタログを欠いた定義は、そうした認識の過程で現れてしまうストア的退却論に陥るからである。さらには技法の習得を目指す客観的帰結を無視する。
 現代の和声理論における定義はルールと事実の関係が一致する地点から出発する必要がある。しかし、検証分析と直示的定義を放棄する理論は、たとえば同一現象を一集合にまとめて、特殊な唯一性の概念を作るために客観的実在性を否定する限定抽象と、既存の限定・制約を正当化するためにあえて譜例および用例の提示を拒絶する循環定義を今でも繰り返している。このような象徴化は、特定対象の部分現象を規則化すると同時に普遍化するがゆえに、歴史的・実践的実在と合致しなくなるのである。すでに見てきたように、和声理論の手意義と概念規定はつぎのような問題を引き起こすことになった。「規則禁則は、いったいどこまでが事実であり、どこからが事実ではないのか?」。
 なんと奇妙なパラドックス。その行き着くところは、人間が築きあげた文化的資源活用の機会を奪ってしまう概念規定である。こうした規定の形成過程は規則禁則の順守以外に方法はなく、それ以上に報われる人間的な価値を有する思惟的行為という実践を見失ってしまい、他と比較することができる諸理論やできる限り多くの分析データを与えようともしない。そこには多様な概念を定義するにしては構造認識や価値規範が極端すぎるという問題がある。したがってそのような概念と認識からは、西洋 18 〜 19 世紀のクラシック音楽を基本概念とする和声様式の具体的なイメージを描くことなどほとんど不可能に等しい。このことによって有無を言わせないルールによる和声学は、知識獲得の可能性において十分な成果をあげることができなかった。
 すでに述べたように、社会が認める音楽文化とそのメディア・リテラシーが与えてくれる経験的証拠および分析データによれば、今まで象徴化において基本的知識とされてきた常識をあからさまに排除する。超越論的思考の対象となり得るとしても認識の発展の役には立たない。それは現象の生起という事実検証によって完成されたものではなく、古典和声を象徴するありふれた体系的構造を示すものでもない。もし私たちに働きかけてくる対象を無視してルールに固執するなら、もし暗黙の同意が得られているとしてあらゆる構造をイコールで結んでしまうとするなら、音楽芸術の歴史的発展は無価値な作品の巨大な塵芥収集場になってしまうだろう。

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すなわち、それによって「実践的事実とルールとの混同による誤解」を呼ぶ危険性があることをすでに知っているのである。作曲家・演奏家・音楽学者の言葉を借りるなら、たとえ、理論において規則禁則は普遍とされ事実の説明を怠ったとしても、和声学が対象を概念的に規定する言説においてどのように操作的であったにしてもである。とはいえ、ある規則主義者はむしろ説明することで事実を隠ぺいし、ある和声学は定義することで事実を否定する。
 逆の立場からすれば、人々はその狭隘な枠組の中で、個々の説明はもちろん再検証によっては偽りになるかも知れない概念に従属させられ、そればかりか、基本的な思考形式において、事実の直接的な考察にもとづく現象間の原理法則よりも、モデル構成の要素となるルールの方が無条件に信頼できるものだと信じ込まされてきたのである。この芸術的な遺産を支えることができない唯我性は今さら驚くようなことではない。その時代の作曲家が作品を想像しているときに考えていたことを、人間の聴感覚に備わっている音組織の多彩な色調を認識する能力を再現するようなものではない。単調なモノクロ長・短2階調に限定し、構造解釈としてバロック・古典派から現代の音楽まで、作品分析においては借用和音論をのべつ乱用する。しかも、正しい和声のあり方として肯定されるのは、和声の歴史的・文化的ディテールを執拗に規定の外においた規則禁則というルールを遵守している現象のみであって、他の現象その他一切はすべては規則違反あるいは例外的現象であるにすぎないと定義する構造認識である。このように自己批判的能力を失った認識論は、理論の構成基盤に新生面を切り開く理論史を踏まえれば科学以前の存在でしかない。これでは私たちが知ろうとする対象に対して様々な視点を取り、多くの概念を分かちもつために行われる考察や分析は尽されていない。だから、概念規定においては個別的で相対的な理論独自の専門性が必要であるという理念に導かれた概念的方向と視点でさえも、実践的帰結を無視した限定的部分的な概念規定にまで堕ちてしまっている。これが旧態的な和声学の理論状況である。だが、本来的な理論構築を考える認識者は再び問うであろう。理論と演習がルールという一元的志向の枠内にあることによって実践的であろうとすることは、合理的な古典の実践的存在を相対化できないという限界をもたらす。要するに、歴史的・文化的資源と結びついた根源的な課題を放棄する前提条件をはじめ、認識根拠とその過程に対する批判的な問いかけに背を向けてきた概念的方向、そして「人間が歴史および実践において伝承してきた共通感覚を学ぼうとしている人々」と「対象との実践的交渉もできない実証性に欠けるルールだけで満足させられてしまう人々」とが対立するような和声学、その理論的失点は大きい 。
 理論家によれば和声構造とは「志向的な対象」である。いうまでもなく、それは作曲家(人間)の想像と実践によって現実化されるものである。まず、その志向的な対象の考察・分析が和声構造の枠組を与える。そして、この枠組が何らかの実体概念を与えるようになる。和声構造の現実とは人間の創造的な志向性によって統一された実践的存在である。これが和声構造の基本概念となるものである。したがって、和声構造というものは和声学的な理論構成法に従うなら「創造的な志向性」「実践的存在」「対象の考察・分析」といった3つの基盤に分けられることになる。このように、和声学は対象に関わる決定的な事実と不可分に結びついて、認識論拠とその過程を提示しながら理論体系を構成していこうとするものである。


 直示的定義
 規則主義者にとって、音楽文化社会に受容されている古典の和声構造特性が理論構築のための分析対象であったことはなかった。そ創造的な志向性と実践的存在はつねに例外的な対象であったからだ。そればかりか対象の考察と分析も放棄したからである。少なくとも、規則主義者が、西洋ではすでに和声構造の対象として関心のないピアノ初級教則本などを対象にした和声分析を批判的に問うこともなく、それに基づいてテキストの編纂をしている間はそうである。節度を保てばいいものを、そういった事実を限定し過ぎた概念規定は、現代の情報化社会のもとで様々な作品検証が可能であるにもかかわらず、構造特性を規定する合理的な定義矢和声分析論の基礎能力の不足よって、私たちの思考の概念的方向となる共通感覚(常識)を繰り返し歪曲する。

 たとえば、「西洋音楽の基本的な調構造は長調と短調である」「バロック・古典派和声様式は 19 世紀的機能理論に基づいている」「ドイツ的な機能理論に依拠する構造を崩さなかった印象派_フォーレの和声特性」という唯一論的な概念判断、さらには「現象のすべては同一性によって支配される」の超越的思弁にみられる極端な視点など、その和声的思考は概念規定の妥当性を当の対象に尋ねることをしないばかりか、概念のもつ内包の矛盾に対しても無関心であり、何のことはない、様式の底に潜む「構造上の特性とは何か?」を見定める全体的な考察と分析を怠っているのである。したがって、現代の実証的研究では明らかとなった古典和声の起源的構造とその歴史的経緯を今もって説明できないでいる。

 私たちは、必ずしも旧態の機能理論が符号化によって解決できるような問題しか扱うことができないわけではない。和声構造の各問題領域に固有な和声法と深く関わるような場合、その定義において必要なことは、概念と元の対象とが合致しなくなった言葉だけの空虚な普遍性を語るよりも、とにかく音楽文化において一般的に熟知されている現象の現実的な概念を見い出し、その対象がもつ分析特性について説明的思惟に役に立つような「直示的定義」を行うことなのである。
 もはや、概念が形成された認識根拠とその過程となる対象についての論述ではなく、「規則に合っているか、合っていないか」「禁則を遵守しているか、いないか」という経験的明証に逆らった正誤判断に訴えるだけで、強い意欲をもち、それをやり遂げようとする人間の実践がいかに多様なものであるかを暗に無視する。その唯一論的な理論と論理は現象の重要な問題から目を逸らす、しかも、ルールによって矮小化された認識基準の産物であるばかりか、そこに示される門前払いのような言説は壁に向かって語るよりも空しい。規則主義はその普遍的な理論としてルールを持ち出してくるが、現代の順を追って進む理論家たちに言わせれば、これは和声論ではなく、断片的レヴェルの一つの現象を構造全体にまで延長した言説にすぎない。ルールを吟味することは、和声学の一つの仕事である。それゆえ今日、この認識をさまたげる強引さや退屈さ、そして概念規定に関わる定義の非論理性や認識の発展には役に立たない概念に対して信用をおく人間はほとんどいないだろう。
 人間に備わった自然な聴感覚は個人的な色彩が極めて強いものである。あえていえば、芸術作品に示された伝統的な和声音楽の数々を考察しながら、同一の対象に対して様々な視点を取り、それぞれの洗練された個性を探していた方がずっと実りが多かったはずだ。


 理論構成
 日本的形態の機能理論以来、和声学の理論と論理、そして演習は日本人の嗜好に合うように仕組まれた規則禁則によってなすがままに支配されてきた。こうした人間行為の実践的な対象に備わる価値の規則化は、和声生成の歴史的な源を説明してないし、事実の考察に基づく法則や実践そのものを実際には何も説明していない。というのも、理論の価値についてのあらゆる問いを理論的・原理的に解明しようとするのではなく、事実とは食い違う正誤判断という認識基準内に閉じ込めることによって、結果的に私たちの周りにある古典音楽の経験的実在とは疎遠になるからだ。
 もっと危険なことは、「理論の価値は理論以外のものによって正当化される」という考えである。それが認識方法であれ概念規定であれ、まずは理論の実証的なあり方を例外視しておいて、「理論の価値を何か別の目的のための単なる道具」と見ることは、それが普遍的といって固定化された理論と演習に服従させるという「去勢の論理」と同じである。もし、理論に現実を経験する主体がなければ、それらは死んでおり意味がない。それらをそれだけで価値があるものとして扱うことは、概念の内包を明確に与える定義や知識の成立する条件のゆがみを助長する。

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 はじめから論理立てを可能にする内容にはなっていないからだ。西洋音楽の歴史における枠組と諸現象を仲立ちとした言説でもない。対象に対する概念規定とその適用がこうなるのは、集団授業の学習効率をあげるための規則励行にとらわれ、古典的和声音楽の実体を別のものと取り替えてしまったことが原因なのである。論ばくを加えようと急ぐあまり、判断を誤る限定・制約という認識論、時間をかけて考察するという手間を惜しむルールの固定化、そして最短を駆け抜けようとする規則主義が逆の結果を招いた。この出口の見えない理論構成が流行のようにもてはやされると、なおのこと理論構成はゆがんで見える。これが、ほぼ四半世紀近くにもわたって放置され隠蔽・排他性を内在させた理論と演習の実態である。
 疑似和声の現象を対象にした仮の認識基準は、いまや実践的存在を洞察し人間としてのバランス感覚を回復するように求められている。理論と演習は、歴史的にその価値に対する認識は事実との照らし合わせで問題にされ、論理的な問題もそれによって表面化するものであった。現代では論理実証主義的な見解で論じられる、概念的終着点が誤って仮の認識基準と同一視されているが、このルールによる基本的基準は、その理論の中での使用価値を離れれば何の芸術的価値ももたない。和声学が合否選別目的につくられる受験和声のモデルに拘束されたことは、文化社会における芸術という概念を単なる物扱いする行為に行き着き、それを理論構成のなかで言及することにはまったく関心がなかったことを意味している。芸術家が遺した作品・書簡・遺品を保護・保存するのに莫大な代価が支払われているのに対して、それぞれの実践的実在の無限の豊かさに対してはほとんど皆無といえる。
 私たちは、概念規定と認識方法を安価な概念規定の中に閉じ込めるのではなく、価値問題の道筋からすると、作曲家は実践においていかなる過程をたどったのかを見い出し、それらを現実的で有効な経験として考え直すことで、歴史における伝統性と創造性それ自体が人間の強力な体験の記憶であることを知るのである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:33 | 02 - 知識獲得の可能性 | Comments(0)
2017年 03月 04日
03 - 実践的実在がもつ開放性 / 和声学序説:基本的前提
03 - 象徴事実


「 実証と疑似 」


 モデル形成
 学問的知識としての和声学について述べる前に、いったい私たちはなぜそれほどまでに和声に対して深い関心を寄せるのかを考えてみたい。音楽活動上の必要性とか、音楽の歴史・文化における重要性もあるにはあるが、何よりも大きい理由は、人間の好奇心であろう。和声の世界は閉鎖的か開放的かとか、あるいは和声はどのようにして存在し始めたのかなどの疑問は、誰もが心に抱いた覚えがあるのではないだろうか。

 _和声の世界には規則や禁則があるのか。それとも自由な存在か。限定や制約があったとすれば、それはいつの時代か。また、_規則と禁則の様子はどうか。和声を構成する根源的な実体概念とは何か。そして、_和声には何か目的があるのか。公理的方法による原則_概念定義や声部書法_があるとすれば、不明確な概念定義から解放されない公理すなわち"限定進行"と"禁則"は特別の意味をもつ存在なのかどうか。これらに対して、オルガヌムの時代から約 1000年たった今世紀になってやっと、和声学の知識を駆使した実証的研究による答えが出始めたところである。一般的に言えば、和声の世界あるいは実在する和声現象という言葉には、多様性と変化性で特徴づけられた包括的で相対的な対象という意味が含意されている。現代の和声学といわれる学問分野が、ほとんど実在する事象現象の読解・観照・享受によって構成されているのは、この言葉に対する意味内容と関係しているからであろう。日本にも 20 世紀後半、西洋古典音楽の和声の様式特性に興味を示す人たちがいた。しかし彼らの手からは、検証分析の結果から抽出された歴史的・実践的実在がもつ開放性(あかるみ)は出ずじまいであった。

 私たち日本人にはその事実を確かめる歴史も実践もなかったというのだろうか?
 多くの西洋人が抱いている疑念がある。それは、「和声の世界を学ぶとき、なぜ文化社会が認める芸術作品の和声に興味をもたないのか? たとえどのような反論があろうとも、和声学をよみがえらせるためには、機能和声の規則という原則論の枠を超えて、現存在いわゆる古典音楽をも視野に収めた客観的実在を表舞台に引き出すことだ」と彼等は語る。
 歴史的な遺産である古典的規範の認識根拠とその過程を、特殊な概念_限定進行・規則違反・禁則_によって自己批判的に問うことを放棄してしまう理論の現状が、海外諸国の音楽理論とリンクできない内容で行われている矛盾を外からはっきり印象づけてくれる。彼等が私たちに語ろうとしていることは、古典の音楽が和声学のあり方に照らし合わせてどうなのかという議論ではなく、その全方位的な芸術概念そのものが、現代社会における音楽文化を通して人間の想像力に寄与しているという事実である。まさに、J.S.バッハの和声概念は 18 世紀以降 21 世紀を超えて多方面に影響を与えていく可能性を秘めたものであり、バロック的ともいわれる現代の音楽創造の分野にとっても開かれた質の高い指針となり得るもの、という思考である。
 なぜこのようなことを述べたかというと、和声学は形骸化した規則禁則に代わり、客観的実在性を肯定する複数のあり方と、それらが並立した諸構造特性を肯定し容認することで、理論としての内的構成をより強固にしていくからである。その瞬間、確かに公理的理論は論理的安定性を失ったかのように見えるが、それは現代に生きる私たちに課せられた解決すべき命題となり、和声理論の構築に必要な「新しい時代の事実に即した内容豊富なモデル構成」として浮上する。古来、理論家が和声を論述するには「論議の出発点」となる検証対象を得るために、芸術作品の考察と分析は「必要条件」となったのは自明なことで語るまでもない。中世の理論家「ボエティウス Boethius/De institu-tione musica 音楽教程/Book one」_理論構成の前提条件、「カシオドロス Cassiodorus/Institution-es」における_音程論と和声システム、そして「グラレアーヌス H.Glareanus/Dodecachordon 12 弦論 1547」_理論のあり方の論及以来、現代にいたる諸研究は、それにもとづいた明証性をともなう変容と再生の歴史であった。彼等は音楽理論についてこれを合理性と両義性を確保するための「よきパートナー」と考えていた。その考えによれば、古典の分析は和声学の主要な教程・課程として位置づけられ、音楽理論を中心とする教育にとって欠くことのできない教科である。また、実際と定義とを分断してそれぞれを領域化するのではなく、歴史および文化的な意味をもって理論構成に加わるものとなる。
 とはいえ、人間が享有する自然な和声感覚を2分化し、方法論的に一方を排除してしまう前提、また現実体験から得られる概念に対して、直接的な関係性や柔軟な役割構造をもたない観念的な規則、そして例外区分を隠れみのにした理論の立場からは、古典和声の洗練された感覚と優れた技法の説明はできない。公理論の問題が古典音楽の認識論全体の一部でしかないのは事実であるが、音楽文化や創造的人間が歴史上に残した実践的存在とその共通感覚が把握できる解決策を見い出せる概念化なしには、和声認識論の将来を語ることも難しい。この深刻な問題は、理論とその演習をめぐる問題というよりも、いまや和声学基礎論のモデル形成すなわち実践的課題それ自体が問われはじめ、類としての和声学全体と関わるようになっている。


 基礎資料
 特定対象の検証において、たとえば「規則認識に準じた対象」と「準じていない対象」とを比較した場合、そこには美的感覚の主観性と客観性、快・不快の受容基準などの限界を確定できないため、一概にどれが正しいか、どちらが誤りかを決めることはできない問題がある。つまり、どのような創出のあり方にも、一つのあり方に「適うもの」と「適わないもの」とがつねに存在し、しかも、この両方を含む多様な構造を表出する相対的な平衡感覚が求められているからである。もし、そのような実証的精神によって裏づけされた理論的な観点から現実的な和声を論述しようとするなら、ある特定様式の多様を提示するだけで、事実に適応した理論展開は可能なのである。なぜなら、歴史上のどのような様式も、先行した時代が遺した伝統的な諸原理の上に未来を創造して行く存在であり、その理論は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ、時代と共に変化発展していくものであったからである。
 和声の概念とは、歴史的概念である。しかも文化的概念である。とはいえ、現在と過去を未来につなげる構造認識を見失った和声学の行き詰まりは、文化社会にとって重要な教育領域を舞台に、ついにその有効性の問題にまで発展したのである。なぜ理論的矛盾の問題は改善されないのか? 和声学が理論的基軸とする定義概念についてのコペルニクス的転換は遠い昔のことではない、と言っても言い過ぎではないだろう。これまでの検証と概念の論述で明らかなように、芸術作品には旧態の機能理論が説明していない歴とした和声領域があることは証明されている。それらは西洋古典和声の様式的統一を通じて、優れた音楽性が要求する人間の合理性と自由な発想の_「開かれた実証モデル(多様性・変化性)」_となり、教育や文化活動における基本的基準となるものであり、社会的な関心のもとに開示される知識体系であって、どんな理由があるとしても例外視扱いされるものではない。なぜなら、人間の真の想像力は人間の歴史や実践の中に生き続けているからである。とすれば、私たちの経験的実在すなわち和声の世界に展開された実践は、実証的研究のための的確な基礎資料となる。
 普通の感覚をもった一般人が尋ねたくなるのは、確実な認識方法である芸術作品と向き合う体験が無視され、そればかりか、人間の実現行為には無関心で空転する_「閉じられた疑似モデル(限定制約による声部書法)」_だけがなぜ必要とされてきたのか、ということである。和声モデルは実践的事実をどこまで伝えられたかである。それが私たちの思考の概念的方向であり、その美的方向に従うことがまさに事象に対する概念の適用である。しかし、いま私たちが生きている文化社会の現実をラジカルに見据えなければ、和声学の理論構成は空論に終わる。とすれば、和声学がそれは旧態の規則禁則という規格以外の概念を提供しないということには決してならないのである。古来、音楽芸術とのコミュニケーション的行為を求める理論家は「音楽文化にとって古典音楽は例外視できない現実であり、和声学は美的対象も規則主義者たちが自己テーマとした唯一性の概念にだけ求められるものではないと主張し、またルールづくりに対する規則主義者の満足度がどれほど高くても知る機会を奪う合理的な理由にはならないと、そして対象の事実に基づく考察と分析こそが歴史の審判に堪えることができる」と指摘している。そのわけを説明しよう。


 不可欠条件
 事実の実証的研究での画期的な発展の根底にある人間の思惟・選択・実践を正しいとすれば、和声概念はただ一方向の属性に収縮するのでなく、むしろ和声の世界の基本的な特徴は常時進化していると考えられる。とすると、西洋古典音楽の様々な和声は一元的な概念と構造状態を意味せず、和声の世界は限定制約をのり超えた開放的な構造として再生成されると考えられる。かつては唯一性の概念による限定的和声像の固定化が流行していた。だが、和声の世界はその開放的循環を将来も繰り返し、和声の世界の一元化は限定進行および禁則の妥当性を主張するための便法としか看做さないという考え方が一般的になってきた。古典音楽すべての考察分析は不可能としても、 20 世紀後半に進展した「開かれた実証モデル」が、人間の想像した和声の世界が開放的な概念と構造を有したものであることを教えてくれる。和声の世界のなかの概念と構造を限定制約によって均一化してしまうと、概して和声の世界は一元的な構造で成り立っていると考えることもできる。この場合、「歴史的・実践的実在」を対象とする実在和声には、相対的特質に対応した解はあるが、「閉じられた限定進行や禁則をなぞるだけの声部書法」を対象とする疑似和声に対応する解はない。言い換えると、均質状態の和声の世界は存在しないということで、限定論はこのために自明なものではありえない「公理」をつくりあげて均質状態を仮定した。しかし、その後、和声の世界の非均質性が確認されたことから、この公理の存在理由もなくなってしまい、均一的な和声モデルを真面目に検証分析する必要はなくなったのである。
 ところで、検証分析は「なぜ」に対する答えと考えてよいであろう。ということは、ものごとの原因・理由あるいはそのものごとに起こっている構造などを明らかにすることを検証分析と見なすことは、一応の妥当性を認めることができるからである。そして、このようなかたちでの検証分析が、和声理論の領域で問題になるのは、説明がどのような論理的構造をもっているかという点においてであり、その際に対象となるのは、広い意味での実証的研究による説明であると考えるのは、理論界の一般的傾向である。
 古典音楽の特定領域における「西洋18〜19 世紀_バロック・古典派・ロマン派和声の検証分析データ」が示すように、また、時代を遡ればその起源となるオルガヌム考察を出発点にした「著者不詳/Musica enchiriadis 音楽教本」および「Musica enchiriadis の注釈書_複合音程構造(シンフォニー)について/訳 O.Strunk 」の解説が示すように、生きた創出概念を対象にする事実探究のなかに未来のヒントが隠されているのである。和声学が本来目的とする事象の考察意義はこの点にかかっている。「重要なのはどんな影響や感動をあたえられるのか、そこから事実を学び対象に対する自らの認識の発展を確かめたいと思う人のためかどうかであろう」。従来の規則禁則で考えられることは限られている。というのも、こういう仮象を対象にした認識基準には実践的事実の検証的ネットワークがないため、その理論は限定制約の世界に閉じこもるしか道はなくなるからだ。現に「価値ある独創的な概念と構造」の現実は、経験的実在の考察と分析を怠ったルールが壁となって、事実のままに具現化されることはない。
 事実の再生可能な検証と再検証によって保証される和声分析において、単なる唯一論的な概念規定で個々の対象が結びつく時代はもう終わったのだ。現実的に理解可能な現象を証明できない理論構成になれば、その理論構成は共に形而上学的仮定にいたるが、人間の意志に固有の自由を認めない概念規定は論理的自明さと表裏一体の空虚さを伴っている。和声理論の将来は完全に予測し得ないという点で、少なくも事象の実際的な認識論を必要不可欠の条件とする。私たちの時代は知識の体系的構造に関わる考察と分析状況の不十分さを指摘している。旧態の理論が前提として掲げる認識基準が、なぜ歴史的な文化において証人となる_記憶システム=古典和声の実体概念_にあらわれる「開放的象徴事実」を説明できないのか、という普通の議論をしている。したがって、その基準は、認識上の深刻な空白を埋め尽くそうとするものではない。いずれにしても、もし公理あるいは規則禁則を遵守した演習があるとしても、事象の実際的な認識論を必要不可欠の条件とする和声理論はまだできていないことは確かである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:32 | 03 - 象徴事実 | Comments(0)
2017年 03月 04日
04 - 人間能力の根本原理 / 和声学序説:基本的前提
04 - 人間能力の根本原理


「 概念的解明 」


 成立根拠
 和声現象の多様は多数の実践的事実によって説明される。その実践的事実を語るためには、その事実を現実的に理解可能にする何らかの場を必要とする。言い換えるなら、事象の事実は様々な現象が関係し合って、一つの機能的な全体を生成していることを示しているからである。したがって、他のもの_個々の現象_に対する確かな認識根拠とその過程の説明がなければ、対象の概念の規定やそれに対する概念の適用の説得力は失われる。たとえば、旧態の和声理論には事象の事実を示することもなく、実体概念の内包は検証もなく放置されたままになっているが、この概念的方向とその視点は、規則主義的な考えにおいては超越的思弁の十分な対象となり得るとしても、説明的思惟の役には立たない。その意味で普遍的・恒常的であることからはほど遠い。しかも、表出にとって人間的思惟に対する特殊な正誤判断によるものであり、そこには理論的にも論理的にも、それが事実であるか否かを見分けるための基準的弱体化が生じているといえる。
 理論とみなされていたもののうちに、すでに目的が実現できているといっても、依然として進歩発展のない理論がそれ自身で自己目的と化することによって空洞化現象が起きている。これらのものは、やがて音楽家や研究者にとってその存在意義を失い不必要なものと化する。とりわけ考察と分析領域を故意に狭める特殊な理論構成は、それが掲げる知識の体系的構造を明らかにした理論という建前にもかかわらず、最終的絶対理論の思考論理に引き寄せられて行く誘惑にさらされてきた。経験的世界の事実のなかに概念的方向を読み取ろうとする和声学が成立可能であるとするならば、西洋 18 世紀_バロック・古典派和声音楽の一般的な対象全体の完全解明なくして存在意義は望めないとした規則禁則による理論と演習は、その考えを示す思惟的動機を全面的に失うであろう。別の言い方をすれば、絶対理論の論理が規定した概念的方向は、私たちに対する対象の関わり方を示した認識基準となるものではない。このことはいわゆる理論と演習は古典的な芸術作品には関係がなく、それに関連しているものではないというレヴェルの論議にはならない。それは、音楽文化論および音楽教育論に関わる世界観と結びついた新しい概念形成に対する拒絶であり、すでに現代人が理論情報としてもっている様々な現象・事象・要素に関わる各構造間の関係がどのように存在するのかを、和声学的手法による分析についての思惟説明がなされていない、というだけのことである。
 これまで述べてきたような事実に対する誤解はすべて、規則禁則が主張する「先例主義的な概念定義」、論理の飛躍した「自然な概念認識への必然性を原理的に解明することの否定的言説」から生じている。古典音楽を創造した作曲家たちの作品に対して、丁重な断わりもない例外箱の持ち出しには、事実論証の量と幅が広がっていく中で「ルールは普遍」の説明が正当化できなくなり、ほんとうのことは隠したい、という思惑が透けて見える。とすれば、限定進行音・禁則のルールは、現象の差異が自己批判的機能を失った正誤判断によって相対的特質の片方が排除され、その実体概念の本質的規定が操作されてしまったものなのである。
 概念規定の歴史は、いままでに、音楽的な事実を和声学的な事実として扱ってきた。しかし、和声について「理論的な定義」を行なおうとする場合、とにかく「事実」の問題を扱わないのであれば検証は前に進まないだろう。事実検証というものは、つねに「考察される事実」または「分析された事実」のいずれかの形をとる。それは人間的な思考と行為の産物であり、また何らかの言説を残すことから論議の対象となるものである。検証による概念規定の言説は単なるルール的なものと同じ意味におけるような概念規定ではない。つまり、和声学的な概念規定の言説は他の対象すなわち検証される音楽的な事実がなければ成り立たないのである。
 検証分析を伴わない理論はともすると一人歩きする恐れがある。序章からルール主導という過程を歩ませ、画一化された基礎論の現状は、大作曲家が実践した和声法の実例を示すこともできず、例をあげれば、古典作品の事実が認識不可能に陥るとなると、機能論的思考が実体論的思考への配慮を無視しているために虚構のもとで病理を重くしていく一方である。と同時に、楽曲分析に関する音楽大学の学士研究論文、大学院修士・博士課程のそれは「基礎研究や論述基盤となる基本的前提内容の質性」、また「検証データの分析レヴェルの信頼性」を低下させ、「和音表記」を含め国際的水準にさえ達していない事態は何が原因なのだろうか。その原因として、表出をできるだけ限定制約することによってその表出の完全な実現を期待する、という疑似和声の概念定義による規定内容の閉鎖性の問題がある。可能性が多ければ多いほど、可能性への能力不足によって思考停止になる率はそれだけ大きく、表出概念の形成過程には実践能力に対する要求をできる限り単一化する和声的認識の固定化があるからだ。とはいえ、単にその次元だけで済む問題でもないのである。これは「表出の世界をありのまま開示することができない基本的基準」や「対象の諸現象を否定する疲弊した基礎論」の問題にほかならない。

 私たちは過去の遺産を掘り起こしそれを再生することで自分となり、その自分を次の世代に引き継いでいく。歴史的・実践的事実を思考するということは、連続して奥深い世界へ開かれているものであって、誰でもそれに近づく可能性において自由である。和声に関する理論は特殊なルールの累計的な集積ではない。しかし、旧態の機能論的思考が、分かりやすいことだけを求めて、客観的実在性に対してどこかで線を引き実体論的思考を断ち切っていたのではないだろうか? 日本の1970 年代の和声理論の問題を論議できない潮流にも、具体的な事実領域への顧慮が欠けており、それに対する認識は希薄であった。一般的な和声理論の妥当性・確実性を踏まえれば、柔軟な思考能力をもった現代人は事実と合致しない規則禁則を思考の原動力にすることをやめてしまったのである。古典音楽とのコミュニケーションが途絶えた前時代的思考法が、その考察と分析を基盤にする直接的な実証研究の現代的復活に置き換えられ、規格理論や感情理論に依存する理論と論理は、再構成されるようになった。旧態依然としたルールを再確認することは、そこに留まることではなく、限定や制約の成立根拠を明らかにするとともに、観念的世界観を克服することであろう。我が国の和声理論の基本的基準に関わる指向にありがちな、和声現象を倍音共鳴論の部分適用だけですべてを解釈しようとする立場からの脱却である。


 反転している検証結果
 まるで他人事だ。旧態の機能理論による知識体系の限界がこれほど批判されているにもかかわらず、その公理や定義が対象の概念規定における結論を導きだすための判断条件や、他のものと区別するための基本的基準とされるのはなぜか? また、私たちが実際に体験する古典音楽の事実と矛盾する限定・制約が、いまもって正当化され続けている理由は何か? こう問いかけたくなる音楽人は多いだろう。その問いかけが起こる原因は、現代の実証主義的な研究結果を受け入れ、実在を再検証することもなく、規則主義者が、カルト的に、 19 世紀的機能理論の立場を唯一の理論情報として取り入れ、実体概念の本質的規定の認識根拠についてみじんも疑いの念を抱かなかったという点があげられる。そのうえ歴史認識の不足によって生じる誤った象徴化を見過ごしてしまったからである。 20 世紀の理論家に言わせるなら、一般的に、本質的概念規定は経験的実在に向けられ相対的な視点から行われるものであって、もはや旧態の理論に示される事実検証とそれについて述べている言明もない禁則・不可などという概念規定は存在しない。この観念的に論じられる規定は、時代の移り変わりと共にその事実誤認に対する厳しい指摘によって窮地に立たされているのであり、いまや古典音楽を対象とした検証結果それ自体がすでに反転しているのである。
 たしかに和声学の理論や論理もその演習も、工夫のない紋切り型に寄りかかった偏見をそのまま繰り返すだけでいまさら「もの」の役に立つようなものではない。根音5度進行による属和音機能を機械的に濫用する何もかもがそこに集められてしまう特別な概念、たとえ話でしかない借用という和音解釈、全体からみるとひとつの現象でしかない限定進行、そして、多くの実態を厳密に考察していないためにそう思い込む正誤判断、明けても暮れてもどれも同じ鋳型のくり返しでは和声学が面白いはずはない。問題なのは、従来の和声学において 19 世紀的な機能理論と日本の規則主義者が考えら限定・制約が完成された絶対理論として強引に位置付けられるところにある。ことあるごとに古典音楽の実践的存在は和声学とは関係がなく馴染まないものであることを強調して、定義の正当性を確立するために芸術作品から距離をとり、古典音楽の事実は例外的概念とする規定である。言い換えれば、現代の文化社会が認める芸術作品の和声の創出法を、歴史的な伝統性および現実的な法則や原理をもって行われるのではなく、その認識根拠とその過程が思弁的な規則禁則でもって行われるとする認識基準である。
 学習効率を競う規則主義は、手間が省ける事実認識の曖昧なものを選ぶ。勢い、ひとつ覚えで演習のできる安直なルールを重用する曖昧なものも出てくる。このようにして私たちが求める認識根拠には、事実の偽装という「すり替え」が素知らぬ顔で同行することがある。見抜けない人間を責めるのはたやすいが、古典の隠ぺいで成り立つ理論は危うい。とはいえ、音楽が音楽である限り、どんなに理論形成の方法を整えてもミスは起こる。ときによると、機能論的思考が実体論的思考への顧慮を忘れた世界観は事実の概念化において考えられないような誤りをおかす。それゆえ中世以来、理論構築において一般的な古典を対象にした事実考察と検証手続きという防止策が立てられ、その対象と分析状況の如何によっては規定全体の真価が問われた。対象との関わり方を芸術に携わる多くの人が論じてきたように、他の学問と同じような重みをもって存在する和声学の概念規定は、私たちの能力発展のための確かな認識基準となるものであった。もし、認識の根拠づけとなる一般常識が抑圧を受けたり、視野の狭い粗野な知識を強いられるようなことがあれば、それは理論的成熟からほど遠い状態にある。
 その原因は、単に「理論体系の矛盾」の問題だろうか? そのような原理しかもてない「和声学の主体性」の問題なのか? あるいは現代の音楽文化を意識した「基本的基準」に必要なものは何かを検討できずに、思いつきや便法だけで走りまわる「概念の適用」の問題なのだろうか? ともかく誰もが自覚していることは、和声学はあくまでも音楽理論における主要なカテゴリーであるという現実である。その役割をより明確なものにしようとするなら、「音楽性とは何であるか」を論述するために「人間の音楽的行動とはどのようなものであったのか」について、私たちはあらかじめ認識しておく必要がある。


 実証的論述
 限定という日本的形態の和声学においては、概念規定の再検証は決して行わないという不文律が常態化していた。つまり固定概念を変えようとしない認識構造がある。しかし対象を概念的に規定するということは、私たちに対する対象の認識方法を実証的論述で明確に説明することであろう。たとえば、導音進行に関して主音へ上行する現象だけを集め、まとめてひとつの導音の概念をつくることもできるが、私たちがそのような概念をつくらないのは、それが認識の発展には役に立たないからである。それにしても、概念規定に向けられる方向もしくは視点は、芸術作品の多くの構造とは無関係であり、本質的に体験的実在の芸術的な表出価値をもたないものという論理の意味を考えると、私たちはそれに答えることなく話をそらしたまま通り過ぎるわけにはいかないのである。さもなければ、その象徴的概念の独自性をとらえ損なう危険性が生じてくる。
 もし、発想の幅と量がきわめて低いルールは単にユーモアの類いであるというのなら、いっそのこと、そうした趣向(便法)を意味するサブタイトルを付け加えればよい。それは、現代の音楽文化に対する社会性もなく、規則主義者が執拗に発している概念規定によるものであって古典的事実ではなかった。もっとも、こういった限定・制約が私的な経験則上どんなにすばらしく見えても、あるいは見えるからこそ、実践的世界観を放棄する理論と演習の基本的基準になってしまったのである。この概念規定は、多様なるもの実践的存在を考えるための、ある一つの現象をルール化したにすぎない。それゆえ、ルール自体が事実を事実として論述することをあきらめてしまったことを理解している人間が、「こんな学習をさせて何になるのだろう」と嘆くのは日常茶飯事である。彼等は、浮かれた話に横たわる理論の理不尽な内実を見てしまった人たちだ。「概念規定において一番不思議なのは、対象に対して一体どのような分析を行ったのか」という疑問を、また、そこを明らかにしない不透明という意味では証明のない先入観と一緒であり、「規則禁則論つまりそこに認識論を欠いた限定進行音」という概念、さらには「機能論的思考から逃避する偶成音」という定義の看板倒れを感じている。
 こういう理論があらわれた後には必ず難問が山積する。たとえば、理論には、諸現象の象徴化の論理的言説において「ある現象がルールになるまでのプロセスはどのようなものであったのか」についての説明を行う場合の基本的な問題がある。つまり、事実に基づく直接的な証明もない認識方法はもとより、その世界で実際に機能している諸現象を禁則・規則違反と定義するルールを指して、「古典作品の美しい響きを分析したら、それがルールとなった」「それは美しさの普遍的なものである」という、実践の事実説明を放棄している概念規定だけが構造的な認識基準として提供されるために、その現実性と有効性とを確保しようとしてもそれができなくなる大きな問題である。
 以上のようなことを考えあわせてみると、歴史的・文化的に容認された芸術作品のさまざまな和声構造を拒絶することで、論理的矛盾を抱え多義的な価値を見い出せない定義は、普遍的な原理の発見や知識の基盤を経験的実在に求めず、唯一論の論理に合った括弧付き条件を示し規則禁則を使い分けているのである。こんな表と裏のあるやり方では、いかに巧妙な手法を用いたところで満足のいく言説的論述は得られないだろう。したがって、現象の部分的な概念化に依存する理論とその概念を前提にした演習には、多様性を統一性として理解する能力育成のための定義概念は構築されていない。というのも、現代の知的状況下において、芸術作品における実践と和声学の象徴的概念とがこれほど相反するのであれば、耳を通した現実体験で得られる現象の本質を論じることなど到底不可能なのである。一方を立てれば他方が立たなくなるからだ。機能理論、そしてエクリチュールにおける「何を対象に、何を認識方法として、どんな立場で命題に立ち向かうのか」という言説が明解でなければ、所詮そういった理論の質性は、他性をかえりみず前後矛盾したことを述べ、しかも、対象と概念の関係は擬似的なものから媒介されたものへと変化し、実践的事実の多様性・変化性を確保しようとする実証的思考は希薄化していく。歴史はその矛盾をこう形容していた。「規則禁則に奉じる唯一論を徹底的に信仰する規則主義者は一見してゆるぎない信念をもっているようだが、それが何であるかが分からない」。
 ところで、人間が変化することがなくなる時はあるのだろうか? そのような時があるとすれば、その時とは歴史の終結した世界なのである。人間が根源的に実践的存在として変化する限り、また、文化社会が独自の芸術を創造する限り、観念的な人間の行う象徴化は暫定的な言説にすぎない。その意味でこの言説は、人間の聴覚に備わる普遍的な能力かつ共通感覚の決定的な無化をもたらす。ここでは人間的なロゴスも消滅する。歴史性や具体的な実例を中心として組み立てられる現代の実証的理論が、歴史の終結によって閉じられてしまう定義概念を学術的に受け入れ難いとするは当然であろう。
 和声学に関わる「言動」の意味は単なる私見の釈明ではなく、将来的に教示する象徴的概念が理論発展のための内容として適当かどうかが評価される。和声学が究極において音楽文化社会に実在するものについて洞察し、それは対象の現実的な法則を見い出すための確かな認識方法であると論述するとき、理論は西洋における古典作品と伝統的に継承された理論史を考察することが和声学の大前提である。これに反し、その作品の考察や分析は、また歴史的経緯の考察は本義ではないといって人任せにしているにもかかわらず、「望まれている概念規定やルールは古典音楽における正しい和声のあり方であって、それに関して誤りはなかった」と強弁を張り、その正統性を擁護しようとする規則主義者や理論解説者が今もって和声学的唱導の先頭に勇み立つ由々しい問題がある。芸術概念の美的な価値は、規則禁則による正誤判断の試練を受けなければ、それを学んだことにはならないという見方は思い込み以上のものではない。換言すれば、実証的研究によって得られる多数の現象を排除する唯一性の概念は普遍であると決め込む理論と演習が存在したことを物語る。しかし、このような概念は、超越的認識論の対象となり得るとしても、古典音楽の事実に関わる説明的思惟の役には立たない。そこには歴史がある時点でその動きを停止し、人間の経験的実在から得られる一切の実践を放棄し、同時に事象の定義においては現象のどれもが同じ現象と捉える不可解な混同が見られる。この混同は、西洋 18 世紀_バロック・古典派の和声はもちろん、それ以前それ以降の歴史的・実践的実在を忘却したルールによって構成される概念定義において甚だしい。つまるところ、人間の文化的繁栄を示す顕著な古典音楽との出合いの中で、実体概念の検証と本質的規定を行う意味さえ失いかねない、しかも、事実の認識方法を考える思惟動機を排除するため、大作曲家たちが創出した構造特性を覆い隠す自己矛盾を引き起こしている。さらには、研究者集団を支援するどころか概念追求手段としての思考のメカニズムさえ提示できていない。なぜなら、理論の役割とは単に推論の道具として存在するのではなく、経験的実在の考察に基づく相対的機能の概念的解明であり、和声学とは、私たちが積極的に体験しようとする共通の感覚という人間能力の根本原理を、あらゆる道理の基礎と考える理論的・論理的記述であるからだ。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:31 | 04 - 人間能力の根本原理 | Comments(0)
2017年 03月 04日
05 - 分析状況 / 和声学序説:基本的前提
05 - 分析状況


「 認識基準の定義 」


 本源的論証
 現代の理論家の多くは、人間という歴史的存在やその思考と選択による実現行為の過程を、先験的な概念にすり替えてしてしまう規則禁則論の説明全体に警告を発している。学習経験者は聞いたことがあるだろう。たとえば「和声学にはこの音はこの音に進行しなければならないとする`規則`がある」という説明の後に、しばらくすると、「みなさん、大作曲家たちは本当のところ、こういった規則に従って創作活動をしたのではないのである」という言説に至るものである。そして「歴史上に遺された音楽作品、あのJ.S.バッハの4声体コラールは実にすばらしい」と口をきわめ賞賛していながら、「しかし、そこには`規則`を守っていない現象が数えきれないほどあり、それを見習ったりすれば、実習の学習効果が著しく損なわれるので、参考にしないように」といって排除してしまう。これらの言葉は、1970 年以降、流行語にまでなった。先にふれた「和声学の根本問題」では、「事実存在」と「本質存在」の論証がとりあげられ、そのそれぞれの概念の由来は問題にされていたが、この論証そのものの由来は論じられなかった。

♦         ♦         ♦

 そうした和声学は、限定と制約にとらわれた書法博物館`Web_和声 - Wikipedia`を指し示し、「このような`原則`に従いなさい」と述べている。実在検証という道筋が存在しないところに、さらに、この原則に向けられる多くの質問にあわてた説明は「`実曲中では、規則は無視されることもある`」と続け、本源性に対する認識不全と定義欠落という弱点をさらけ出したのである。
 「実在が論証されて事実存在と本質存在になる。この論証とその準備とともに、和声学としての存在の論述が始まるのである。事実存在と本質存在の論証の遂行は、単なる限定的概念の認識と定義といったものではない。それは実在の歴史における実践の本源性を示している」。もし、ある規則の判断が事実であることをはっきりさせるため、その根拠となる理由を提示できない原則が和声学を成立させているのだとしたら、当然その和声学には、「歴史的・実践的本源性の由来を明らかにすることどころか、それを問うことさえできない」のである。

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 概念定義は、すでにある「実在」の助けを借りて、歴史的・実践的実在の分節を果たすのである。その意味では、概念定義が和声を語るというよりも「実在が語る」のであり、概念定義はその実在によって考えさせられているのであると言った方が実態に合っているといえる。つまり、和声学は実在という生成の場へ眼を向け、そのあり方と連動することによって、実在に随順するのである。コステールは「あらゆる技術的な訓練を積んだ人たちが規則の無効を宣言している」と述べているが、これも同じ意味である。では、和声学の基礎と言われてきた機能和声の説明において、`それは無視されることもある`とはどういうことなのか。この無視が規則違反を指すことはすでに明らかであるのが、この無視という規則違反に`原則`はどのような意味を認めようとしているのか。そして`実曲`とは、バロック、古典派、ロマン派音楽のどれをさすのか、また、どのような作曲家のどの作品のことなのか。その作品は検証されているのか、いないのか。

 なんと音楽を愚弄する`原則`であろう。それは情報皆無の`和音の進行`である。作曲家が守らないこともある`限定進行`と実在とはまったく逆になっている`禁則`しか示さない未熟さ、古典音楽に向けられた現実否定のあらわれである。それと同時に、研究歴の少ない人間には和声の抽象は困難であるとして、規則の説明において事実を検証する過程がないのも、ある意味では古典音楽の私物化である。時代状況を相対化することのできない原則論は、元の対象からばらばらに引き離された`規則`の話はできるが、実在論的機能についての一般常識の話はできない。とくに、現実在という概念認識と概念定義が明確になった段階以降、常識の話というのは質の高い言説能力が問われるようになった。どのような話に発展するか分からない「問いかけ」を受け、それに対して「答え」を返す機転が必要になるといわれている。
 機能和声の`声部の書法`にあらわれる常套句_たとえば`例外規則`という用語は、結局は不明確な説明に落ち入り、試みられた演習内容も無惨な結果に終わったことになるが、`原則`からすれば「多様や変化は実在しないもの」あるいは「限定規定以外の実践的実在は"蓋然性"からはずれている」、という意味であろう。とすれば、バロック_モンテヴェルディ、J.S.バッハ、ヘンデルの創造が完了し安らいでいる和声は、「よくわからないもの」と定義されることになる。この定義のもとで実在認識がおこなわれるようになると、古典派_モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派_ショパンそしてシューマンやブラームスの和声は「ふつうの様態から逸れているもの」となってしまう。先ほどもふれたように、`例外規則`は古典和声の概念的本質を拒絶していたのである。
 それは、実在和声における理論的体系構造が概念定義の誤謬に敗北した構図である。いいかえると、実在和声についての概念定義が他者認識の弱い衝動論理の前に屈服している姿である。和声学の歴史のなかで、この実在を明らかにする概念定義は、オルガヌムの音程和声から中世ルネッサンスでは音程と3和音和声へ、さらにバロックの和声においては3和音の和声へと変わっていくが、その後を引き継ぐ古典派の調和声、ロマン派の拡張的調和声そして印象派の混合和声によって現実に生成された「実在概念」の優位は揺るがない。だが、その`声部の書法`は狭い舞台で、退屈なひとり芝居を延々と続けることが多くなっているのではないだろうか。
 そればかりではない。象徴事実の概念定義は、「何を対象にしてどのような問題を提起するのか」さらに「実在的な事象現象から何を数え入れるか」の実質的な認識基準をまるごと放置し、編者が理想とする4声体書法の内的決定の支配下に置かれた。したがってまた、声部の書法を範例とした疑似和声も長いあいだ晦瞑の域を脱しえなかった。すでに学術的な意味において、その定義の「端緒」においてさえ価値が問われた。つまり、和声学は、実在に由来する本来の知識体系は崩壊して、実体概念が消滅するような限定制約を規範とするものになるほかはなく、「現実的な事象現象の概念的本質とは何か」という命題は、検証手順が省略された和音の進行、限局的な限定進行や禁則、要するに、事実の存在(実在)と本質の存在(実在性)によって基礎づけられるその根本概念が無視される疑似概念にまで格下げされていたのである。

 事実を受け入れることは困難なことである。私たちの知性には人間の思惟・存在・実践に近づくのを妨げる偏見が巣くっている。その偏見は、古典音楽の壮大さや微妙さには到底及ばないとき、自分の本性に即した一義的な枠をはめたり,古い知識に動かされてありもしない限定的な概念を考えたりもする。それゆえ、私たちは絶えず「基本的前提」となる人間の実現行為によって立ちあらわれた対象と行き来して、検証分析を繰り返し「実体概念」の本源的論証による確認が必要であろう。それが概念的本質の実証研究ということである。それは再生の一形式である。検証において事実を私たちに教えるのは感覚である。そのために,たとえば古典和声が「包摂」している実践的な「実在性」を理論と論理のための認識基盤とするなら、それは私たちの聴覚に対する現実的な再生の一形式にほかならない。検証によって確かめられた構造特性をさらに確かめるために分析が行われる。分析もまた再生の一形式である。そうすることによって、その実践的事実の現実性と効用性が検証分析において実証されれば、それが「一般原理」になるのである。
 大作曲家の和声法のすばらしさとは、芸術作品を必要とする作曲家、演奏家、評論家、聴衆の頭をいっぱいにしている様式や表出の本源性、つまり相対的なあり方の正統性をさまざまな方法で実証してみせたことである。もう1つ付け加えておけば、実証的研究によると、すべてに先立ってまずあるのは可能性である。和声法は、人間の本質へのこの可能性との関わりを完成させるのである。その和声法が、歴史の一部になることだけでなく、自分の生きる時代を豊かにし、また先入観や固定観念を超越する論議を提示し、どの時代にも、どの世代にも属することなく、すべての時代のすべての世代を代表できる存在概念のひとつの例を私たちに見せてくれたことである。それは歴史的・実践的実在についての論証にほかならない。つまり、後の時代につくられた超越的思弁あるいは先験的基準などで計られる`原則`があったわけではなかった。和声法は、伝統としての存在(創造性)と人間的な思惟(能動性)を自らの実践によって具体的・現実的に統一させることができる、という本源的論証なのである。
 そこで、「和声学の概念認識」の根本問題と「相対的な専門知識」の梗概とをとりあげながら、楽曲分析の実情を再検討してみることにしよう。


 事象現象の解釈
 学習者ひとり一人は若さゆえに無力だが無能ではない。惰性化した規則的環境は、学習者たちの精神的・身体的状況と常に相対的である事実を否定し、その人間的で瑞々しい感覚をむしばんでいる。古めかしい和声学にしてみれば、実践的方法論上の諸問題を理解可能にしたのが学習規則であった。しかし、演習の前置きとして「誰もが認めるように音楽芸術は本来開かれたものだ。とはいえ、学校和声には守らなければならない規則がある」という心ない語りかけは、どうしても初心者を面喰らわせる。だからといって、そこから新しい視点による新しい理論が生まれているわけではない。もっぱら学習規則を理解しそれを実行さえすればこうした疑問が根源的にすべて解決されると指導しているが、しかしその指導は疑似和声や原則に対するものであって、実在が語る基本的特質そのものに対するものではない。あろうことか、このような規則が認識できていないという理由だけで試験の成績評価は不合格となる。このことによって、「和声学は古典である芸術作品とは何の関係もない講座だと思っていた」と考える学習者が増加する一方である。この論理破綻的な認識状況を見ると、彼等は、どんな問いかけにも対応できる専門知識、問題解決と学習の能力を高めるための情報資源の恩恵から取り残された人間であるといえよう。要するに、規則でつくられた軌道上を全速力で走らされているのである。和声学はここで「アポリア的な性格」をあらわにする。これと同じように、「近代の作品を対象とした実証的研究において、フランス印象派の諸作品を、カントゥス・プラヌスによる旋法的可能性を放棄して、近い将来解体廃止されるであろう特殊な和音表記でもって分析したところで、創出特性を明らかにすることはできない」のである。そういった言説的論述の形成過程には、必然性も妥当性もない。

 印象派音楽の楽曲分析 あえて例をあげれば、芸術大学や音楽大学の学士・修士論文には、近代和声の論述のための作品分析において「前時代的な調性から離脱しようとした創出過程」、「旋法的可能性を復活させ属音機能がもたらす類型化を防いだ構造特性」、という古典派・ロマン派音楽とは異なる印象派音楽の自立した概念が基本知識として存在しない。様々な理論を取捨選択する能力も様式分類能力もなく、たとえば、「古典派音楽における調構造」と「印象派音楽における調構造」との概念が違えば当然異なるはずの和音表記など、なにもかも「一緒くた」である。こうした文化的遺産排除の理由や指導手順が見えていない負の連鎖は、他の音楽部門はもとより、一般教養科目_哲学・美術・文学_担当スタッフですら気づいている。その結果、「印象派およびそれ以降の 20 世紀に生成された楽曲の分析」についての「調査の報告書」は、佶屈した検証と狭い領域の局所分析、さらには、そのテキストでしか意味をなさないという理由から実在認識が消滅した楽曲分析の方法ということになる。なかでも、借用という意味を示した和音表記を読んでみると、なんとも面妖な和音の解釈である。
 周知のごとく、ドビュッシーが印象派の作曲家であるなら、その和声は古典派・ロマン派の和声ではなく印象派の和声にほかならない。音楽史において明らかなことは「印象派ドビュッシーはヴァグナーのトリスタンの先を訪ねはじめる。その先に、彼のスタイルと語法を確立する。それが、調性(狭義)的な和声法の中核にある機能的関連から音楽を解放するものであったことはいうまでもないだろう」(ドビュッシー_大音楽家・人と作品/平島正郎)。さらにまた「ドビュッシーが創出した様式は18世紀の和声様式とはちがうものである」(Impressionism in Music_Music in Western Civilization/P.H.Lang)。すなわち「その基本的な要素は、和音は前時代的な和音進行の解決を通して緊張と弛緩によってフレーズを形成するために用いられるのではなく、響きの単位として表出されたのである (New Currents in France_A History of Western Music/D. J. Grout)」。新しい和声概念に対する彼の強い関心は、そこに帰結する。

 和声構造の特性には多様な音組織についての象徴概念や認識規準があり、作品研究においては歴史に沿った個々の構成原理をわきまえた楽曲分析が必要とされる。さもなければ、人間の様式への概念認識は変化も発展もしない、ということになる。もっとも、実証的研究が中世オルガヌムまで視野に収めたた音程と和音表記法をまとまったかたちで提示するのは、1990年代半ば以降である。


 システムテスト
 あやふやなまま、長い間これほど放置された「楽曲分析法」も珍しい。翻って考えてみると、こうした分析的環境は閉鎖的性格と結びつく傾向がある。しかも、事実還元のための基本的基準となる限定制約の規定はどこへ行き着くのであろうか。それは規則違反および禁則という正誤判断と評価にもとづいて、徹底した実在否定をもたらす閉鎖性であると現代人は指摘する。つまり、限定制約を基本的基準とした分析法は、もはや時代に合った知見を見きわめる情報化社会のターミナルとして機能する能力を問われることはない。とすれば、この点で現代的な和声学研究が受容する学問的事実はどうであれ、これまでの慣例に従っていれば何をしてもよいという分析の方法は別の問題に直面せざろうえない。分析の労力は認められても「分析それ自体の質性が疑問視される」、という問題である。元来、世界水準(グローバル・スタンダード)を目的とした楽曲分析法は、日本の和声学の場合、規則主義者の観念の中心に潜む単なる自己撞着に陥ってしまった。ということは、規則を認識根拠とした原則と、それを基準にした演習が同一コインの両面にすぎないことを理解していないために、人間の素質や能力という合理的な可能性が活動する現実的な経験論を提供できなくなったことを意味する。 しかし、 21 世紀に入り、基本的前提となる対象の基本現象を明らかにする方法論は、現代の私たちに対してもつ客観的実在性の意味とは何か、また、実在性検証の遂行をこれに関連してどう捉えるのか、ということが新たに問われ、事象現象の事実と和音表記を含め概念的本質の定義では、特定対象からどのような「分析結果」を導きだしているのか、また、その「分析結果の選択」をどのような方法で行っているのか、さらには、それを「どのような_分析状況_」をもって記述しているのか、といった問題が命題的に論じられるようになった。
 実在性から得られる柔軟な概念を身につけるための「場」の選択は重要である。しかし、その認識論は「理解可能な音楽文化との共存」を認めるものであり、それゆえ、和声学が「歴史的実在」と「経験的実在」の分析を放棄するとき、理論体系は規則禁則に変貌するだけでなく唯一性概念に停止してしまう。このような概念認識を理論や演習全体に敷衍したところで、はたして和声構造がうまく説明できたことになるのであろうか。私たちの周りに存在する楽曲を聴いても分かるように、「属和音および属7の和音_導音・第7音は限定進行音」「導音・第7音重複および並進行(連続)5・8度は禁則」という概念規定の方向と視点の固定化は、どのような説明をしたとしても、事実のうちに見られる本来的実体概念を受け入れようとしない点において「致命的な欠陥」をもっている。
 声部書法に原則とし示される限定進行と禁則は、開かれた和声の本質は説明できないことになってしまう循環定義であり、人間によって知覚される事象現象に対して、常にその一部分しか把握していない局所的概念に関心を向けざるを得なくなる実在否定が含まれている。したがって、人間の素質や能力を活動させることができる実在和声の本質を目指した概念定義によるものでもない。むしろ問題なのは、その規定は古典和声の生きた経験を再確認する譜例を排除し、現象がそれなしでは考えられない性質という「属性」を誤認しているということである。なぜなら、はじめから一義的な限定を強制するような古典和声などけして存在しないからである。和声の場合、長い歴史のなかで作曲家たちの首尾一貫した「システムテスト」によって、つねに可能性の活動状態である能動的な「実在性」が現実的・具体的に創造されてきたからである。
 たとえば古典和声の実践を能動的なシステムテストとしよう。発展して進化したバッハの和声は実在性である。このバッハの和声を継承する次の時代のモーツァルトの和声から見ると、バッハの和声もシステムテストによるものである。このモーツァルトの和声という実在性も、和声の世界から見れば、能動的なシステムテストによるものである。このように、専門的な和声学においては、音楽に与えられた自然観を基盤にして、検証による実体概念と連動した能動的なシステムテストは実在性となることを目的とするが、実在性はふたたび目的を実現するためのシステムテストとなる。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:30 | 05 - 分析状況 | Comments(0)
2017年 03月 04日
06 - 概念枠組 / 和声学序説:基本的前提
06 - 概念枠組


「 和声の歴史と論述の歴史 」


 創出行為
 どのような理論分野においても、理論家が筋道をたてて論述するるコンテキストは重要な意味をもっている。理論をあるまとまったものに組み立てるためにはその対象となる事象の分析が必要とされる。分析は対象となる事象との関係だけからその正統性や存在理由を得ている。しかも、対象に存在する諸現象はそれを感受する感覚と認識の違いによってさまざまな概念を生み出すことができる。その分析規準の論拠という問題を扱わなければ議論は前に進まないだろう。たとえば、どのような領域においても概念がひとつしかないというようなことは決してあり得ない。ましてや西洋音楽の古典派様式の領域においてさえ、現象のもつ概念的方向が一様ではないことは周知の事実である。考察と分析とは、明らかに現実体験のなかにあるより創造的な実践のできるだけ近くに私たちを連れていくことを目的としている。和声学において論述される概念と定義は多くの資料を扱う言説によって構成される理論体系から逃れるれることはできない。それは人間的な知的活動を意味する。
 人間の創造性がついには絶対論にまで到達するとするならば、その理論は過去と現在だけでなく、未来のすべてを知り尽くしているということになる。果たしてそれは本当であろうか? 実践的事実に対する排他的行為という点でもっとも懸念されることは、まずその影響をこうむる人間たちの古典を介した現実的な美的体験がいとも簡単に無視されてしまう、という事態である。それは、観念的な規則主義者が主張している骨董的存在であるルールにおいては、実在する和声法の意義や価値に対する否認理由は程度を超えている。これは過度な一元化ではないだろうか? だが、芸術家にせよ、理論家にせよ、何らかの独自的な概念を実践あるいは定義において主張するとしても、次世代の芸術家や理論家そして認識者は即座にそれを乗り越え取り除いてしまうのである。とすると、そのような固定観念は遠からず歴史から消滅していくのだ。私たちの経験的な実在に直接触れるために存在する理論の現状はどうであろうか?
 そもそも作曲家にとって創出行為とは、独自の芸術をつくりあげそれ自体の必要性と可能性をもつものであった。また、創作様式のメッセージとは、たとえひとつの固定化された特性に見えるものであっても、根本的に多様な伝統文化の知恵と意味内容をもつものであった。言うまでもなく、作曲家は歴史という時空において、また実践というフィールドにおいてその機知に富んだ取り組み方を果敢に試みている。とすれば、和声学とは、その創造的な取り組み方について論述している言説や法則にある相互関係であり、それを通して知識体系が構成されている構造そのものである。理論と論理にとって「作曲家がつくりあげた創出」と「認識のために存在する考察と分析」は、互いに助け合うものなのである。一般に、科学的方法による理論は個々の事象の原因と結果との関係を多様な現象から抽出することを目的としている。

 共通感覚と事実性
 理論構築は、無制限に行われ得るのではない。それは和声そのものの存在に突き当たる。私たちはこの和声にいかなる意味を与えることもでき、また、それがこの世界にはないもののように排除することもできる。だが、いくらもがいてもこの和声が存在するという「事実の存在」を隠すことはできないのである。同時に、和声に和声としての存在が問題になるような論理性と定義概念を与えるのは、明らかに和声学の役割であるが、規則主義者は芸術作品を美的対象として受けとめ、それ自体を「人文主義的尊厳」をもつ究極目的として扱ってはいない。問題なのは、規則主義者が歴史上の実際的な和声の世界に本当に心動かされているのか、そうではなく、個人的な美意識にもとづいて自分が描いた和声の再現に心を動かさているのか、ということである。
 現に、規則禁則の価値基準によって構造化された理論は、「“ひとつの答えを用意しよう”」と要求する観念論に準じた照合可能な現象をなぞることはあっても、実践によって具体的・現実的に統一された人間的能動性を顧みることはなかった。それは私たちの期待を大きく覆すものである。なぜなら、文化社会には独創的な創造性が多く存在しているのに、認識基準の深刻な空白をうめようとするものではなく、部分的な分析結果を普遍的なものと偽り、古典和声様式の象徴的概念にすり替えていたからである。規則主義者がいかにして画期的な前提を打ち立てたかを話題にすることはあっても、それによって学習者がどのような状況に置かれているのかを検討することもない。和声学はいわゆる知識論として、その起源・構造・体系、そして方法・妥当性を探究する音楽理論の一部門である。要するに、時代に取り残されてしまった原則の実態は、西洋の伝統的な4声体和声_混声4部合唱曲_の諸現象にさえ対応できなくなっているのである。
 現代の音楽文化社会で活躍する音楽人から見れば、ずっと以前に破たんしている規則主義的体質。たとえば、J.S.バッハのコラールの多面的な声部進行を真似た受講者に向かって「何度も言っているように、この音は限定進行音だから訂正するように」「言い遅れたが、バッハの和声法は例外である、それを模倣したモーツァルトやベートーヴェン、さらにはショパンの和声法も例外になる」と主張し、代わりに規則を押しつけ現実における様々な実践の間にある差異を均質化する。和声を学ぶ人間が、「バッハ・コラール」のいたるところを指差し「規則に違反する和声がここにもそこにもある。次のページには禁則もあり、私たちはそういう和声をなぜつくってはいけないのか?」と質問をすれば、ローカライズされた和声学はきまって例外箱を持ち出してくる。そればかりか、その類いに該当する例をかき集めてはつぎつぎと投げ入れ、滑稽にもふたがしまらないほど一杯にして真顔で抱えている。しかし、この西洋の伝統的な音楽作品や文化的価値の根本問題に対するおどおどした挙動には、不自然さが漂う。「どうしてそのようなことをするのか」といぶかると、「決めたのは自分ではない」と答え、問題としては受けつけない。「では誰が決めたのか」の問いには、「分からない」と首をかしげる。さらに、「私たちが考えても仕方がないことなのだ」と言い放って終わってしまう。こうした論理的状況は、人間の根源的な美的能力と選択の自由を奪う強制、音楽文化における実践的実在の否定、社会的論理学からの非現実的な逃避、そして思考と選択の不在を思わせる。


象徴化の過程
 和声学におけるもう一方の主人公は、教育的に特権化された諸制度による「逃げ路」というものであったのかも知れない。この筋道が通らない対応は、分析検証と事象の概念化が主軸となる理論にしては常軌を逸している。つまり、自分ですら「ルールとはどのような判断で誰によってつくられたものなのか」が理解できていないのに、そんな「あやし気なもの」を「西洋18世紀_バロック・古典派和声様式を完全解明した画期的な理論である」と言って彼等に勧めることができるのだろうか? しかも、楽譜上で視覚的に避けているだけでは良いか悪いかは言えないだろう。理論が、前提に掲げるルール規定の生成過程を説明できないということは基本的にあり得ない。もし、和声学がどういう性格か分からないものを基準に烏合の衆的な概念化を行っていたとすれば、リスク管理ができていなかったことになる。和声学がとまどうこのような状況は、音そのものによってその世界を想像している表現者へのイメージを根底から変えてしまった。これらの問題点は、音楽の歴史観や創造者の芸術性、また継起関係によって構成される和声法を常に認識している和声学にとって常に新しい今日的な課題といえよう。音楽史上のあるひとつの時代あるいはあるひとつの様式における概念規定が事実の分析に基づく定義を考慮しなければ、けして理解できないことを示しているからである。この原則は和声一般の定義にさまざまに関連している。私たちが現象の現実的な法則にアプローチできるのは、あくまでも当のモデル構成を論理的な形で理解可能にしている概念の形成過程における事実認識の根拠があるからである。たとえば、J.S バッハの音楽における顕著な特徴は声部進行の非定型的で多様な特性である。そこにおいては多数の違った導音進行が一様に実践されている。これら、和声音楽の分析や演習のための「ツール」は私たち皆のものである。
 しかし、こうした古典和声のテクスチュア全体に対して、単に一時しのぎのために用意された「例外枠組」という分裂症ともいえる極端な概念規定は、何の解決にもならない収納箱にほかならない。ここに一元的認識論の限界があると共に、それが多元的認識論の出発点でもある。すなわち、多元的認識論では数的縮減である唯一性は放棄され、限定性は個々の存在に返され、現象の多様はそのような多数の実践的対象の結合・分離として説明される。そうでなければ、J.S.バッハは人間として普通とは違う例外的な音感覚をもった作曲家になってしまう。彼の表出は機能理論の体系において定義概念の適用範囲に含まれていないということになるのか? それとも、そのコラールは特殊な書法による4声体和声であったというのだろうか? 
 西洋クラシック音楽に関わる人たちの間で、「バロック和声の事象現象」は「例外規則によるもの」という視点はどこにもない。こういった単純な説明責任が果せない基礎論の知識体系は、もっと危険なことに、実在についてのあらゆる問いを概念規定の内部基準に閉じ込めることによって、作曲家たちがもっていた常識に対して親しみがなくなり、やがて創造の世界とは行き来が途絶えてしまうのである。少なくとも理論的思考が実体的思考への配慮を忘れたなら、その理論は実質的内実を見失うであろう。つまり私たちは、一般的に熟知されている根本体験に立ち会って見とどけることもせず、古典的公式に関わる基本知識は「規則」であって、それ以外は「揺れ」だといってとりすましているわけにはいかないのである。さらに文化社会が認める芸術作品において繰り返し表出された実践であるのに、それは世界の人々によって広く共有されている概念と認識であるのに、それを不快な響きとして扱う概念規定は、誰が考えても素養ある人間の穏当な言説とはいえない。その点に気がついてみると、和声学の理論構成が現実の実践的存在より優位に立っていた時期と、和声学の論述が創出的な関心を無視していた時期を経て、ようやく認識根拠とその過程に平衡感覚を取りもどす時がやってきたとしても、そう不思議ではあるまい。
 ともかく、象徴的概念に対して合理的経験論に依拠するチェック機能も働いていない概念規定が、たとえ以後すべての課程を先導したところで、その視点は理論的考察それ自体の無意味を示す科学以前の原則に堕する恐れがある。概念化された規定行為の結果がどのようなものであれ、現代の理論家は宗教的な神の意志や前時代の旧態理論、あるいは規則禁則の盲信と誤解にすべての責任を転嫁することはできないのであり、理論家自身が全身でその負担を背負う必要がある。この意味において、和声学に求められているのは、理論の体系的構造のみならず、理論を構成する人間の思考や論理までも照らし出す、「歴史的実在に関わる事実存在」および「実践的実在の本質存在」と不可分に結びついた認識論であることは言うまでもない。


 新しい理論基盤
 いずれにしても、西洋の理論史が私的な受容性にしか関わらないと捉える規則主義者によって、日本人に合った画一的マニュアル嗜好に改ざんされ、選択肢がほとんどない概念化と実践の目的と方向性、現実に存在する表出法の歴史的経緯に関わる視点を放棄する分析状況に対しては懐疑的である。和声学の学問的価値が、完全に芸術作品と切り離されたものにより正当化される、という苦しい説明はあまりにも説得力がないことも分かっている。結局、芸術概念の共通の感覚を理論と演習から分離した教程は、古典音楽の実際を規則禁則という限定的否定的な定義でその善し悪しを対比したことで、人間の美的認識と現実体験を骨抜きにし、貧しくするという結果に終わったことも確かに承知している。しかし、概念規定の新たな方向づけのために歴史に関わるソースプログラムを導入し、現代の音楽文化社会に適応する思い切った理論の再編を主張することにはためらいがある。とはいえ、「和声とは何か」という本質的な問いがきわめて核心的なため避けて通れないことにもはっきり気づいている。それは、どんな時代に生まれても、自分で獲得するしかないものである。どんなに社会的多様化が進んだとしても、自分意外にそれを解決する者は存在しない。いま彼等は苦境にある。必要なのは規則禁則そのものではない。唯一性の概念でもない。確かな和声学情報にたどり着く方法をいかに多く知っているか、である。
 理論家を志す次世代を担うであろう人間たちは、「古典音楽の事実は直接関係がないこととして排除する機械論的な概念枠組の解体撤去」が、また「何もせずじっと座っていて、基本的現象の生きた概念定義が何処からかやってくるようなことは決してないという道理」が分かっている。そして、学問的方向の現実的な可能性はいくつもあるはずで、そのどれにでも連係できるハイレヴェルのシラバスづくりが必要なことも、十分に理解している。たしかに、古いプログラムソースであるにもかかわらずハードディスクのパーティションもなく、メモリ(分析資料)不足、突然のクラッシュ(公理矛盾)に悩まされる不安定なシステム、いまどきめずらしいモノクロ2階調(長短調)だけのカラー・テクノロジーにしか作動しない錆び付いたアプリケーション、事象の質的差異(変化発展)の問題を美学的な様相(正誤判断)の基準にしてしまう検索機能、さらには、理論や演習内部に打ち捨てられアップデート(定義変換)もできないソフトファイル、電源(関連情報)も入らなくなったインターフェースを含め、「新しいシステムコールのセット・アップ」を考え始めたのである。最近こうした問題解決のための準備作業の例は数多い。原則という規則禁則の弱体化の弊害によて深刻な概念規定に行き交う魅力が減じてしまう一方で、基礎論の専門分野に事実存在(芸術作品に立ちあらわれる事象現象)、つまり、本質存在(可能性を思考選択する創出行為)とそれとの対話を掲げる実証的研究が登場し、それによって実体概念を思索できる理論環境が生み出された影響は予想以上に大きい。
 要約しよう。
 かつては、規則決定者のための原則、あるいは、論理性を踏まえない無性格で無味乾燥な規則禁則、と皮肉られてきた概念規定が、もの言う新しい時代の研究によって変わりはじめ、すでに現象の多様を形成する多数の構造を語るために、その論述を可能にする何らかの基本的前提を設けるようになった。和声学は、歴史的経緯を視野に入れた理論構成の動きに加え人々の関心も高まって、必然的に実践的実在と正面から向き合うことを迫られている。現代的なパラダイムとは、まさに和声の歴史と論述の歴史を結び付けることにほかならない。とすれば、それには本来的で歴史的な実体と矛盾するマニュアル化された疑似体験ではなく、「思考範囲を部分から全体に拡げるための認識方法と基本的基準」しかも「現実的実在をより多角的に捉える思考の概念的方向」という説明的思惟が必要になる。その両者の意義は、象徴的な概念規定のネットワークを組んでいく過程において構造の原理を明らかにすることがコンテクストを通して可能になる点にある。それと同時に、私たちが現実に体験する芸術作品に創出された和声法すべての存在理由が、理論史の全体像を通して理解できるようになったのである。
 確かなことがひとつだけある。
 今日のメディア情報のもとで、経験的実在を読みとり例証をふまえた概念的定義的裏づけがある以上、理論体系が、禁則規定の事由を厳密に論述し得る新しい理論基盤への移行は揺るがない、という時代の流れを見定めることであるが、そのためには検証分析の現場に出て実践的事実を学ぶこと以外に道はない。幸いにも、社会の動きが和声学基礎論に対して「このままでいいのか」と自省するチャンスを与えてくれている、ということである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:29 | 06 - 概念枠組 | Comments(0)
2017年 03月 04日
07 - 限定以前の基本現象 / 和声学序説:基本的前提
07 - 限定以前の基本現象


「 実在概念 」


 認識の発展と分析方法
 現代に生きる人間としていま私たちがなし得る和声学基礎論の改革とは、規則禁則論を批判理論として克服することである。西洋のその壮大な音楽理論史を展望しても、限定という唯一性の概念に帰することで、平行法というオルガヌム以来の伝統的実在概念を具象化できた理論などないことは明らかであるが、もし、理論にできるだけ厳密な概念定義、できるだけ自然な論理的説明を望むとするなら、そのための有効なアプローチとは、根源的存在の基本的な構図を理論史から学びながらも、歴史の中でさまざまに移り変わり、その端緒から遠ざかるにつれていっそう発展していく事実に対する直接的な探究と、相対的な概念を分かちもっている認識方法だということになる。すなわち、諸概念が集まって互いに関係し合い体系的に組織化された理論は、どのように多様な現象であってもそれらを排除するのではなく、それら基本現象を理論内部に取り込もうとするものである。また、できるだけ多くの異なった視点のもとで、実際に機能しているシステム_現実の実践的な対象_を捉えようとするものである。このような認識は、当然のこととして実践的技術知の担い手である人間的実現行為と顕在的に連動している。

 チェリビダッケの弟子、P.バスティアンは演奏家としての経験をもとに、音楽について次のように述べている。「机の上のハサミやロウソク、その他の物がピカソやマチスによって完璧なバランスをつくりだす芸術家の見事な集中力で、あるべき場所に正確に配置されているとき、ただハサミを見るだけでその構図について何かを学ぶことができるだろうか? 何ひとつ学べはしない。必要なのは相補的な記述だ。背景から取り出されたハサミは何の意味も持たないからである。すべての記述は相補的な記述、つまり最初の記述が除外したものに光を当てる記述によって補完されなければならない。デカルト的モデルは全体論的モデルによって補完される」。また、「何かに焦点を当てるということは、他のものを犠牲にするということだ。そのやり方を安易に音楽に当てはめることによって、多くの誤解が生じている。いかなる場合であれ、音楽にデカルト的な考えを適用することは、やぶを棒でつつくようなものでしかない。音楽は、ハサミ、ロウソクその他の物との関係が完全に経験されたときに起こってくる」。さらに、「音楽と呼ばれる領域の十分に包括的なモデルを見つけるためには、それと同じ程度に包括的な意識のモデルを探すしかないことは明白である。それは音楽が限りなく包容力がある意識の現象だからだ」(Ind I Musikken_音楽の霊性/澤西康史訳)。このことから私たちは、理論構築の基本的な前提条件として「音楽が多様である以上、音楽をめぐる"ことば"も多様なものでなければならない」、という問題を見逃すわけにはいかないのである(Coming Community Music/全 - 世界音楽論 / 東 琢磨)。

 根源の存在を必要のないものと思い誤り、基本的現象さえも第2義的な存在として忘却してしまう規則主義者は、ルールを実体的なものと考えている。ルールはただ目的手段の観念によって1つの現象を定義する概念にすぎないのであるが、ルールの規定さえも、自分が作成し自由に操作できるもの、これを普遍の実体概念と考える手段だと思い込む。ルールを対象の解析結果と主張する。この認識はルールと多様とを混同するものにほかならない。「ルール」は選択の自由をもたないのに対して、「多様」の根本は選択の自由にある。ということはつまり、ルールと多様の「同一視」は誤りということである。
 そこから明らかになってくることは、古典音楽に携わる専門家が和声を語るとき「検証を人任せにした概念規定が一般的な構造特性を説明したものであるとする疑わしい定義をどのように修正すればよいのか」、また「事実の確認もない認識基準を実体が還元されたものであるとする初歩的な誤りをどうしたらよいのか」、さらに「現象の現実的な法則を見い出すための定義はいったいどれほどの有効性を確保しているのか」という問題設定から生じてくる最も大きな問題である。専門家にはこれらの問いに対する説明責任がある。しかし、現代の飛躍的に拡大する理論体系の仕組において、事実の単純な論述に還元できずに放置され、理解可能な認識方法を提供できない実在忘却のルールの所在を示す固定的な場所はすでに存在していない。なぜなら、和声における理論体系という視点の根源的な分節である象徴的実体概念の性質は、新しい視点による認識の発展と分析方法とによってすでに変化しているからだ。


 創造的性格
 西洋の古典音楽は、多様性・変化性が常識の音楽である。人々がそういう古典と深く関わって学びたいと考えることは、結果として歴史上に展開された古典に身を寄せながら、それを実践によって具体的・現実的に統一した作曲家たちに視線を投げかけ、合理的な経験を積み上げていくことではないだろうか? 当然、その対象が何であってもいいわけはない。しかし、私たちは時折つまらないものを得るためにあくせくして大切なものを見失うことがある。それを考えると、創造の世界であるのに「許される、許されない」といって、ただ一つの概念規定から引き出されたモデルを古典和声の規範にする理論と演習、事実に対する認識方法についての論議が、「現実体験への無関心」「作品分析の放棄」「同一視点による特殊な概念の寄せ集め」で終わってしまう「自律性のない認識論」に依存した規範からは、個性ある演奏家・作曲家、独創的な音楽企画を率いるようなエイジェント、世界的な研究とリンクさせ国際的に発信のできる理論研究者、音楽文化、知識産業、あるいは現代の I T 音楽文化社会ヘ積極的に貢献できる「エキスパート」を育てることはできないといってよい。
 現代は科学技術と情報の伝達・処理・蓄積の時代であると同時に、あらゆる研究領域でその根本となる認識基準にさかのぼって変化が求められている時代でもある。和声の理論研究の領域においてもまさに同様である。近年その象徴的概念が学問としての役割を果たすこともできず、古典和声の多様な構造性を代理的な形で表象的に論述する過程において、「我が国の和声学の四半世紀に及ぶ苦い歴史を繰り返してきた問題点とは何か」の批判が生じていることもまた事実である。そうした定義と規定を、明確に与えるための定義を論点とする批判論の展開は、新しい研究方向について理解する能力をもたない和声学の限界を示そうとしたものである。むしろ、音楽芸術に関わる象徴機能の一つに和声理論があるとすれば、諸科学において用いられる概念の内包を明らかにする定義自体が固定的で序列的な規則禁則をもつことを禁じるのである。本来その理論が定義する概念は、和声の考察と分析に基づく譜例(直示的定義)を示しながら、歴史性と革新性、すなわち限定制約に抑圧されない多様性と変化性の事実である。たとえ私たちが一つの規則性を部分的に見い出し、その規則性が他の作品にも見つけることができたとしても、創造的な和声のあり方がその制限内におさまるという保証は何もないからである。
 要するに、認識基準の誤りは「多数の現象からなる多様な現象」と「ひと塊の現象」とを同じものとして考えてしまうことである。和声が和声であるために必要なのは前者だけであって、後者は単一項目で均質化された一集合を意味するだけである。過去の機能理論を得手勝手な自己定義によって多様性を排除する理論に改編された和声学は、表出が実際とはどれほど異なったカテゴリーに構造化されているかに気がつくことができない。私たちの経験的実在において、もし規則禁則が普遍的な事実として現実に確かな構造で存在するなら、規則禁則の普遍性もまた確かに存在する。しかし、歴史的・実践的実践における構造が規則禁則を超越している例証は調べれば幾らでもある。つまり古典における音楽芸術の創造的性格こそが規則禁則の定義を論理的に不可能にするのである。規則禁則は普遍的なものではない。なぜなら普遍的な特性というものは反証不可能なものであるからだ。そもそも、特定枠組と関わりをもつ対象の分析や認識の方法の間には、理論と事実の両者における歴史的な変化発展の原因や経緯を明らかにするような強い相関関係が存在しているのであって、それゆえルールは個々の現象のあるがままを再生できないのであれば、その妥当性を失うことになる。


 知識の体系的構造
 和声に関する知識の体系的構造とはどのようなものなのか? それを厳密に還元する認識方法はどのように選択され、基本的基準はどのように形成されたのか? 規則主義者はその答えに行き着いていない。事実誤認がはっきりした後も何がどう間違って事実誤認が生じたのか、それがなぜ例外・排除・隠ぺいにつながったのか、問題の所在や解決を事実をもって明らかにしようとしていない。だから絵空事を言い続けるらしい。十分な裏づけ考察と分析のうえで現実的な事実を象徴化するのが、理論の基本であり、論理の一般性である。その点、「ルールは建築物の土台となる基礎工事のようなものである」は、基礎的という名に値しない言説である。それを主張するのであれば、その建物に住む人間の立場になって「土台工事の方法は改良と改善を重ねた新しい資材が採用されているのか」「手抜きはなかったのか、安全性は十分に確保されているのか」を自分の目と耳で確かめる必要があるだろう。それはルールに固定化された事実否定という深刻な病理の回復過程にほかならない。
 さて、概念枠組の前提としてつくられた規則禁則、音楽芸術における合理的思考にとってその有効性を主張している理論は問われている。能動的な事実究明の本質は、具体的に事象を判断するために、広範な考察、分析原理の明確化、対象に対する概念規定といった複数の要素から成り立っているが、それらをどう考えているのだろうか? また芸術作品という現実体験を対象にして、学習規則はあくまでも論理的に定義十分な言説に基いて説明を行っているのだろうか? さらには、従来のように例外という枠を設け、都合の悪い事実は隠そうとしている。もっとも、人々はそれを恐れる。そういう考えは歪曲の習慣とさえ云えるが、規則禁則はそうした習慣の産物にすぎないのではないだろうか? 
 和声学は、改善を約束する知識の構造的条件やそれに対する動機的条件が欠けるため、すなわち自己反省的な規則主義者は効率を基準とする序列化が増大するにつれ、分析的にみて自分が規則禁則を一方的に美化したことに気がついている。それもそのはず、歴史的な大作曲家の名はあげるがその古典作品の解析を人任せにしているからである。ルールが批判にさらされると急に弱腰になり、自らが提示する自家撞着だけに眼を向け、取って付けたように規則と規則違反の「境界」を平気でづらす。そうした変更は手っ取り早い一時しのぎを手に入れるが、説明手段が不足する苦しい窮乏が訪れると、目撃される事実はどうでもよくなり、最後には、規則は必ずしも規則とはならない、限定進行音は必ずしも限定進行するとは限らない、という寒々しい「負の策略」を次から次へと生産していく。
 そればかりではない。たとえどのような反論がなされようとも、疑問なのは変更にかかわる理由の説明は何もなく、また、言語による定義のもつ構造特性のリストをどのようにして提供するのか、という問いかけは宙に浮いてしまい、その検証内容が不透明なものに零落してしまうのである。ルールがつぎつぎと後から付け加えられるなか、括弧付き条件の設定によってそれが唐突に変更され徹底されなかったり、和声の実際との乖離はかなりのものとなり、そのような根拠のない変更は決して事実の証明による理論的立場ではあり得ないのである。
 だが、そうした不透明な概念の適用をかかえた和声学は、その損失がもたらす知識的弊害が、予期しなかった結果を生み悪循環となっていることに対して根源的な反省はあるのだろうか? というのも、 18 世紀の芸術作品は古典和声の歴史的な源であるが、いまなお「表出技術の核心」であり、その特色ある美的形式や美的メッセージの中心的な「リスト・ボックス」である。とすると、和声学の機能理論はその事実を考察においても分析においても機能理論でありながら、特定対象に関する概念形成のための方向と視点を取り違えている。西洋人の歴史的な実践と伝統的な思考をはねつけ、本来的な和声研究にとってその記号化の必然性は妥当なものであったのだろうか。さらに事象の象徴化において、単声旋律_グレゴリオ聖歌、9世紀〜 16 世紀_和声発祥の先史学的な存在である中世・ルネッサンス、 17 〜 18 世紀_バロック・古典派、 19 世紀_ロマン派、すでに古典となった 20 世紀_印象派様式の諸概念、すなわち古典による直接的なコンポーネントはなぜ対象にならないのか。もし古典の和声が事実として考察・分析の対象にはならないのであれば、その理論を学ぶ人間にとって歴史上に展開された古典作品は意味をもたない芸術となってしまう。
 概念化に対する非難はまだある。私たちの経験的実在から得られる芸術概念を、相対的本質をもたない認識方法でもって論じるのは乱暴なのである。もっと乱暴なのは、そのルールに準じていないすべての現象に与えてしまう「誤り」や「否定的なイメージ」というのがそれだ。こういった理論は、唯一性という点で、現象の多数と多様を説明することができない。つまり、現象の現実的な法則を見い出し、この法則としての一般的事実を結びつけることによって構成される知識体系を確保していないからだ。受講者たちの行く手を閉ざす一元論は、対象において必要とされた相対的概念の一方を取りあげ、それを禁則・規則違反と判断して否定する。この問題は理論家だけではない。実践的存在である人間の能動性と歴史的な古典的対象を見失うほどの先入観にとらわれ、社会的な音楽活動や思考活動から遠く離れてしまい、それとのつながりにはまったく関心を示さない概念的方向にもある。定義の出発点が見えない論理。しかも、説明的思惟の役には立たない認識方法。要するに、「多様性・変化性を排除する特殊な概念」を「事実によって証明された普遍的な概念」にすり替えていたのでは、公理的方法による公理的体系としての理論にはならないのである。それは同時に深い疑念と批判の集まるところでもある。
 これらの理論と演習が空虚なのは、芸術の理念や理想が欠如したまま語られるからだ。そうなるのは、和声学全体がいまもって現実的な芸術作品を必要とせず、社会的文化的実践の考察ではなく説得力の乏しい規則禁則にしか目を向けていないからだ。しかも、そこに付された曖昧な括弧づけは、事実を頑強に拒み続けている自分自身を他から指摘されるのを回避するためにつくられたい常套的な言い逃れであろう。こういう和声概念に関する難点は、制約を論述する人間が実際との論理的矛盾について言いわけがましくなりその数があまりにも多くなるという点である。つまり、このような理論は決して肯定的につくられたものではなく、体験的実在と対立するルールがそれとの対比で自らを合理化する否定的な基準として役立つにすぎない。利己的目的に没頭した諸規定を無批判につくり出してしまうため、慣例的な正誤判断に訴えるだけで規則禁則の妥当性を証拠を挙げて説明することはないからである。それにしても事実の現実性と有効性から学ぶことをせずに何を学ぶというのか。

 たとえば、日本文学の専門講座において、万葉集、源氏物語、徒然草などの作品にまったく触れずに、日本文学論を学んだことになるのだろうか。和声学によくあらわれる生気のない正誤判断のように、ついには価値ある文学作品が「異質」「例外」とされてしまうのか。また、美術大学の西洋美術講座が、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ゴーガンやピカソの絵画・彫刻品の存在には無関心で美術論を論じたといえるのだろうか。

 もう時代が違うのである。このままでは和声学の基礎論全般に対する信頼を失いかねない。たとえ和声学が確認をしなくても、古典和声の多様性は本質的であるか、非本質的であるかの区別もなく、とくに客観的実在性の問いかけもなく放置され、実在の基本現象を抜きとられたような旧弊の概念規定を強行しているなら、私たちには耳ざわりな「迷うより知らない方がいい」という転倒した言葉遊びと同じである。もっとも、西洋の伝統では、基本現象は明らかに実在に由来する言葉であり、あくまで実在としての基本現象なのである。いかなる分析も、いかなる概念定義も、疑似和声を対象にする私的な聴き方に依存したルール主義が描く認識規準を、音楽文化社会における一般常識と統合することはできないということだ。あえていえば、こうした実態からしても、現実的に理解可能な実践的実在に関して知る機会を奪われている現実を、また、規則禁則に従う者とそうでない者が、今日においても和声の構造体系を明らかにし得ない基準によって評価されてしまうことの意味を、和声学は説明する責任がある。
 作曲家や演奏家たちは常にそれぞれの時代・文化に重要な機能を果たし、その歴史的な経緯は表出の多様化とほとんど歩調をそろえてきた。作品として安らっている想像というダイナミックな流動の過程を考えてみるならば、思考するものという概念を拠りどころとしている文学や美術に限らず、音楽の天才たちも私たちを元気づける。人間はみな、人類の歴史以来蓄積されてきた途方もない文化遺産の大海原にいるのであって、それを体験しようではないか、と励ましているようにみえる。
 その流れをみると、すでに幾度も述べたように、機能和声の原則の多くは生彩を失うに至った。現代社会における情報の発信と処理能力が問われるなかで、和声学は特定対象とその概念が合致しない規則禁則を基礎論の一般原理とすることはできなくなり、新たな問いの前に立たされているのである。とすれば、「限定以前の基本現象」の検証分析を通して、対象とその領域を逸脱した基本的基準を事実の証明をもって再構成する課題をかかえているのは確かであろう。言うまでもなく他の学問分野と同じように、西洋和声学の伝統の線上に位置する「現代的な構成」と、歴史的・実践的実在という対象についての「理論的な言及」がはじまるのは、まさに人間が歴史においてつくりあげてきた実現行為の「思考と選択」、現実的で有効な事象現象を見い出すための「実体概念」に触れることを通過してからなのである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:28 | 07 - 限定以前の基本現象 | Comments(0)
2017年 03月 04日
08 - 理論家グラレアーヌス / 和声学序説:基本的前提
08 - 理論家グラレアーヌス


「 妥当性を守る教程 」


 和声学の眼目
 情報化社会の到来によって、音楽文化はあらゆる方面に開かれた多元性を示すようになった。というのも、いまはすでに音楽文化の重要な領域が慣例に従順な領域ではなく、意識的選択の領域へと転化したからである。そのことから音楽文化を支える教育は、シラバスの根本的な課題について検討し直し、このような時代の教育理念はいかにあればよいのかについて吟味することが必要になったのである。だが、和声学基礎論は、現代においても新方式といって一見近代化されたようであったが、何も変わっていない古典和声の実体を愚弄するような呪術によって操作され、ごく標準的な教育を受けてきた人間であるなら、また創造活動の目的が文化を利することであるを理解している大人なら、未来に夢をもって若者を前にしてこのような矛盾の多い論理を振りかざすことはしないだろう。これは見逃すことのできないもっとも残念な時代逆行のひとつである。
 こうしてみてくると、現代の実証主義的立場を貫く理論家たちが、規則禁則という概念規定による和声学の理論構築を、一種の、理論のために作られた理論とみなしたのもまったく的外れだとはいえなくなってくる。実証主義者によれば、旧態的和声学の理論と演習には理念の弱体化が生じているといえる。表出の規則禁則化は稚拙な評価効率をもたらしているが、現実を学び歴史を乗り越えていった作曲家たちの言葉に倣って、和声表出がルール遊びではなく多様性・変化性の概念には重要な役割があるのだ、ということを指摘しておきたい。音楽芸術は実践的存在である人間の想像力を示す顕著な実例であり、その想像力を生み出す源泉でもある。とすれば、和声学における旧態理論がもつ定義概念が、いったいどのレヴェルに位置するのかについて考えてみることにしよう。
 まず、和声学における理論が、対象を概念的に規定する規則禁則をあえて言うとしたら、そういった言説は特殊な認識方法によって構成される機能理論やテキストには通用するが、あくまでも概念の適用領域が部分的に限定されたものでしかないことを、また、事実の考察に基づいた現象間の確かな検証による洞察がないために、唯一性という視点的性格からして現実とは著しくかけ離れた説明的思惟は、疑問視されるか、廃棄される時代になったということを知っておく必要がある。さらには、西洋音楽に永々と受け継がれている構造特性の定義にとって「象徴的概念の本来的特性」の証左となるものではなかった。ましてや科学的な思想として和声音楽の研究を支援できるものでもなかったのである。少なくとも理論基盤が旧態の規則禁則を絶対条件にする間はそうである。和声の概念に関する規定でありながら、事実考察が「思考の概念的方向」と「現象の現実的な法則」を見い出すことができないのであれば、矛盾した排他的理論の類いとみなされるのが普通なのだ。むろんこれでは「西洋 18 世紀音楽における古典和声の規則性を信じろ」と言うのは無理であろう。
 つぎに、規則主義者が言明しているように「和声学は芸術とは何ら関係ない」が本当だとすると、概念定義と演習の例題も含め、規則禁則を基本的基準として示される様式は「フランス和声」でも「ドイツ和声」でもないのは明らかである。だが、果たして規則主義者はこの様式矛盾を克服したのであろうか。現代人はそうは見ない。現代人にとってそうした様式は、規則禁則の「様式」であってもその「基本的様式」ではないのである。当然、特定対象の象徴化を放棄した自己定義は、本来的実体性をもった理論形成の過程は説明することができない。根源的現象が保持されている事実と、根源の存在が忘れ去られる観念との区別に関してきわめて問題であるばかりでなく、そういう仮の現象をもって証明しようとする認識方法は、規則禁則によって一貫して規定され、基礎論の実証的研究からもっとも遠いものであり、音楽理論であれ、機能理論であれ、現存在認識の規範意識を統合するような世界像を構築する可能性はまったく存在しないことになる。これが現代人の総合的知性の到達点である。
 実のところ旧態の和声学の理論体系においては、現象の多元性を謳歌する動向が、唯一・形式性の概念規定に一元化され、理論は実践に奉仕しているという従属関係は背後に退いて見えなくなっている。この一切の現実性・変化性を取り除いてしまう先験的な認識方法を疑うことがなかったために、和声学は実践的事実と暗黙の規則禁則との間にある大きな距離に気がつかなかった。また、知識としての成立する理論と論理がその安定性を維持するには、実際とは食い違う矛盾した定義概念の悪循環を検討する論議を課題として背負う必要があること、このことの重要性を見落としたのである。そうであれば、古典との確かな関係を期待している人々に向かって、有無を言わせない「きまり」があるというきめつけは批判されても仕方がない。とはいえ、実践的伝統性は現代において活かされるものであって、思弁や弁明によって見方が変わリ、その結果、相対的な観点を取り入れられることもなく、一般的実在・経験的実在への接触がことごとく阻止され、理論と演習が、事実の単純な考察に厳密に還元し得ないルールの遵守と適用だけで終わってしまう和声学はいまもって存在している。私たちには、文化の最奥、新しい情報、未知の概念に誰もが近づける自由がある。その場合、事象の現実に対して実践的関心をもてばそれ相応の段階的な努力が求められる。いうまでもなく、こういった「開かれたプロセス」に応える理論システムをもつことが和声学の眼目となる。


 構造的可能性
 理論家は創造的役割を担う必要があるのか否か、が問題であるなら、なぜ理論家は創造的役割を担う必要があるのか、について考えるのは何の矛盾もない。古来、歴史に残る優れた理論体系は、理論の現実性と有効性を保つために、「概念の本質的規定」を理論構築のための「必要条件」として取り上げ、そこから得られる多くの「分析データ」をもとに構成されるのが常であった。実際その象徴化において、概念を明確にする定義そのものが、まちがいなく文化的な実践、文化的遺産として評価される芸術の世界を基本的前提としているものであった。現代では多くの音楽経験論において、多様は人間の心の動きの基本的な原理をなすものと考えられている。多様性は派生的なものと考えられ易いが、人間は能動的にこれを身につけるという本能があることに注目する必要がある。理論を学ぶ者の立場になって考えれば、はじめの段階から多種多様な実践的事実を観察し、将来における音楽活動のための知識の有効性を見極める方法論を身につけることは不可欠であろう。
 規則禁則という定義によってつくられる概念規定が、「なぜ現代の音楽文化社会における古典和声の実際_人間が歴史の中で実践によって探究してきた存在すなわち普遍的妥当なもの_と違っているのか」、おそらく理論家はそれを説明する義務と役割は、作成者側にあると考えたにちがいない。旧態のような学習規則をつくった規則主義者に、「歴史的な経緯と表現者の表出に対する真剣な眼差しがあっただろうか」、「人間の無限に存在する創造行為の意味が、さらには合理的経験で得られる実在的認識がほんとうに洞察できていたのであろうか」。
 そもそも、紀元前のギリシャ音楽の研究のように、実証するだけの音楽が遺されていないため、仮説を立てるほかはないというわけでもなく、今日、我が国の文化社会とその環境において、古典和声について記述したラディカルな理論体系や認識論がひとつしかないわけではない。理論は、言語による定義において循環定義という無限に近い後退を避け、通常、実例に基づく解析資料を集めることで進化していく。次世代の創造的な理論家には、現代の音楽文化社会に創造的な演奏家が存在するように、さまざまな芸術作品の考察と分析を通し、そこから得られる一般的に熟知された対象の現象について論述可能な定義概念を見い出す判断能力が求められているのである。いまや、現実とつじつまの合わなくなった理論は困惑した不幸な姿をあらわにするのではなく、検証によって明らかにされた個々の現象をもとに諸現象の相互の連関・作用・関係を把握するために、すくなくともその理論構成の中に事実考察に適応させた「実践的プロット」を準備する必要がある。
 ルールを順守することの目的や有効性はほとんど誰にも分からない。定義自体が矛盾しているように、それを出発点とする論理もまた矛盾している。しかし、ルールに対する疑問が発せられると、規則主義者は自分でさえ考えたこともないような質問に驚いて答えに詰まってしまう。具体的な認識根拠を示すこともなく、質問の意味が分からないと言ってすり抜けようとしたり、そういった疑問は受容できるものではないと繰り返すだけで他になすすべがない。やがて、そんな答え方では「大人が考えた説明にはなっていない」ことに気がつくと、おもむろに「例外と名付けた収納箱」を持ち出し納得させようとする。そうはするものの、「どうしてそれが例外の枠組みに区分されてしまうのか」については正面から答えようともしない。いや、筋道を立てて説明ができないのである。
  「つまり、旧態の規則に拘束される美的体験は、人間のありふれた現実体験から得られるものではないからである。こういった過
   去において思慮分別のない人間が発してきた無効な論理を押しつけ、現代に生きる人間がもってまわったように限定制約を正当
   化しようとすれば、それは反歴史的な退行である。」
 過去をふり返ってみると、有効な現実体験から得られる想像力は、人間がもつ様々な感性や思考を交流させ、それを通じて私たちの思考活動を高めたりすることが可能であり社会に寄与するものであった。私たちに周りにはそういった文化的音楽的事例は数えきれないほどある。西洋 18 世紀_バロック・古典派の音楽に限らず、 20 世紀_近・現代の音楽、地球上のありとあらゆるエスニックな音楽、シンセティック・システムを駆使した未来志向のサウンド機能にもある。音楽がもつ多様さは、演奏者とそれを聴く者たちに快く受けとめられている。
  「たしかに音楽はすばらしい。音楽とともに生きることができる人間は幸せである。しかし、最初から限定しよう、などという態
   度であっては相手は何も語りかけてこないのである。まず、相手の全体を全面的に受け入れ認めることが必要であろう。その意
   味において、私たちはこの音楽環境の深々とした息づかいを単なる部分現象を取り出し普遍項として論じてみたり、正しい和声
   のあり方という要求の実現を通じて排除したり、時代認識もばらばらな古典的意味性や先入観によってないがしろにすることは
   できないはずである。」
 なぜ概念定義は確たる実在を無視し「その多くの現象を禁則といって規定するのだろうか」、この規定に関する論理の帰結も常識的な判断をすれば、最も貧弱な検証と分析的内容しか提示していない。したがって、人間の自然な思考において感性的本性の生み出す様々な表出を排除しようとする理論構成となる。そもそも、それらの実在は検証から除外され、無謀にも規則違反と定義されるようなものではない。それは、その現象を<有する和声>と<有しない和声>として判断される「構造的可能性」への認識の問題なのである。
 一歩踏み込んで考えれば、音楽関係の企業や法人を含むすべての知識産業は、それぞれの時代に重要な文化的機能を果たす芸術家たちが、歴史上に展開した美意識を学ぶこともできずに、創造的な表現手法の多くを例外と定義し、それを規則違反・禁じ手などときめつけているような人材を必要とするだろうか? というのも、文化社会はそれ自体が人間の感性や精神のあり方がいずれか一方だけに基礎づけられるのではなく、人間が実践した文化・芸術一般に対する相対的な言及能力を備え、必要最低限の社会性を身につけ個人の中に調和を育んだ人的資源を切に求めているからだ。


実在現象の資源化
 実践的プロットの分析の有効な道具としての対象は、何を扱えばよいのだろうか? この点に関して、哲学者が主張する知識の体系形成のための規定概念を引用しておこう。「公理体系(自明であって証明なしに真であること)において矛盾が生じれば理論構成を行う意味は失われる。矛盾が無いことは独立性・完全性とともに、しかも、もっとも根本的で強い公理体系の条件である(現代哲学辞典_矛盾/杖下隆英、公理/大出 晁)」。それゆえに、限定をモデルとした理論が新たな直示的分析と概念定義に直面して崩壊したのは当然だといってよい。
 そのように身動きのとれなくなった概念認識と循環論法は、理論家たちの早急な体質改善の論議ならまだしも、理論の修得意欲をそいでしまうような「検証放棄」という問題にまで発展し、批判の対象となっている。この問題の真の所在は、和声学の前提としている概念規定とモデルが、歴史的・実証的・相対的な視点がないため、西洋 18 〜 19 世紀_バロック・古典派_たとえば、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの和声全体を捉えたいかなる構造様式にも当てはまらないという矛盾した点にある。こうした和声学の前提とは、伝統的な西洋古典和声様式の認識論に連動するものではなく、言説的論述の空洞化や学問的論理性の瓦解以上のことを暗示する。 20 世紀の音楽理論家V.パーシケッティも論じていたように、古典和声の事実の考察に基づく構造概念を規則禁則に縮小することは、音楽教育のなかにある底意地の悪い区別を反映しそれを増長させている。その区別とは、経験的実在から得られる「対象における実際的な構造特性」と、実践的事実を排除しそれは例外であるとする「規則禁則の矛盾を放置した概念規定」とのすり替えによる区別である。世界的に見ても、和声作成の演習において旋律(声部進行)と和音(和音配列)をここまで規制している音楽教育は珍しいだろう。その結果、事象に対する限定・制約に従う概念の適用、あるいは自己合理化のための正誤判断のかたちで、少なくとも対象全体を再生しようとするものではない特異な区分は和声学的分野そのものを劣化させた。
 明らかなことは、和声は聴くためにある。和声は聴くことによって理解されるという、普遍の事実がある。とすれば「規則禁則を知るということ」と「和声を聴いて理解するということ」とは、ほとんど無関係である。人間が当然知っているはずの基本的な知識を忘れてしまうと、人間はごう慢な態度になり、無神経にもなる。忘れていることに気がつかないと無謀にもなる。何の考えもなく限定という号令に従っているうちに、いつのまにか自分が、以前よりも一徹で感覚のとぼしい人間になっているということはうっかりしがちなことである。自分の感覚が自分のものでなくなるとき、もはや和声を和声として感じなくなってしまい、かつて自分は何をもっていた人間なのか、また自分は何を無くしてしまった人間なのかさえ分からなくなり、やがて自分を変えようとしなくなるのである。
 スイスの音楽理論家であり人文主義者でもあった H.グラレアーヌスは、著作「ドデカコルドン_12 弦法」のなかで、音楽を多様化した伝統的な音組織の検証を行い、音楽は規則禁則などで作られていないことを、古典の分析に基いて実践的なあり方を説明しようとした。さらには、芸術の価値判断と実践的表出法の学び方についてつぎのように呼びかけている。「ジョスカン・デプレの音楽は、私たち人間にとって “ 他に比類なき贈り物 ”である。もしもこの男が、生まれながらにしてねじ曲がったあるいは過激な性格によってごく限られたことに応じる便法だけを身に付けた人間であったなら、このようなより壮大で崇高な音楽を生み出すことはできなかったであろう。ジョスカンは融通の利いた鋭い洞察力と精神力を備えていたので、専門的な職業_作曲_において出来ないことは何もなかったのである。それを考えれば、それに違反しているからといって取るに足らない些細なことにはこだわらないようにしよう」( From the Dodecachordon Book three _ Chapter 24 _Examples of the Paired Combinations of the Modes/O.Strunk_ Source Readings in Music History)。
 これこそ「グラレアーヌス」が教えてくれた音楽の見方なのである。彼の理論家としての、また人文主義者としての学術活動の原点には、事実の現実性や有効性を疎外する規則主義者への批判があり、その対極にある芸術作品と共に生きている人間への尊敬と共感を語りながら理論における音楽という対象の認識根拠とその過程を私たちに問いかけている。グラレアーヌスは理論統合に芸術学・論理学的関心を集約させた。だが彼の考えは、従来の理論との矛盾を対置させるだけでジョスカン・デプレが実践した表出は「誤り」と正誤判断する軽薄な手合いとは異なり、実は中世の「De institutione musica/Boethius 音楽教程 」「Scholiaenchriadis/Anonymous 音楽の手引 」に言及されている「音楽理論の危機意識」を共有するところに由来していた。彼に言わせれば、他の人間が言い募る「正しくない」という理論の基本的基準は、すでに概念形成の発展には役に立たない「当時の音楽理論内部にある時代に取り残された概念規定によるもの」という認識であった。そして、基本的基準の問題は人間の自由の問題であり、責任の問題であった。現代においても、この危機意識が音楽理論の再生に不可欠という発想はあらゆる理論構成の基盤となり、和声学のテーマとなる分析状況は、事実の考察に基づく現象間の法則を検証するに際して、その直接的な探究に現実性と効用性つまり基本的知識を確保しようとする時代に入っている。それは、つねに相対的である概念的方向と視点をもたらす人間知識の起源および合理的経験論と可変的一般原理という実証的研究に依拠する新しい時代のモデル構成といえよう。日本の和声学の理論と演習にとっての壁は、そのことに気づいていながら、平明な方法で古典音楽のさまざまな実在現象を資源化できない点である。この基盤となる概念的方向と視点を基本的基準が支えないでいったい何が支えるのだろうか。幸いにも、歴史上における卓越した理論家たちは私たちがあまり失望しないように、和声学の妥当性を守る教程に支えられた知識の体系的構造を通して温かい手を差し伸べてくれているのである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:27 | 08 - 理論家グラレアーヌス | Comments(0)
2017年 03月 04日
09 - 基本的前提の再整備 / 和声学序説:基本的前提
09 - 基本的前提の再整備


「 開かれた概念定義 」


 本源的な情報資源
 和声の構造様式は4声体書法によるものだけに依存しているわけではない。古典音楽にみられるように、和声表出は個々様々な声体数変換によって実践されているのである。しかし、現実体験とかけ離れた実践は、対象の吟味などのない無自覚で直線的な先入観によって、4声体書法以外の構造形態が非実践的なものとして無視され切り捨てられてしまう書法となる。その内容は全教程を通して規則禁則とその適用によって行われ、すべてが音楽の現実在の概念とはまったく違った概念の規定に重点が置かれる。そして、これこれの限定進行に合うような、これこれの禁則を遵守するための演習が実行される。
 事象現象の検証において、そこに多数の現象・形態、さらには多様な結合・分離が分析されるとき、そのあり方に条件をつけて範囲を狭める一義的な和声学もまた、規則禁則による理論状況の産物でる。そのことは組織化された和声学の無内容な現状を見ればよく分かる。関連分野の指導者が、実践の設定は規則が行うエクリチュールの神話を夢見ているような場合には、人間の思惟・存在・実践が限局的概念に振り回され、古典和声に対応する理念の放棄という弊害を伴う。

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 とくに、`Web_和声 - Wikipedia_機能和声の原則`は、理論性に立ち返らせるような「原初的実在」の再生力が弱い。事実隠蔽の体質。出口が不透明。今日、その意味での原則主義に拘束されており、そのもっとも大きな、そして自己撞着的なものとは、いわゆる`実曲中では無視されることもある_和音の進行、限定進行、禁則`のような規定であろう。それは和声書法の全存在に関わる重大な命題といえる。またそれだけに、実在が語る客観的実在性を隠蔽排除する`声部の書法`を体系矛盾と捉える人間にとって、大きな「つまづきの石」となっている。和声を学ぶ現代人は、まず`原則`のあり方を見直すことではないか、としたうえで、実証主義的な考えを取り入れ風穴を開けるという判断には妥当性および合理性がある、と見ている。当然のように日本においても、和声的な世界観を放棄する規則に対して自己批判的機能の必要性が指摘されてきた。なぜなら、「規則偏重を正すことができない構造認識は、古典和声の開放性や創出レヴェルが説明できないからである」(作曲家ドビュッシーの遺した言葉_http://rousseau.exblog.jp/i20)。

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 そればかりか、「和声を4声部として把握する考え方は、中世・ルネッサンス・バロック時代における宗教的合唱音楽が中心であった時代を受け継いだもの」、さらには「 18 世紀古典音楽の創出は近代的理論が反映され、それに基づいて行われている」という実証性のない歴史観が根強く流布している。中世からバロックまでの合唱曲の多くを考察してみると、声部編成は 2・3・4、そして5声体が一般的な形態であって、和声構造の基本は4声体であるという見解はこれも単なる思い込みなのである。そのうえ、 19 世紀末にあらわれるH.リーマンの機能理論は、常識としてJ.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが活躍したバロック・古典派の時代にはまだ存在していなかったのは明らかだ。もちろん、古典和声そのすべてが機能理論の構造概念として解釈できるわけではない。それにもかかわらず、理論は古典和声を科学的に完全解明を可能にした画期的な理論であるといって他のものから差異化する。そういった説明は思考のメカニズムさえもっていない言説といってしまえばそれまでだが、あたかも 18 世紀の作曲家たちは4声体という構造形態と規則禁則とを遵守しながら、 19 世紀的機能理論をすでに100年も前に知っていて、そのカテゴリーの中で和声を想像していたかのように思わせ、そうした言説の下で論じている。
 声部編成という概念の認識に関しては、混声合唱だけでなく、管楽合奏曲、管弦楽曲、またピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲など、そうした一般的なものをも含めて説明されるのが普通である。また、その概念定に関しても様々な方法がある。たとえば「和音には各構成音の重複形態がある」という検証から「構成音重複形態の違い」という構造的な多様性、あるいは「モーツァルトの交響曲のなかには頻繁な並進行(連続)8度の和声構造が見られる」の楽曲分析から「並進行(連続)8度」、ひいては「(連続)5度」の現実性と効用性を知るように、事実検証を介して経験の領域を広げ、多くの和声概念を認識することもできる。
 検証分析は現実的な事実から分析に値する現象の選択を行うものである。すでに現象の多数を、現象の多様について述べてきたように、音楽的な実践を真の意味において可能にするものはこのような現象の認識である。欧米では、時代から時代へ伝わる伝統的な概念は事実によって確証され、経験豊かな作曲家の捉え方や実践は様々であるという多様性を研究する分野として和声学は発展してきた。しかし、従来の和声学における分析状況を検討し再構成していくという理論と論理は、今日においてもなお十分に展開されているとはいえない、と学習者は考えている。つまり、彼らは他の学問において開かれた知的訓練を受ける一方で、真理判断をひとまとめで訴えようとする唯一性の概念による機能論は、古典的概念が容認されやすいように規則主義者の考えによって、ローカライズされたものであり、そのもとに置かれた「自分たちの特殊な現実在の認識状況」は理解できない、ということなのである。
 現代の学習者は、和声学がなぜ「実践的事実」を扱えないのかという普通の論議をしている。音楽の知識や和声法の成立は、和声学と呼ばれる専門的な知識を検証分析によって一般原理にしてきた概念定義の展開の必然的な帰結だと言いたいのであろう。もっとも学習者は、さまざまな概念を知って、それを並べたりあるいは組み合わせたりして、自らの有益な体験の蓄積を行っている。こうしたことから、概念に対する閉鎖性は少なくとも社会的文化的認識の抑圧的な障害物であり、歴史的・経験的実在の排除は妥当性を失っていることも判っている。中世の音楽教本以来、原初で本質存在であった芸術作品との関連性、整合性、人間の創造的想像力に定位して形成されたという現実在についての無関心によって、先にもふれたように、'声部の書法の原則'が、古典音楽の和声についての適用領域の証明を偽り、現実的に理解可能な現実在を'例外規則によるもの'といって証明もなく排除する和声学、さらには問題解決を得るための「本源的な情報資源」にアクセスできない基礎論なら、ない方がいい、と彼らは考えるのである。


 基本的前提の条件
 ある音現象の生成が、歴史を基盤として成り立つもの、さらには未来に向かって成り立つものとして捉えることができるならば、その音現象はそれ自体として完結することになる。完結するということからすれば、それは個性をもつとされ、過去から現在、現在から未来に向けて更新されるとなれば、それは発展するといえる。それゆえ概念定義とは音現象を発展という範疇で捉えることにほかならない。ところで、規定された音現象はそれ自体として完結されたのだろうか? 排除された音現象は今でも例外なのだろうか? 完結され例外として排除されたとすれば、それは過去の世界においても、そこで停止し、それ以上は発展しなかったはずである。
 和声理論がもつ構成原理の本体を見極めるために、文化社会が認める音楽作品が提供する個性的な創造性にこだわることは間尺に合わないと思われるかも知れない。しかし、そこに存在している技法がもつ多様性・変化性こそが分析の根底に潜む概念と認識を明らかにしてくれるのである。芸術作品における実践とは、例外的な特殊現象の集合体であるどころか、私たちが理論構築の知的作業を行うための根源的な認識規準となるものである。音楽作品をめぐる解釈だけでなく、その基準を解釈するために用いられてきた従来の機能理論を検討してみれば、彼と同じような結論に達するだろう。ローパーが指摘するように、論理思考の最も希薄な理論のあり方を疑問視する度合いは、我が国の文化社会や音楽教育においても次第に強まっているといってよい。ここで問われるのは、和声学の論述はいかなる条件においても多様な形態を理論的に総合する問題に対処できていたのか、という点である。「歴史を横断するという視点」の導入もなく、厳密で基本的な前提条件を導き出そうとつねに変化する現象の根拠を断片的に`単一規則`に収束した`原則`は、これを単に外からの強制として受け取る知的な学習者を対象とする限り有効には機能しない。たとえ、個別に芸術作品の和声について語ることがあるにしても、具体的に知る手がかりは方法的に遮断されることになった。過去そして現在において相対的であった概念そのもの「つまり実在」は、「実在を限局する定義が非創造的と呼ぶもの」に零落してしまった。これは演習の問題に限らず、一般に規則禁則の評価にしても同じことがいえる。もともと`原則管理の破綻`に関しては、概念の形成過程において多くの弊害がある。それが和声学基礎論において拡大されて現われたのである。
 それはこういうことである。つまり、規則禁則論に影響された人たちは、一様にその規則禁則によって動かされ、決定者の発する文言を復唱することしかしない。こうした人たちにとっては、少なくとも 1970年代の教育事情の不本意な出来事で、その規則禁則の妥当性には関わりなく、学問的教育的責任がないのは当然だ、ということになる。そうだとすると、いま歴史的・実践的実在の一般原理を客観的事実をもって定義する際に、実在では「実際に機能している概念」を"例外枠組"に投げ入れる概念定義は、その性格において1世代前の"機能和声の原則"と同じ限界状況を露呈していたことになる。
 いく度も述べたように、概念定義は、他のことはさておいても、実在概念に関する関連領域の和音とその用法を明らかにした資料の作成を命題とするが、和声を形成している諸要素を中立的なレヴェルでさまざまな概念の内包を明確にするためには、実在認識のための検証と分析の手順いわゆる明証性の原理的な表明を踏まえる必要がある。当然のことながら「再整備の条件」は、人間の創出とその歴史的経緯が作品という素材そのものにおいてどのような形で総合されているかを示す点にある。そうすることによってはじめて、実在の概念的本質、つまりそこに立ち現れる相対的な基本現象もまた表現手段の要素となることができるからである。


 論理的基礎論
 西欧をはじめ、限定離脱は存在したとしても、機能離脱などという時代を取り違えた実在についての歴史観はいまや何処を探しても見当たらない。この取り違えは普遍的な妥当請求をする概念定義にとって、論理的にはすでに動的な古典和声の可能性に対する「否定的指向」をもち込んでいるものであり、なかなか消えることがない。周知の公理的概念を思い浮かべると、この点はいっそう腑に落ちる。_規則違反、例外枠組。というのも、規則主義は、古典和声においてあくまでも実践的な領域に属するものであった人間本来の普遍的な自由、すなわち多様な人間的表出行為に関わる定義であるにもかかわらず、その内部に「思考するものではない」という正誤判断をもちこみ、その枠組に「先験的」な概念規定を設定してきたからである。この無謀な判断と可能性が封じられる規定に対して理論体系はどこまで従うことができるのであろうか。思考の対象についての確かな検証を回避してしまい、原則を特権化された聖域にまつり上げる方向に進んだ規則主義者がいつも決まって口にする「それは考えても無駄なこと」なのだろうか。
 とはいえ、現代に生きる社会人は、もともと道理に合わない原則に陥ったとうてい無理な論理をよく心得ている。理論家が特定の対象についてある判断をするに際して、その判断において必要な実在認識の認識基準とは何かと考え、それを概念化したものが和声学でいう実在の概念定義であった。理論家によれば、概念定義とは、実在を経験する人間が、実在のただなかですでに存在している実在を根拠に、その自然な基本概念を思索して立ち上げる自らの理論的論証基盤の確保なのである。だが、傍観者的スズメたちが鳥かごの中で公然と騒ぎ立てている規則禁則が、重要な課題を積極的に担えないことが検証と統計学的分析の発達によって証明されてしまったことに、そして、論理的矛盾を隠蔽するために非現実的な収集枠は引き出せてもそれが妥当な判断であるとは言えなくなり、「事実を検証すれば例外が多い」の弁明を連呼しながらあわてる場面をみていると、その騒ぎ立てや凡庸な論理は、根本的な問題解決を保証する概念認識、すなわち相対的な実在性を還元できる概念規定ではないことに漠然と気がついているのであろう。しかし、和声学基礎論はつねにこの矛盾を指摘しつづけてきたが、当然それに的確な答えが与えられたことはなかった。現代人は、そこで、この肥大した矛盾を「再度」指摘し、もしこの指摘に明確な答えが得られるならば、中世から現代にいたる和声学基礎論を根本において動かしていたものが何であるかを理解することができる、と考えているのである。それにしても、「事実を検証すれば例外と定義された事象現象が多い」とは、どういうことなのか。
 それは、`機能和声_声部の書法の原則`が、実在を実在として成立させている「生成の機能」とは、どのような概念であるかを厳密に論証することができないことなのである。たしかに、実在を概念とする定義が実在を自然とみる合理的経験から生じていることは否定できない。したがって、そのような定義は、現存在である実在の本質からのいわば帰結なのである。もっとも、この帰結というものは、限定制約的とか、疑似的といった意味は、まったく含まれていない。だが、実在概念の限定的制約的なものでしかない疑似概念が概念的本質そのものにすり替えられ、本質の存在が論じられる場で伸し歩くということになると、どうなるのであろうか。そうなれば限定制約的ということになるであろうし、その限定制約的なものが"あくまでも原則"という帰結を生むにちがいない。そしてその通りになったのである。
 イギリスの歴史家H.T.ローパーは、時代は「芸術」によって表現されるとする立場から芸術を「歴史の証人」とみなし「芸術や文学をもたない社会が退屈であるように、芸術や文学を無視する歴史は退屈である。反対に、歴史と切り離して研究される芸術や文学は、十分に理解されるとはいえない。むろんすぐれた芸術や文学は、それらを形成した歴史的状況、つまりその偉大さを生み出した状況を超越する。わたくしはフランスの歴史家フェルナン・ブローデル(1902〜 85)と同じく、芸術と文学は、保存するに値する全歴史の真の証言者であり、文明の後継者が我々であることを想起させてくれる精神的な蓄積物だと信じている」と説く一方で、「われわれの世紀の厳格な理論家(イデオローグ)たちは、失われた一体性を人為的に回復しようと試みたけれども、この野蛮な実験は芸術の面では成功していない (PRINCES AND ARTISTS-Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts 1517-1633 / ハプスブルグ家と芸術家たち/横山徳爾 訳)と述べ、規則主義者のただひとつの主張のためのプロパガンダ、つまり他性を執拗に否定する安直な小細工を見破っていた( 歴史家フェルナン・ブローデル )( PRINCES AND ARTISTS _Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts/ハプスブルグ家と芸術家たち/横山徳爾 訳 )。
 このような見解は重要な意味をもっている。というのは、音楽芸術の場合、対象を概念的に規定する定義やその適用が、ひとりの作曲家の現実的な実践の多くを考慮しなければ理解できないことを示しているからである。あらゆる現象はそれ自身が独立した形で存在しているものではない。和声的なシステムに近づくことができるのは、知ろうとする対象を生成においてとらえ、存在全体を組織的な形で理解可能にした理論があるからだ。対象が私たちにどのように働きかけてくるかを洞察するに際して、そのような理論は萌芽的な概念による認識に発展的可能性を与えることに役立ち、さらには象徴化の能動的な補佐役であることが分かる。それによって抽出されたさまざまな構造的概念は、自らを明確にし現実体験によって得られる合理的な現象から出発して直接的な定義となる言説の中で具現化される。私たちがおこなう検証や分析の対象を、新しい人間のイメージをつかみとろうとした創造的という芸術作品の音楽的な構造領域へ移行させることで、和声的で論理的な基礎理論というジャンルへ到達することが可能になる。
 私たちが、「いかに創造的になれるか」と同様に、「いかに音楽的になれるか」、そして「いかに和声的になれるか」を問題にしたとき、歴代の大作曲家たちが思索していたのもまさにそのことなのである。




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# by musical-theory | 2017-03-04 14:26 | 09 - 基本的前提の再整備 | Comments(0)