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HARMONICS Book 1
Net Work Preface(前記) Contents 1 Basic Desk Front - Information ① 01-これで和声学といえるか? 02-客観的帰結の実践的課題 03-人間能力の根本原理 04-知識獲得の可能性 05-現代的な枠組み 06-マザー・システム * 07-先入観と規則主義 08-対象概念についての論及 09-音楽理論家グラレアーヌス 10-実際に機能している和声法 * ReferenceData
St.Augustine, Confessions Anicius M.T.S. Boethius, De institutione musica Flavius.M.A. Cassiodorus, Institutiones Anonymous, Musica enchiriadis Anonymous, Scholia enchiriadis Bartolome Ramos, Musica practica Heinrich Glarean, Dodecachordon Gioseffe Zarlino, Instituzioni armoniche Thomas Morley, A plain and Easy Introduction to Pratical Music Vincenzo Galilei, Dialogo della musica antica e della moderna J. P. Rameau, Traite de l'harmonie J. J. Rousseau, Lettre sur la musique francaise Charles Koechlin, Traite d'harmonie Edmond Costere, Mort ou Transfigurations de L'harmonie Knud Jeppesen, Counterpoint Paul Henry Lang, Music in Western Civilization Carl Parrish and J.F. Ohl Masterpieces of Music Before 1750 H. M. Miller, History of Music Donald Jay Grout, A History of Western Music Hermann Keller, Das Wohltemperierte Klavier von J.S. Bach Werk und Wiedergabe Peter Bastian, Ind I Musikken Vincent Persichetti, Twentieth Century Harmony Diether de la Motte, Harmonielehre Katharine le Mee, The Origins, Form, Practice, and Healing power of Gregorian Chant Hugh Trevor-Roper, PRINCES AND ARTISTS Patronage and ideology at Four Habsburg Courts Pierre Boulez, penser la musique aujourd'hui Kevin Bazzana, GLENN GOULD The Performer in the Work 検索
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2012年 01月 07日
![]() 2012年 01月 07日
![]() 和声学 Book 1 _Web:biglobe _Web:yahoo _Web:excite Contents 1:考察と分析 Contents 2:和声の実体概念 Contents 3:和声の一般原理 和声学 Book 2 _Web:biglobe _Web:yahoo _Web:excite Study Guide 1:和声変遷・バロックの和声 Study Guide 2:古典派 - ロマン派の和声・印象派の和声 和声学 Book 3 _Web:biglobe _Web:yahoo _Web:excite Support desk 1:旋法性のプロフィール Support desk 2:実践用語と理論用語 2012年 01月 07日
![]() [ 前記 ] _ 概念規定の信頼性 _ 私たちが、ある構造特性を思考の対象として認識するのは、それがそれ以外の対象から区別されることによって認識されるのである。しかし、他の対象から区別された構造特性というだけでは、まだ認識は成立しない。これらの構造特性を検証すると同時に、整理・分類しなければ、人間には意味をもつものとならない。すなわち識別された対象が、それは「バロック」を特徴づける性質であるとか、その性質を具えているのは「古典派」である、という「概念化」を通してはじめて理論のなかに位置を占めることができるのである。それには、対象全体の構造がどのような特性をもっているのか、他の対象とどのような関係にあるのか、というように、ものごとの状況や意味がよく理解される必要があり、このような思考の働きが「判断」といわれるものである。概念化と判断の共同の働きによって、知識体系は形成されていく。 実践の構造特性とはどのようなものなのか? それを明確に定義できる理論が手助けできるのは、以前には概念化していなかった新しい事象を、リストアップされた実例というカテゴリーに同化融合させ、理論の限界を広げていくことに対してである。そのような同化のための有効な定義とは、現実に存在した理解可能な表出法が、芸術概念に正当であると証明する基準を十分に満たしているのを示すことである。しかも、それを正確に筋道を立てて述べるには、「出発点となる歴史的・実践的事実」と「象徴化の目標とする諸様式の原理」とを一致させるコミュニケーションの力が必要である。この象徴化にその大半の手段を与えてくれるものこそ、人間社会のさまざまな音楽文化という舞台でいまなお主役を演じている古典の実体概念の本質的規定、つまり、他の研究領域をも受容できる事実の実証的研究にほかならない。 和声学が和声学として成り立つための必要条件とは何か? ルールの弊害が問題になっている現状では、ことの真偽に対する実証性が足りないということは、重要な問題である。非実体的観念論のために犠牲になってきた古典和声の世界を考えると、事実の排除の問題が問われる時期にきている。一元論が原因となって陥る循環定義、この規則はどこから採ったものか、禁則の出所はどこなのか、次元は違っても、機能理論の危機状況を引き起こしている諸問題は、すべて認識根拠についての言明拒否という問題に行き着くのである。理論に限らず論理的にも、特定対象を洞察するための認識方法が一極的で妥当性がないなど、ずさんなものであった。 現代の和声学は、こうした従来の説明的思惟の役には立たない概念定義を踏み台として、知識の体系的構造を明らかにし得る理論の一般性を模索する。優れた理論家が対象の直接的な事実探究を厳密に行う背景とは、このようなものである。対象の認識は事実考察に基づいてなされるが、その事実はその世界のなかで把握されたものであるからだ。さまざまな視点から他のものと区別したり、判断したりして、その世界によって理論はつくられているという相関である。その議論は、少なくとも古典和声学を完成されたものにすり替え、そこに留まってしまう自己満足とは、交わるところがないだろう。検証を怠る規則禁則の繰り言は観念論の常として、人間的能動性(思惟)と古典的対象(存在)そのものが何よりすばらしい。古典を否定する前提条件やルールという単純作業によって限定される理論と論理の再検討を、そして「事実に基づく現象間の法則を洞察することの重要性」を現代人の実体論的思考はあらためて問いかけてくる。 _ 実践的関心 _ 理論解説が匿名化した環境においては、古典文化の多元性を謳歌する動向が、実のところ従来からの閉じられたロゴスに一元化され見えがたくなっている。両義性を喪失した論述の多くはその場だけをとりつくろう言い訳になり得るとしても、説明的思惟の役には立たない。それは自らの言及内容に責任を取ろうとしていないからだ。そうした説明は、歴史的実在の検証において、またはその前で曖昧になるのが常である。なにより、この荒っぽい概括を規則主義者や解説者は規範的思考に摺り替えてしまった。そうなるときまって、唯一性の概念を正当化するために論理的な説明からは撤退してしまう。古典和声という多様な人間活動に関わる学問でありながら、出口が不透明なルールに足を取られている。我が国の和声学に広がっているのはそんな風景であろう 。 その和声学についていえば、ルールは演習する際の優先事項と、J.S. バッハに相応しいスタイル_少なくとも伝統的なJ.S.バッハのスタイルとは調和しないのを認めていた。特にルールの好む限定制約は、J.S. バッハのスケールの大きいコラールやフーガが求める,融通自在のカデンツを受け入れる余地はなかった。旧態のルールは,J.S. バッハに事実を直接尋ねてはいない。なぜなら自分の指向とJ.S. バッハの音楽を融和させることはできないことを表明していた。しかし現代においては、古典和声の多くの特徴をなした自由性と多元性から滋養を得て、その多様性・変化性を取り入れようと前提の基盤移行を始めたのである。この文化的潮流を“よく分からない”と言い単なる無秩序と嘲笑する人々もいたが,新しい概念規定はその環境のなかで合理性と実践能力を与えられ、自らを有効なものにすることができた。 人間の歴史的・実践的存在に対して原理的な保証を自らの外に求めようとしない規定は、いかなる帰結も持たない。というのも、それは不可能な試みであるからだ。そもそも古典とは長い時代を経て現在なお高く評価されている芸術作品をさす。それゆえ古典和声とは、芸術作品がもたらす構造そのものである。しかし、限定・制約が古典を解析した概念規定ではなく、そこから離れたものであるという規則主義的な意味であれば、古典の実践に干渉することはできるはずもない。和声学はそうした限定・制約を基準にして実践的関心を欠いたまま、歴史的事象の本質・目的・意義に関する実践をごう慢に支配しようとするからである。 今日ほど和声学についての根源的反省を求められている時代はない。このことは、構造が固定化された分析不十分なものを前提にする馬鹿げた立場に終止していたのでは和声構造の実体は把握できないという事態を物語っている。理論はあらゆる人間の思考と同様に、つねに特定状況の中でその状況の定義を助ける目的により動機づけられている。私たちが理論を知ろうとする状況は、実践が形成し、実践が導いてくれたものである。現代の音楽文化社会は和声学に対して、経験的実在から得られる概念の多様性・変化性を導入することによって、改めて実践のもつ本質的核心を表わす属性を浮かび上がらせること、その基本的な手続きを要求しているのである。 _ 問題意識_ 21 世紀という現代にあって、なぜ和声学は実体論的思考を排斥するのだろうか? 実践的存在の有機化、新しい和声学の確立という要請が背景にありながら、認識の根拠づけを知性の自己批判として遂行することのない規則禁則は,より伝統的な和声学の理論モデルが失墜した結果と説明される。和声学の理論が再考され、残ったのは和声学の真空恐怖(おびえ)というもので、つい最近では、人間特有の能力(理性)が疑われるような「作品の解析は他者に委ねる」という非論理的な説明が論議された。特定対象における事象の究明が脇に置かれ、規則主義者が自分の描く構図にこだわったことが、さらに、その構図に合わない実体を基本的基準から排除する考えは、古典の客観的実在性の否定に向かうことである、ということも判ってしまった。実践によって具体的・現実的に統一される人間的思惟と歴史的存在を見捨て、実態とかけ離れた規則禁則が実質的内実を見失う病理はあまりに根深い。 和声学の問題点とは、理論構築において実践的存在を排斥した私的で秘儀的な循環定義の非論理性、現実から遊離した疑似和声をあやつる限定・制約に対する過大評価の弊害、さらには、人間が想像し実践に対する無関心から生じた概念規定によって常識的原理の隠蔽の場と化してしまう公理定理の存在である。つまり、規則禁則のもたらす先験的な正誤判断はその直接的な検証における実践的存在への認識がまったく欠如している。いや、それどころではない。この妥当性のない認識論は和声の起源にまでさかのぼる。学ぶ人間としては、実証的データは基本的に信用できるというのが前提であり、現象の論述は事実性を慎重に吟味するが、日本の和声学においてその合理的な分析結果に対して意図的に手が加えられている事態は想定を超える。 それにしても、規則禁則にもっとも忠実であった者ほどその規則禁則に裏切られている。どう見ても事実ではないと思い返した人は多いであろう。規則主義者の周辺は「ルールは矛盾していてもその演習には意味がある」と強調するが、音楽理論での規則禁則の存在感は薄くなっている。矛盾するルールを用いて演習をしたとしても、矛盾した実践にしかならないからである。今まで従ってきたものは、どこまでがほんとうのことなのか、どこからが事実と違うのかを懸命に聴き分けようとしてきた。こういう状況に対しては、日本人の聴く耳であっても、決して曖昧をよしとしないのである。それとは反対に、規則禁則が分からなければ作曲などできるはずがないという判断は作曲以前の問題であろう。滑稽な話である。この甘えのような思い込みが,なぜ、こんなに広まってしまったのだろうか。事実と疑似の区分を曖昧にして終わる不十分な和声学といわれる所以である。ほんとうのことを認めれば都合が悪くなると語り、何が事実かを確かめもしない理論を鵜呑みにして、ルールそのものが何を意味するのかを自覚していないものがある。独り言に近い。和声学が理解できないとは、こういうことをいうのである。 概念とは何かという問いに対して、多くの答えがあることは、概念が指し示す事柄に,様々な次元があることを示している。どのような対象の概念であれ、経験的実在から得られる一切の多様性・変化性を排除する概念などけして存在しない。もし、私たちの機能論的思考が旧態理論がかかえた事実の隠ぺいという質性に対して、少しの問題意識を見せたら、実証的研究を促進する現代的なアイディアも出てくる。その問題は、実体論的思考への顧慮にある。本来的な和声学は、一現象の一集合でもなければ、規則禁則の羅列でもなく、事実に基づく現象の全体的布置であり、「考察と分析」である。 2012年 01月 07日
2012年 01月 07日
Basic Desk Front - Information ① 01 - これで和声学といえるか? ♦ 音楽と人間 ♦ 変化発展していく認識方法 ♦ 定義と再生 ♦ 原理的な保証 ♦ 相対的な理論の展開 02 - 客観的帰結の実践的課題 「 理論の構成原理 」 ♦ 命題の真偽 ♦ 事実検証と分析結果 ♦ 実証性と効用性 03 - 人間能力の根本原理 ♦ 区分と定義の違い ♦ 反転している検証結果 ♦ 実証的論述 04 - 知識獲得の可能性 「 歴史における伝統性と創造性 」 ♦ ジャパン・シンドローム ♦ 基本概念 ♦ 直示的定義 ♦ 理論構成 05 - 現代的なパラダイム 「 和声の歴史と論述の歴史 」 ♦ 作曲家の創出行為 ♦ 共通の感覚と事実性 ♦ 象徴化の過程 ♦ 思惟・存在・実践 ♦ 新しい理論基盤 06 - マザー・システム 「 認識基準の定義 」 _(譜例掲載) ♦ 学ぶ場の選択 ♦ 音大生学習能力低下の一因 ♦ グランド・デザイン 07 - 先入観と規則主義 ♦ 基礎的な論理 ♦ 和声学の眼目 ♦ ローカル・スタンダード ♦ 教育の分断 ♦ 前提条件 08 - 対象概念についての論及 ♦ 認識の発展と分析の方法 ♦ 創造的性格 ♦ 新しい理論的基盤 ♦ 知識の体系的構造 09 - 音楽理論家グラレアーヌス ♦ ソースプログラム ♦ 実践的プロット ♦ 構造的差異 ♦ ルールの弊害 ♦ 合理的経験論 10 - 実際に機能している和声法 「 考察と分析の方法 」 _(譜例掲載) ♦ 試験難民 ♦ 情報・知識の最前線 ♦ 定義の出発点 2012年 01月 07日
![]() _ 理論が成立する前提 _ ひとつの構造特性は、当然、歴史的・実践的事実という基本素材の考察・分析にもとづいて概念化され判断される。つまり考察と分析は、対象との直接的な対話によって、現象・事象の現実的な法則を見い出し、その事実の現実性と効用性を確保しようとするのである。このようにして、概念化と判断の共同の働きは合理的な認識と経験論に依拠するといえる。だが、旧態の形骸化した和声学の理論には、現象の象徴的機能の本質を明らかにすると言いながら、おろそかにしている与件がある。与件とは、認識の最初にあって判断の材料となるもの、意識に直接与えられているもの、つまり理論が成り立つための条件となっているものである。いまや和声学は、あらゆる領域でその根本的な前提にさかのぼり改めて考え直すことが求められる時代である。 それを考えれば、人間的能動性と歴史的事物をかえりみない方向で行われる判断は、現実的に理解可能な何ら の意味をも提供しない概念となる。そのような概念は、私たちが文化社会のなかで普通のこととして経験できる ものではない。また、表出の自由さをたっぷり聴かせてくれる古典を聴いていると、音楽の世界において実際に 立ち現われる実践そのものを例外視するルールが、多様化した現代思想に無用な混乱を加えていることも分かっ ている。かといって人間の思考的実質を犠牲にする限定と制約がこの矛盾を解決できるはずもない。 というのも、規則禁則論でのパラドックスのために20世後半の日本の和声学は存立の危機に見舞われた。事実に基づく分析を基盤とする実証的研究は、和声学が最も実践的であり論理的であり、信頼に値する学問学であることを再確認しようとする時代の風潮の中から生まれた。古典和声の根幹的基礎を研究する一つの立場である。それは、旧態的な和声学の理論と論理がルールをもって基本的な構造認識を要請しているのに、和声のもつ構造システムは、規則主義者の描く限定・制約の要請に合わせてつくられてはいないからである。また、古典的対象へのミッション活動を放棄してしまう唯一性の概念によって埋め合わされたその定義は、本来的なロゴスと経験的実在に向けられた方向性も視点もなく、現代の社会的な文化活動に関わる人々の選択しているような概念ではないからである。こういった衝動過多な理論を普遍項として求める和声学の状況がほんとうにあるなら、仮説的なものに付和雷同する疑似体験は事実の現実体験よりつねに矮小なので、学生や青年たちに古典の音楽体験を聞くにしても「実際はそうではなかった」といって疑いの目を向けられる。しかも事実の単純な論述に還元できない基本的基準と構造認識、あるいは行き過ぎた概念規定やカテゴリーを捉えてみれば、所詮、それはすべての時代の作曲家や演奏家からはコンセンサスが得られない愚問となる。 バロック、古典派の音楽作品を枠組とする和声法において、たとえば、すでに現代の研究では多様で多数の現 象が検証されているにもかかわらず、人間の能動的な思惟・存在・実践を示す顕著な古典を見捨て、「導音は限 定進行音である」といって実践事実とかけ離れた「部分現象_短2度上行だけ」を、また、和声という歴史的存 在そして美学的な普遍項からはほど遠い「和音構成音_第3音および導音・第7音の重複は不良」、「完全音程 _連続5度・8度音程の忌避」をルール化する規則主義者の考えがそうである。 ![]() 少し頭を使えば、このようなルール化が疑わしいものであることはすぐに判ってくる。事実、どのような規則主義者も次のような点で意見が一致している。いわゆる禁則は、とにかく心理的・感覚的に「不快な響きで受け入れがたい性質をもつような響き」を指していうのである。内容的には、個人ごとに相違があって、形式的には、個人差がある。したがって禁則の概念とはまさに主観的な概念である。というのも、原理的な面からいえば、禁則は常に禁則であることが確証されたわけではないからだ。古典を考察するなら、バロック・古典派和声様式の主要な構造特性_導音の自由な進行とその重複、そして、和音構成音の第3音重複、属7の和音_第7音の多面的な進行とその重複、さらには声部間につくられる和声の起源的現象に由来する並進行(連続)5度・8度音程など、その実践的実在は人間の想像力と志向力を育む、しかも、これらは表出にとって重要な役割をもっていたことが、事実の実証的研究によってすでに明らかにされており、まったく否定する必要もない和声法ということができよう。 ![]() 和声学の理論構築のための対象となる相手、すなわちこの実体のある和声法に対してお決まりの禁則のレッテルを貼ることはできない。これら否定する必要もない和声法を理解することができるのは、それらがもつ動的な機能性ゆえである。要するに、実際に聴きさえすればすぐにでも納得できる響きなのである。 _ 認識の根拠付け _ 日本の和声学において「規則禁則というルールを認識基準とする機能理論はすでに破綻している」と人々は批判した。かつては和声の全体を見落としなのかもしれないと善意に考える一方で、都合が悪いデータだからわざと考慮に入れなかったのでは、とも疑っていた。しかし、熟知された事象の究明が脇におかれ、規則主義者が自分の描く構図にこだわったことが判ってしまった。そうした構図に合わない現象を邪魔なものとして基本的基準から除去する考えは、対象を概念的に規定する規則禁則の内容とも一致している。事象と食い違うほころびのつじつま合わせのためにつくられた括弧付ルールの病理はあまりに根深い。「ルールは、和声学における専門知識となるものではなく、演習上の便宜的な手段であるにすぎない」という背後的知識は、それゆえ多様における統一を本質とする和声の特徴を失ってしまう。 その理論と論理は、公理定理の疑問を投げかける認識者がいつもこぼすように優柔不断で観念的である。明白な歴史的存在を無視しているのに加え、実践によって合理的にまとめられた可能性をも排除する。つまり基本的前提を意味する公理定理で構成された理論でありながら、この理論に現われる他の命題を公理から与えられた一定の規則に従って証明することができないのである。説明をするにしても、すぐ論理はばらばらになリ、ともすれば野卑になる。法則の発見という目的を自ら果たそうとせず、反対の事実が指摘されると、決まって論議から逃避する中途半端なパターンを繰り返している。しかも「検証は他者に委ねる」としたその責任は重大だ。 認識の根拠付けにおいて、事実そのものが和声学を望ましくないものにするのではない。分析不十分な限定・制約が公理定理となるからである。元の対象と合致しない限定・制約は、認識の固定化と均質化を引き起こし、芸術家のような自由な想像力の理解を諦めさせ、人々の実践および美的選択の幅を狭める。古典は自立する作品から工場のベルトコンベアの上でチェックされる部品に引き下げられ、人々は、ほんとうは関心のないものを聴くよう強いられる。彼等は、それに興味をもつようあらかじめシステムのなかに組み込まれており、概念の形成過程における考察にはそれに代わるものがない。 とすれば、私たちの批判は、単純に、理論が上から教え込まれていることを指摘しているのではない。和声学も常に和声の実践的事実を例外視するルールを押しつけてきたからである。そのほんとうの矛盾は、この押しつけに価値がないことなのだ。押しつけられた規則禁則にはその明証性を原理的に表明できる力がない、しかも、それは私たちが生きる音楽文化社会や日常生活の円滑化を計っている認識基準ではないからである。原理的な表明を不必要とする規則主義者の、それこそ不必要な限定・制約いじりではないのだろうか。抽象的な符号で表わされる概念は無私であるが、背後にはよくも悪くも人がいる。何によらず、吟味する志向は、事実の検証によって理論の可能性を探ろうとする認識者の自戒である。 _ 実践的存在 _ 和声学という理論は様々な分節化を受けた現象の連係関係から成り立っている。理論の一般性として、基本単位をなす部分現象そのものが直ちにルールとなるわけではない。個々の現象は、それらが属する対象と事象全体の構造によってしか識別することはできないのであり、それら自身はけして内圧的な要求から生み出されたものではなく、正しいあり方という概念の定義を示す意味生成をもっていわけではない。それらは一つの部分現象であるにすぎない。ところが、相対的な検証メカニズムがもたらす実践的課題と取り組むことも不可能な規則化の流れの中にあると、不幸なことに人間はえてして知らず知らずのうちに概念の固定化という落とし穴に陥って、ひとつの方法に満足するだけで発意性や創意性を枯渇させていくのである。対象の構造様式を知るための手段となるものは、概念の形成過程における種々の抽象であって、それは事実の検証や実例のリストアップを基盤にして行われ、対象と他の数々の対象との比較をあらわすものである、ということができる。その概念による認識は部分を集めて対象全体を再生させようとするものにほかならない。古典における実践をそのような方法で比較検討してみるなら、理論がもつ一般的な和声の原理が明らかになってくる。 思い起こしてみよう。グレゴリオ聖歌を主題にするオルガヌム、モンテヴェルディのマドリガル、J.S. バッハの声楽的4声体コラールを調べてみると、和声に関する表出法は多元的な構造を有していることが分かる。しかし我が国の規則主義者は、西洋人による西洋音楽の開放的な表現を日本人の控えめな表現に取り入れることは無理かもしれない、また、規則を好む日本的な音楽教育のためには多様性や変化性について言及することはただ混乱を招くだけである、と考えていたのだろうか、しかも概念形成の導入となるダイアローグすらない、その構造認識の方法は閉鎖的である。事実に基づく直接的な探究がないがしろにされるのは、理論も演習も論理も同じで、前提となる基本的基準に共通する。だが、昔の西洋人のなかには困難を切り開いて、新しい多元的な表出のために能力の全てを尽くして想像した表現者が多くいたのである。その努力や苦労が結果となってあらわれたのが、古典和声といわれるものである。人々が求めているのは、検証を放棄する一切の志向を斥け、人間の精神的・身体的状況と相対的である「古典の世界」を私たちの手に取り戻すことである。 私たちは、日本的・制度的理論の狭く排他的な和声学の危機的状況を踏まえ、和声学を学問として充実させる面から、事実の還元を確保する検証のあり方を示す必要がある。実証的研究の進歩・発展の速さに日本の和声学は立ち後れ、認識方法を含め事実からの定義志向が非常に弱い。元の対象と合致しなくなる画一的な限定・制約という断面だけを捉えても和声の原理全体は動かない。その和声の一般原理が語りかけているのは、「対象が何であるかを考察・分析できないなら理論というものは存在しない」ということである。和声とは人間の思惟と存在とが具現化された実践的存在である。実践的存在は語りかける力をもっている。しかし語りかけに値する話し相手がいなければ、それは沈黙したままであろう。 2012年 01月 07日
Desk:01 − これで和声学といえるか? ◆ 音楽と人間 音楽とは何か? この問いは、音楽理論にとって積年の課題であった。それは西洋音楽理論史における中世の音楽について詳述した「音楽教本/著者不詳_ムシカ・エンキリアディス 」、「同書への注釈書_スコリア・エンキリアディス」が理論書として登場するはるか以前から同じである。これらの理論書は、グレコローマンの著書から引用した諸原理を採用するものであると多くの研究者が論じているように、概念の形成に関しては、ピタゴラス理論をはじめギリシャ音楽の音組織、和声の根本原理となった「オルガヌム」「複合オルガヌム」に依拠する音程の和声について検証を踏まえながら説明したものである。 そもそも、古代世界の文化において音楽は民族性や道徳性に影響を与えるものとして、また、真理探究のための哲学的導入手段として一般教養である7自由学科の主要4学科の中に置かれ、算数、幾何、天文学と並んで数理的な教科の一つとして重要視されていた。すなわち、音楽は人間の精神的な豊かさを示す顕著な実例であって、想像力や実践力を認識するための源泉であった。そしてこの音楽についての検証は中世的・ 18 世紀的・近代的という段階を経て、現代の実証主義に至るまで連綿と続いている。その理論書は、それぞれの音楽の無限の豊かさと固有の構造特性とを見い出した点で、ヨーロッパ音楽理論史の発展を意味するものである。 20 世紀において西欧の思惟が経験したように、歴史家・理論家・評論家が新たな角度から論じる機能論的思考と実体論的思考は、理論を社会的・文化的実践と定義する。 ◆ 変化発展していく認識方法 音楽創出の世界には多くの独立した原理がある。その歴史は単に特殊な領域内部の限定的概念から成り立つものではない。作曲家それぞれが創意工夫した実践と各技法間に生じる相互作用の結果として得られるものであり、その多様なあり方は、人間が自ら変化しようとする本能によって、昔からどんな時代にもどのような作品の中においてさえも見ることができる。私たちには仮に一義的に見える現象であるとしても、それは多義的な表出をもつことを前提としている。それゆえ、近い将来にはデータ・バンクが提供してくれる知識体系を活かす方法、また、その新しい認識根拠と基本的基準が必ず問題となるだろう。たとえ、そうなったところで、事実の全体像を明らかにする考察と分析という知的活動が不要になることはない。 ボエティウスは音楽と人間の関係について「音楽は本来、私たちと親密な関係にあり、私たちを気高くすることも堕落させることもできる。すべての知覚力は人間に生まれつき自然に与えられているが、心に感じることを見つめているだけでは何も分からない。その行動にともなう感覚機能の本質とは、また感覚的に感じていることの固有の特性とは何であるかは、事実に沿って専門的な研究や熟考がなければ明らかにされることはないのである」と論じている( De institutione musica /Book one_1.Introduction /Boethius 音楽教程-第1巻 )。 事実の認識がいかにあやふやなものであり、いかにつながりのないものであるかをまざまざと見せてくれる例がある。分析において構造認識の根拠を示すことのできる基本原理についての言及はなく、事実に基づく考察・分析からの逃避が、そのまま理論に写し出されているものである。曖昧な枠組みや実例の解析もない概念規定が延々と並べられる。前提とされる特定対象についての説明もない。さらに事実に基づく新しい法則の発見により定義基盤も揺れる。構造認識の飛躍があり、負が負を呼ぶ。目も鼻もない逃避というほかはない。 それは、特定対象のもつ明証性を原理的に表明できない限定と制約である。この実体論的思考や客観性に欠ける内的論述と概念規定は誰に向かって語りかけているもののではない。自分自身ですらない。あげくの果ては隘路の奥へと駆け込んでいくのである。歴史からも目を反らし、この余裕のない理論の語りかけるものは浮遊そのものであり、本来的な世界を擁護しているのではなく、事実すべてを無差別に否認しているのを隠そうとしている。驚くような規定だが、和声の世界は変化に富んだものであることは私たちがよく知っている。 人間は根源的に実践的存在である。和声学はその実践的存在を学ぶ場である。和声学が人間という実践的存在を認識する実体論的思考を放棄するときそれは単なる規則主義に変貌してしまうであろう。古典和声の根幹を説こうとする和声学が、枠組としてJ.S.バッハ、W.A.モーツァルト、L.v. ベートーヴェンの名を揚げ、概念定義の中に禁則という概念規定をするなら、それは古典和声の客観的実在性の否定に向かわざるを得ない。周知のように、現代では事実をもって証明することを認識方法の理想とする傾向が著しい。しかし、論理的・形式的関係を明らかにする概念規定が実体の考察・分析を忘れたなら、その世界観が古典和声の実質的内実を見失うに至るであろう。 理論とは、人間が試行錯誤しながら身につけた実際的な知識の総合体であった。つまり対象をより正確に把握するための道具である。その世界に先験的にあるのではなく、象徴化の対象となる現象の現実的に理解可能な検証を通して、対象の自然な姿を客観的にみた理性の働きかけによって形成される。その認識方法は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ時代と共に変化発展していくものである。これに対して「理論とは、人間の創造的な実践において、従わなければならないこと、してはいけないことを論述したものであって、古典はそれに則してつくられている」という考えがある。もしそうであれば、実践が存在する以前に理論は存在していたことになる。それはあり得ないことだ。対象が実在しないのに理論をつくる必要はなかったというのが本当である。人間の主体的思惟と存在が投影された実践を認識の対象とするためには、現象の現実的な法則を「連動」させ、相対的なものに置き換えてゆく「的操作」が必要になってくる。体系づけである。 要するに、人間社会の歴史的な文化創造のプロセスは「実践が先にあって理論は後」なのである。そのような理由から、理論はどのようなものでも、その妥当性には移り行く時代状況・社会環境に関して限界があり、そこに述べられる基本的基準も再構成されていくものにすぎない。いずれにせよ、理論構築の目標は、歴史的・実践的事実に適合する基本概念をつくりあげ人間の日常生活を利することにある。同じことが和声学についてもいえる。 ◆ 定義と再生 私たちはいつかは自分の足で出口に立つことを迫られる。和声を学ぶということは、人間がある時代に手に入れた創出に関する専門知識を駆使し、考察・分析によって現実的に証明された定義をもって実践的事実と深くかかわるということである。それと同時に、個々の違いを発見するのが、古典を体験する最大の利益の一つである。つまり古典は、歴史と同じく、「事象がいかに別々であり得たのか」、また「そうした違いが、いかに価値あるものであったのか」を教えてくれる。こうして古典は、いま現代の文化社会に必然とされているものが歴史的に生み出されたものであり、それゆえに概念規定に必要な認識基準の根拠を論証するのである。 これらは私たちが自立するためには避けて通れないステップとなる。とはいえ、現に実際とルールの照合が多くなると、事実の具体的な検証も行っていない機能理論には、対象に関わる歴史的経緯・借用和音・和音表記を含め気恥ずかしいほどの矛盾点があらわれ、定義において原則的に無効である循環定義に陥ってしまう。その定義は古典すべてにおいて「規則禁則は基本中の基本」という見方に頼っているが、こういう歴史的なコンテクストから逸脱した概念をめぐり、現代の認識論に即応できずに二転三転する基準は、人々によって積み重ねられた多様な経験の中から、古典和声を尺度として概念化された共通の知識を基盤としているものではない。それは、時代に取り残された規則主義者の閉じられた思考、判断、音感覚、これらのものと、過去の時代やその様式すべてが本質的に共通であるという誤った認識に基づいている。様々な古典に対する概念の方向的状況は、古典とのコミュニケーション的行為の広く承認されている均衡的あるいは相対的な認識からは実にほど遠い。すでに見た通りである 旧態的ルールに基づく概念とその適用に内在するこうした傾向は、構造特性を限定・制約として規則化する際のもうひとつの危険をあらわしている。和声学の概念規定がかつては極めて多くの実践的テクノロジーを含んでいたとすれば、今日のそれは古典の解析を意味しないルールによって区画された限定的な演習のために特殊化されている。このような狭苦しい理論への締めつけは、このルールを認めさせ、そこから正しくない和声の除去を期すためのものであるとして正当化されるのであろう。しかし現代の理論家が論じているように、多様な事実を旧態のルール規定に縮小することは、そうした過程の中で現れてしまう循環定義やマニアックな嗜好を反映し、傲慢な認識を補強する。その認識とは、大作曲家が描いた和声様式の定義と再生、それを介して得られた私たち個人の体験など役に立たないと決め込む事実の隠蔽という浅慮である。この排他性は、実際に機能している和声法を規則違反・禁則・例外と規定するかたちで頻繁に登場する。 現代のシステム社会が備えるにいたった柔軟性を考えると、和声学の論述の対象とは、特殊例を除いて、むしろ広義の経験論の立場に立つ古典を対象にした現実体験であるといってよい。卓越した理論的な観点を整え、新しい感覚やエネルギーをもった作曲家たちの実践に考察・分析を加えることであり、その前で和声を考え演習することがいちばん確かなことなのだ。しかし、そこには統一的全体としての固定化された認識基準はない。事実の認識方法・根本的な弁証法がすべて排除される一連の理論と演習はいったい何をしているのであろうか。実証主義的な和声解明の学問でありながら、日本の和声学は、とうとう「規則禁則のテーマ・パーク」になってしまったのかと思わせるような昨今である。 ◆ 原理的な保証 実証的精神を踏まえてきた和声学が、なぜ規則禁則へと向かい、変わってしまったのか。その理由を現代の理論家は、ルールの普遍化からもたらされた特殊的概念とみる。和声をコントロールできるかのような錯覚をもってしまった。規則主義者は排他的であるから_「他者の表出である古典の実践的事実」_は視野に入らない。したがって、歴史にも無関心だ。人間に力強く訴えかけてくる“バッハやモーツァルトの和声”と一緒に音楽芸術への畏怖や尊敬の念を失った」と指摘する。周知のように旧態の和声学は、定義が明らかに不十分で不正確なドグマを前提とするため、理論の中枢部にはその本来的実体を排除しようとする正誤判断と経験的実在を排除した概念の適用がしきりに起こる。歴史的な結果責任という意味においても、その説得力の足りない論理は、言ってみれば、「創造における可能性探究」の道を逆行するものである。 それだけではない。古典という芸術作品が有する確かな和声現象を禁則や例外に区分する考えは、実践的事実と自己判断の不適合性を打ち消そうとした取りつくろいである。また偶成という概念化は、単なる埋め草、それは語意が示すように素材を構造特性に結びつける機能は存在せず、このような概念は_「事象の起こる原因・必然性を考えた機能理論」_にとって適切な象徴化ではない。それに加え、近代的な機能本位の合理性を曖昧にし、大々的に和声の機能性を語るにしてはあまりにも破壊的である。それは勇み足の論述と言ってもいい。しかも、象徴的概念の基盤となる芸術作品の実例表示を怠る、つまり歴史や事実に対して対応能力の備わっていない概念によってつくられたルールは、限定という執拗な強制と同じことの繰り返しによって、「私たちを現実体験から引き離してしまう反文化的なナンセンス」に陥っている。 これらの問題は、例外という実証的説明には役に立たない枠組設定と同じように、合理的な実践によって創出された古典と共存するのに十分なほど精神的に豊かでない人間の自己防衛的な反応にすぎない。それは単に検証力の脆弱さから生じた事実を厳密に還元し得ない認識基準であり、理論的・論理的な優越性ではない。いまや、古典和声学は規則に適合しているか適合していないかではなく、総体として新たな問いのまえに立たされているようである。現実体験によって認識できる常識的な理論を押し進めるためには、その理論が論述することになる古典の世界の「和声的な構造特性」を、事実に基づく現象間の法則を直接的に象徴化する必要がある。すでに人間が獲得した創出すべてを保持しつつ、現代の文化社会が認める優れた芸術作品の構成要素や、それらが躍動する空間を基盤にして諸概念を明かにする、そうすることが和声学の役割ではないだろうか? 音楽芸術は本質的に歴史的である。その移り変わりの現象を離れてその本質は論述できないとされる。音楽芸術が歴史的であるということは、その和声における構成要素も人間の記憶と現実的な経験の一部をなしている。それは論理的な確実性にあらゆる概念を引き入れるものでもある。その明証を一般的な定義概念とするためには、原理的な保証を歴史的事実に求める必要がある。だからこそ、私たちの体験が現実である古典の直接的な探究を決して無視することはできないのである。特殊な概念規定の欠落部分を把握するためには、作曲家の生きた時代的環境とその作品に展開された実践的存在の構造的分析という観点に徹底して立ってみる必要があるからだ。そうしてはじめて「ルール批判の原因はどこにあるのか?」「芸術作品における実践の多くを観察もできない定義概念はどのような目的があってつられたのか?」、あるいは「ルールにおける例外という説明が当然のように正当化されていたとすれば、その論理から私たちの名曲を通して得られる音楽経験も例外となってしまうが、それでよいのか?」という問題も判ってくる。 和声学がよく引き合いに出す「ドイツ和声」「フランス和声」の概念規定は、たとえ、過去における「エクリ チュール」のルールがどのようなものであれ、まず歴史的存在と実践的事実という具体的に存在した伝統的な構 造特性を再生するために、しかも、学習者に経験を積ませ現実的に理解可能な基本的基準を数多く見い出せるよ うに、まず事実に基づく古典和声の考察と分析から始まったのである。あらゆる芸術論と表出論に、それが対象 の単なる部分考察に止まってしまう唯一性の概念が、ルールとして確立された例がないことは見識豊かな知識人 なら誰でも理解している。 それを踏まえれば、和声学は、実際との整合性を求められる有効なルールの資質として欠かすことのできない歴史的経緯の検証、そして音楽文化を象徴する対象との実践的交渉をあえて見過ごした結果、思いもよらない事態に直面している。歴史に遺された古典における実践は、いまだ実現されていないものに向かって既成概念を乗り越える未来的発展という構造特性をもつ。つまり、そういった古典和声に関わる象徴的概念を、事実の証明をもって最も確実な認識方法とする理論は、その世界の本質的な体系である実際に機能している和声法に対してどのようなスタンスをとればよいのか? かつて西洋の和声学の理論と演習が、起源的な音組織となる教会旋法の排斥、際限のない借用和音論の乱用や規則禁則の固定化、また、古典における事実検証の放棄を容認しなかったのはなぜなのか? そうした逆説的な意味において、有用な和声現象を理論に還元するための理論家の常識的なバランス感覚、確かな認識方法に依拠した機能論的思考と実体論的思考、客観的で合理的な構造認識から学ぶところはいまなお大きい。 ◆ 相対的な理論の展開 人間は根源的に実践的存在である。人間の思惟・存在・実践といったものすべてを規則で推し量ろうとし、序列化できるものだけに価値を見い出そうとする傾向が理論をいかにゆがめていることか。とくに序列化によって教え込まれる固定化された価値は、規則化された価値である。その理論は人間の想像力をも含めて、そればかりか人間そのものまでをも含めて、すべてのものを規則で判断させるような世界に若者を招き入れる。それでは、規則の実践に、しかも、その実践の予想させる方法が厳密に守られたとすれば、もっとも想像力の乏しいものにおいて結びつくことになる。理論において何でも限定・制約という視点でものを考えるように強いられた人間は、多数の実践を例外視する。その結果、規則化できない多様な存在を見のがしてしまう。彼にとって規則化できないものは第二義的となり、ただ規則が要求するものばかりを果たしているうちに、与えられた要求を受け入れるだけで、自分に与えられた固有の能力を失う。 _ 私たちの体験が本質的に多様であるなら、万人向きの禁則はない _ それを求める必要もない。私たちは無意識のうちに自分のスタイルを確立しようと努めるものである。はじめ から決まっていることはない。だが、一人ひとりに独自の考え方が形づくられる。だれもそれを押しのけること はできない。それが「かたち」になる。とはいえこのような常識論を聞くことは稀であろう。なぜなら、その理 論と論理の基盤となる認識基準に説明能力が欠けているからだ。 和声学は、その枠組や前提を踏まえると、人間の五感によって認知できない存在を考える学問ではない。それゆえ素粒子学のように、概念がまず仮説として提出された後に事実によって確証される学問ではない。また、歴史的な時間性の外に位置した神学的観念において、服従するか、反抗するかを決定する場でもない。それは人間の合理的経験論と認識論に依拠する。私たちが知ろうとする対象を概念的に規定することは、私たちの対象に対する関わり方を厳密な言葉と実例で記すことである。その基本的概念は、対象とそれに関わる数々の対象とを突き合わせることによって検証することができる。その手段は考察である。事実に基づく分析である。この比較検証は一挙に行われるのではない。何らかの実践的関心を満たすためにそれを検証するのである。しかし、概念規定のあり方が経験的実在から得られる事実を象徴化していないなら、理論をその方向から論述することで私たちにもたらされるものは少ないということだ。さらにそのような事象に対する非現実的な概念の適用は、現象の多数と多様をひきかえに神話に相当する認識根拠の混乱を引き起こす可能性がある。そもそも、私たちの思考の概念的方向や視点もなく「古典音楽の作曲家たちは選択の意志決定をするに際して、規則禁則を把握し、それに従って和声を想像していた彼等はみんなこの道を通ったのである」という説明はおかしい。 ところが、曖昧な、限定・制約ばかりに眼を向ける和声学には、考察の対象となる一般的な古典和声の実際を伝える機能は存在しない。理論は、概念規定の矛盾はおろか、公理定理が身動きすらとれず,さながら機能不全という姿をさらしている。糸口となる経験的実在の分析よりも、はじめにルールを示し、あげくは暗記を迫る。もはや認識論を欠いた概念規定がすべての前提条件となる。規則禁則に準じていなければ、古典和声の統一された合理的な実践は例外として扱い、概念形成における抽象からは排除する。このような流れをみると、和声学は私たちに働きかけてくる対象に無関心であることは理論にとってマイナスの要因にはなり得ないとして、一元的純化の一途をたどってきたのではないだろうか? そうであれば、いつ、どこで、どのような方法で和声の事実に触れ、いかにして論理的整合性と一体化できるのであろうか? 我が国の和声学においては、古典の音楽文化的な資源がつねに隠蔽されたままである。現に、古典の和声がもつ具体的なあり方を明らかにできない認識基準から、正しいか正しくないか、という正誤判断が行われている。日ごろ芸術の開かれた理念を心に深く感じて生きている人間にしてみれば、その脆弱性・非論理性の再考を要求する所以がある。現代の理論家は音楽的にも教育的にも疑問が大きい限定・制約だと指摘する。 音楽の人間的な共通感覚は、歴史的・実践的事実をもって存在し発展・成長する古典音楽と同質の、むしろそ のモデル・アナロジーとして存在した。つまり数々の対象を洞察し、和声の事実を追求することは人間的な共通 感覚の把握に通じ、逆に、人間的な共通感覚を洞察することは、和声についての事実の把握に連なる。 構造的な大転換を経験しつつある音楽文化社会において、日本の旧態的な和声学は現実的で有効な理論構成を確保できているのであろうか。今日の機能理論が背負っている問題とは、歴史的・実践的存在の多様性・変化性からみれば、限定制約の定義が明らかに不十分で不正確でしかない、というパラドックスである。もちろん、私たちに必要なのはその行き詰まった理由と方法を、古典を顧みて理解することである。さらに、もし理論の目的や方向づけが誤って導かれたままであるなら、また、もし旧態の定義が元の対象と合致しなくなっているのなら、その問題解決のためにはさらなる検証が必要なわけを理解することだろう。なぜなら、事実考察を放棄した和声学は、特定対象の認識基準に、人々が日常的に体験する概念内容を反映させることができないからである。 和声学は明解に明証性を展開し、特定対象の実体を再生するために、理論構成において古来さまざまな説明原理と認識方法が考えられてきた。各時代の和声理論を見ると、その理論構成というものが古典を本来的実体とする一般的な説明原理に基づいたものであることが判る。「基本原理→概念定義→古典の考察と分析→事実検証・客観的帰結→理論構成」、「古典の考察と分析→事実検証・客観的帰結→概念定義→理論構成」など、いくつかの説明原理がある。私たちがもつ思考の概念的方向やその視点への問いかけが自然にかたちになり、そのかたちを確立していったものである。したがって、一切の非実体的観念論を排し、事実の証明をもって最も確かな認識方法とする和声学的立場は、人間活動に依拠する相対的な理論の展開にとって現実性・効用性があるため、現代においても踏襲されているのである。 2012年 01月 07日
Desk:02 − 客観的帰結の実践的課題 「 理論の構成原理 」 ◆ 命題の真偽 非学問化の前提条件は進行している。それによって、理論において出会う思考・実践も、次第に均一化された表出にすぎなくなりつつあるといわれる。音楽文化において目の前に展開する個性的で合理的な実践を、その道理にかなった認識において価値のあるものと認めることも困難になってきている。和声学が、和声的現象についての科学的な解明を唱えながら、前提となる理論の非実証化という矛盾を強引に進めているのである。理論は、概念の形成における選択肢を省いたルールと、教育における評価序列の能率化をもたらしたが、現在なお高く評価されている古典(芸術作品)の実体概念を理解する助けにはならなかった。 かつて、実践的な音楽のあり方を説明しようとした理論家グラレアーヌスは、日常的な経験と理論との不一致は私たちに何を教えているのか、を人々に語りかけ、その人文主義的な立場から、音楽のあり方がルールに違反しているからと言って、歴史的に実在した作曲家の主体的・自覚的存在を犠牲にする規則主義者や、正しいという文言に包囲され物陰に身を隠す理論解説者の子供じみたポーズをいさめた。 _ ある理論解説者は 「古典和声学というのは 古典的な意味での正しい和声のあり方が ひとつのルールとして完成されたものだ」と言及している _ 解説者はこう言及する以上、古典和声の事実考察を行ったのであろうか。その事実を明らかにせず、持論を展開するための都合のいい枕として、一部規則主義者がつくった風評のようなものを事実であるかのように流用するのは不見識というものである。「古典的な意味での」という言い方で逃げているつもりかもしれないが,それは通らない。「古典和声学」と「正しい和声のあり方がひとつのルールとして完成されたものだ」という二つの文脈を結びつけるロジックも、明晰なものとはいえない。和声学が概念規定の明証性を原理的に表明するに際して、たとえそれが多様な性質をもつ本質的に重要な属性であっても常に一つの現象を示すのみであって,検証の分析不十分を推測で補う危うさがある。しかも“正しい”についての人間の考えを説明するとすれば,私たちはつぎのことを認めざるを得ないだろう。正しいという言葉が使われるのは,おおかた,目撃した事象全体のかたちが、壁のむこうに隠されていてわからないときである。また,よくわかっている事象を成り立たせている自然な諸現象が取り除かれて見えなくなったとき,人間は正しいという言葉を使う。要するに、崩壊している限定・制約という不合理な環境に置かれたせいなのか、ユニークな洞察にあふれる音楽人や創造的な聴き手の考えや性格とは異なり、ルール不信の根を見つめることもできない指向がものを言っているにすぎない。 規則主義者の走狗となった理論解説者が、古典と関連づけて理論の命題を明らかにできないのを見る。ルール に踊らされ文言すべてが一緒くた。その説明に芯をもてない異様な姿。その自己防衛の体質を、認識者はもどか しく思っている。誰もが事実を知りたいと考えている。いま、人々は物事のあり方を一つしか示せないほど画一 的なルールに対して疑問を投げかけた。豊かさをもたらすはずの正しいという判断が、古典をなぎ倒し、認識の エゴイズムが象徴化に混乱を広げていることへの問いかけともいえる。 しかし、この理論解説者は情報不足に合わせた対応しかしていない。ひとつの虚構を守ために、過去の遺産を 奪う。実体概念の本質的規定さえないがしろにする。和声学が成り立つための基となる前提は実際の人間的経験 に合わないという点で、人間悟性の自発性を認めない観念に行く手を阻まれ、この古い理論の傘の下では、もは や自明の問題設定も問題解決への解説も足踏みばかり。そのうえ、立ててもすぐ横倒してしまうルールの脆弱性 におびえているところがある。 この抑制の効かない自己主張と性格は、声が高いわりには非力で、新しい認識論の確率という現代的な要請を背景に、矛盾に陥ったルールを吟味する視座から、認識の根拠づけを悟性や理性の自己批判として追求したことがなかった。このような傾向和声学は、現象の生起という事実は諸々の事象が関係し合っていること、それらが互いに配慮し合うことを、いまもって示すことができない知識論を振り回すだけで急場をしのいでいる。そうしていつのまにか思い上がり古典の有効な資源を見くびり続けてきたのである。その世界を見極めたつもりで、もともとそうである多様性・変化性を排除するために、認識の可能性をめぐって一元論の限界が自覚できなかったのであろう。自分の耳で現実が聴こえるようになるまで、さらには自らの和声に関して自己弁護も言い訳も必要としない古典音楽という対象に迫るのであれば、事実との関係は変わるはずである。 和声のあり方というものは、言葉によるだけでは言い表わすことができないのである。和声のあり方を言葉だけで言い表わそうとすることは時として抗しがたい誘い込みとなる。そのようなことをする原因は,明らかに古典的な意味での和声のあり方を十分に理解していないにもかかわらず、その意味を言葉だけで言い表わそうとするからである。基礎となる基本的基準などを古典に対してすぐ適用できるように整備し直す考えの表明もなく、人間を歴史的存在と実践的存在から引き離す浮き石のような超越的思弁(それは一つのルールとして完成されたものだ)を繰り返しているのが、今日の理論状況である。 和声学は検証を放棄する時、それは単なる規則主義に変貌してしまうであろう。もし、そのような理論があるなら、ありふれた現実がすでに規定された現実となってしまい、聴こえるものを聴く以前に、規則となったものを聴こうとするのである。聴覚器官をそっくり替えなければならないほど、等質化された先入観に安住し画一的に聴いている。たとえ規則となったものが、古典のなかに部分的にあるいは断片的に聴こえるとしても、そこに厳密な法則が存在すると言うようなことはけしてできないのである。このことは、「古典和声学というのはルールとして完成されたものだ」の神話がすでに破たんしていることを意味する。 古典の実践は、ひとつの音の進行を公理定理と言い切れるほど無垢なものではないし、これが正しい、といって塗り固めてしまった塀の中で行われているものではない。また、出口さえ分からなくなった世間知らずが大げさな身ぶりで限定するようなものでもない。というのも、古典の大作曲家たちはそのような制約を必要とすることはないからである。たしかに、個々の様式についての素材と現象を抽出することはできている。しかし、歴史的な構造特性を形式的にモデル化できた和声学は日本にはまだ存在しない。ルールが真実在と合致しないのであれば、ルールで構成される理論は常に不完全なものなのである。ただ単に同一のものが集められたというだけでは理論とはいわない。こんな状況で「和声の根幹を説く」「有意味的・論理的にバロック・古典派・ロマン派和声を体系的に学ぶことができる」などの急ごしらえのタグを付けるなら、理論書は目に見えて困難に陥る。 和声学は古典が対象であり、それが規則化していることに対する吟味から始める必要がある。もっとも、それは古典が人間の想像力として実践要素(演習)されるという、音楽文化社会における与えられた歴史的・実践的事実から出発するのが妥当とされる。つまり、文学作品・美術品などが資源として注意深い取り扱いを要すると同じように、音楽の場合、人間的な実践的要素としての古典和声もまた、注意深い合理的な取り扱いを必要とするのである。といっても、和声学は認識の根拠づけを放棄したルールに追われ、ともすれば普遍的人間性や人間的想像力の例外視に向かう。これに対して、認識の問題についてあらゆる度合いを引き入れようとする現代人は、このような概念規定は古典和声のもつ明証性を原理的に表明できていないものと指摘、しかも自らが発する言葉の意味を点検もしていないことを証明するようなもの、と突き放した。 ◆ 事実検証と分析結果 超越論的な思弁、一元論的な正誤判断、自己批判的機能を失った認識、ことは和声学の閉鎖性に関わり、音楽文化や教育全体が疑われかねない。近年、理論的ルールのあり方では概念規定の矛盾が検討された。情報伝達の場で問われるのは、事柄を分析し説明する者の無責任と居直りである。矛盾する論理を抱えたまま断言してしまう解説という気楽な稼業である。和声観を究めたであろうメディアの理論解説者が、世界を駆けめぐる理論書の情報収集ではなく、理論に関する基本原理の喪失でつまづく不条理をどうすればよいのか。 _「古典和声学のルールに従って忠実に和声をつけていくと、 古典音楽として正しい和音進行と音列ができる」_ これを信じるのは容易でない。まして、その学問的意義においてはなおさらである。古典的事実は、言葉だけでは言い表わすことはできないものである。古典的事実を言葉で言い表わそうとすることは、時として言い換えを誘発する。しかし、人間がそのようなことをする原因は明らかに事実がもつ意味を十分に理解していないにもかかわらず、その事実を何とかして言葉や言い換えで済まそうとするからである。事実は言葉だけで説明しようとすれば破壊されてしまう。古典の考察・分析もない、さらにいえば、歴史的・実践的事実(譜例)というカタログ提示もない言葉の意味は事実に背くものである。 それはさておいて、検証に基づいてルールの妥当性を吟味し、忍耐強くその結果を世に送り出してきた歴史上の理論家たちが思い浮かぶ。 _ Ch. ケックランは、 「ルールは調和声において実際に機能しているわけではない。 規則主義者がいうルールと古典的事実の間には多くの食い違いがある」 という検証結果を強調している_ 規則主義者という人種はときおり論証もなく「古典的な意味での」という一語をよく使う。「正しい」を述べたのも同じ程度のものであろう。抑圧的なルール化のことを人々は「ひょっとしたら避けられたかもしれない」とも言う。ひとりで強がっている「ルールありき」も裏の方ではその感がある。だが、理論解説者はなぜか「古典的事実の間に多くの食い違いがあっても限定・制約は和声学の基本である」にまで突き進み、「ルール遵守が学習効率を高める」を叫んでいた頃、その尊大ぶりはきわまっていた。 実はそれが問われているのである。「正しい和音進行と音列」という発想も、実体的概念のもつ直接的な確実性を明らかにする問題を回避したにすぎない。対象に対して様々な視点をとり対象全体を再生させようとする目標に近づくこともできない。なぜなら、明証を拡張するためには、その原理的な保証を自らの外に求めるか、あるいは明証に度合いを認めなければ、古典につなげる一般的な原理を概念に適用しようとしている私たちが抱えている根本的な問題、ひいては基礎理論をはじめ和声学が直面する多くの問題は解決できないからである。“正しい和声のあり方”という面からだけでなく、“ルール”は理論的・論理的退化という面から吟味される必要がある。「完成されたものだ」という油断は、古典和声学の場合も落とし穴らしい。実体論的思考による事実検証における分析不十分を自覚し、理論解説は慎重なぐらいが、ちょうどいい。 私たちをとりまく世界は多くの可能性で溢れている。歴史に対する認識の深さ、創造に対する思惟の広さ、その中間点に私たちの位置がある。それらの世界と私たちとを結びつけるものが、理論である。壮大な可能性追求のなかで、歴史や実践に対する解釈は、対象と向き合う概念の形成過程を通してなされる。芸術家たちの歴史も、実践的実在も、人間を包んでくれる世界の中にこそ完結する。まばゆい古典の考察を経てなお、見聞きしているだけでは納得できない人は多い。だが、哲学と認識論を欠いた理論解説者はそれを壊してきた。むろん解説者ばかりではない。和声学の事実の論述に還元し得るような基本的基準の貧困さが取りざたされている昨今であるが、理論情報の不足はいうまでもないとしても,それ以前の,失敗のリスクをつねに秘めた基礎理論研究への認識が日本の和声学にはないことの方が問題である。前時代の理論の部分コピーをしているだけの惰性のせいかもしれない。和声学の発展のためには、ときに現行の機能不全に陥った理論状況に対する批判的な論説も必要なのである。 古典和声の世界もまた、多くの可能性に満ちている。それは唯一性という特殊な概念では汲みとれないものである。たとえば、長い期間にわたってその恩恵にひたれるとき、それまで感じることもなかった自由な志向に驚くことがある。頭のてっぺんで考えていたことと、事実とはあまりにも違うことに気づく。調べるという状況をつくることによって、その実像にひそむものをすくいあげることもあり得る。 _ 現代では、理論を現象の実体に適合させることを認識の理想とする傾向が著しい _ 古典和声学が「ルールとして完成されたものではない」という自己批判は、長い規則主導の和声学を経た常識である。そのなかにどれほど説明があろうとも、古典とルールの完全な結びつきを確かにすることはできない。そればかりではなく、括弧付きの条件が追加されることはあっても、この考えによるルールは現代の和声学において肯定されることも発展させられることもないのである。本来的な理論や演習の公理定理となるものでもない。単純な同一概念的方向と規定に従わせる演習の仕方のために便宜上つくられた提案事項であり、そうした和声のあり方の多くは、実体と疑似のすり替えがあり、つねに理論的にも論理的にも誇大妄想的な性質をもつ 。 理論書の、現実と遊離した理論と論理の矛盾は理論家の器を試す。公理体系において矛盾が生じれば理論構成の意味は失われる。したがって、解説者が「正しい」を何度繰り返しても要は結果であり、結果とは取り返しのつかないことである。人間は、客観的には認識基準のもつ明証性を原理的に表明できない状況下にありながらも、ルールだけは正しいと考えてしまう傾向がある。「正当化の偏見」といわれる心理現象である。この視点によれば、古典への注意が関わるのはただ擬似的なものを抽象したルールであって、和声への関心を満たすのは外延的な正誤判断でしかなく、それこそ旧態の理論が依存していたものである。人間世界の歴史的なものを、また、本質的に実践的なものを限定・例外的なものと見ることこそ、和声学的な構造認識の問題なのである。どのような分野においても、古典とは、自発的な人間的能動性の証しであるがゆえにその実践は本来的に人間の様々な精神的・身体的状況と常に相対的であり、価値ある過去の遺産として文化社会が共有するものである。私たちはそうした常識を音楽の体験や活動において理解している。 思考の対象についてある判断を形成する際に、その判断において意識に現れる対象の形、すなわち歴史的・実践的実在という事実を、観念における限定・制約から切り離して捉えるとき、その内容を概念という。概念による認識は、部分を集めて対象全体を再生させるというものにほかならない。事実といかに向き合うか。古典と行き来することが大きな価値を生む。しかし、理論状況を論述するに際して規則主義者は、古典および歴史に関わる決定的な認識根拠とその過程に問いかけ、特定対象の検証結果など、ルールにとって都合の悪い問題点を機敏に解決しようとしていない。理論解説者は、後からなんとか理由をつけもっともらしくすることに一生懸命である。 事実でないものは偽物である。しかし偽物は、事実を曲げ、ゆがめ、それ自身偽装している。とすれば、古典 的な意味で完成されたもの、とはどういう事態をいうのか、事実ではない事態としての偽物とはどういうことを いうのか、これをまず考える必要がある。 ここに古典の事実を踏まえたルールがあるとする。これを、規則主義者が古典の部分的な現象を模倣しそれに 基づいてつくられた擬似和声のルールと比較してみよう。前者は本物、後者は偽物である。このように本物と偽 物とを対比したとき、事実であるのは前者であり、いかに超越的思弁の力があっても、後者は偽物である。古典 和声そのものによるルールが真であるなら、擬似和声によるルールはすべてが偽物とされるであろう。本物や事 実に依拠したルールは、それ自身と一致しているが、偽物や疑似和声はそれ自身と一致するものではなく、本物 や実物との一致を装っているのである。 事実はもともと覆い隠されておらず、実践的存在に即してありのままであるのに、それを覆い隠す偽装こそ偽りの源泉となる。いちど偽りという事態が登場すると、事実は偽装を押し退けてみなければ捉えられない。事実検証と分析結果を排除する理論、論理学の知識体系においてさえ唐突な論理、つまり、正しいあり方という偽装がともすれば強調される事態は置き換えと誤解によるものである。日本の和声学が西洋音楽の僅かな現象や構造を受け入れるだけで、その概念規定の認識根拠となる両義的な世界観を受け入れようとしなかったことは、しばしばなされる自己批判である。理論と演習は、ルール集めをしながら区画の中で彷徨っているが,そこはその隠れ家となっていた。それは事実隠蔽と同次元のことであり、聴こえても聴こえないふりをする奇妙な行為と同じである。その原因はおそらくこんなところにもあろう。ルール規定とは検証のアナログ的な拡大なのだが、多様における統一をその本質とすることができない限定的観念によりかかり、実践的課題から退却している時代錯誤である。 直接、調べた話なのか、推測の話なのか。求められているのは、和声を明瞭に主題化し確実性に寄与するようなもの、すなわち事実考察に基づく検証や分析結果の報告である。解説者の判断ではない。 ◆ 実証性と効用性 歴史上で実践された創造やよく知られた事実を和声学が排除すると考えることは,人間が実践的存在であることを証明する古典を,客観的帰結の実践的課題を無視する音楽的イデオロギーと混同することである。また曖昧模糊とした言葉遊びは、実際的なものを論理矛盾からの逃避の場として仕切られたところに閉じ込めるよう促し、唐突な偽装を正当化するのに手を貸すのである。自分が描いた構図を誇示する規則主義者、論理的思考を欠いた理論解説者たちは、古典の作曲家たちが差し出す正解などない大胆な和声法(実体)に無関心で、それに適合することもないルールをあえて“正しい?”と言う。とすれば、別の問題に直面せざるをえない。理論を演習につなげる和声学的な定義の試みが、それ自体見込みのない非現実的なものであるという問題である。 _ 「ここで気をつけてほしいのは、古典の作曲家たちは このルールに従って和声を作成したのではない」 _ この説明は「“正しい和声のあり方”や“ルール”は古典音楽の和声現象とは一致しない」ということを言っている。なるほど、説明は大まかであってもルールの特殊な概念を考えれば何ら問題はない。だが、そこに命題の真偽の問題が生じることは言うまでもない。つまり、私たちの思考は、元来歴史的・実践的存在に関する概念的方向を含むものである限り、概念的思考において古典は打ち消すことのできないリアルなものである。それは私たちの世界や人生のなかに生き生きと存在している。こうした考察・分析にあって確かめられた古典的事実についての必然的論証という、和声学の本来的な役割を否定する説得はすべて問題である。解説者が忘れているのは、この「ことわり」そのものが、それ自体すでに理論的反省による二次的産物であるという点だ。誇張、飛躍、断絶が度を過ごして、正しいといわれる和声の方が恥じ入ってしまう。 _ 「古典的な意味での」とことわり、 「ルールとして完成されたものだ」と言ってみたり、 「ここで気をつけてほしいのは」と言い直してみたり、 概念硬直を起こす結果、この解説者がいう古典和声学は和声学以前のものだ _ 古典和声学は、古典の和声を知るための学問であることぐらいは誰でも知っている。それはあらゆる時代の音楽理論同様、すでに存在している対象(現象、事象を含め)の現実性を説明しようとする試みから生まれたことは明白である。したがって,その具体的な事実は古典の和声そのもの、各々の音組織と和音素材、作曲家の和声の特徴となっている思惟や実践の中に見い出されるはずである。そこでルールは、今日の音楽文化社会の認識論にたちもどる。「どうせ古典の作曲家たちが従っていないなら、初めから作るな」というルールが重要になる。実体的概念を逸脱した限定進行、表面的で一元的な禁則や例外、正しいの文字が軽々しく連用される長い看板。初めから作らなければ、その分だけ和声学は改善される。E.コステールの言葉を借りるなら、さまざまな世界に活力を与えている古典音楽に対してこれ以上の冗談は不必要である、となる。 そもそも自明なものとしての人間行為の規範や共通感覚とは異なり、限定とは多様の非存在であり、制約とは変化の非存在であるからだ。もし歴史的・実践的存在を様々なプロットに応じて見ることをやめてしまったら、人間は、いわゆる科学的知識をもたらす認識からほど遠い判断や事実思考の抜け落ちた下手物にすがるしか方法がなくなってしまうだろう。「古典の作曲家たち」とは誰なのか。実在としての「古典音楽」とはどのような音楽を指していうのか。実体を現象の函数関係の数値に置き換えることもできていないのに、そうした曖昧な概念を「正しい和音進行と音列」とするのは何を基準にしてそういえるのか。 そのような問いかけによって基本原理を検討してみるなら、日本の和声学を構成する理論状況が明らかになってくる。その理論はつぎのような不透明性に陥っている。音楽上の和声現象はそれ自身独立した形で存在しているようなものではない。私たちが音楽上の和声現象にアプローチできるのはあくまでもそれを理論的に理解可能なものにしている「検証の過程」があるからである。検証を行う場合の基本的な問題、すなわち、作曲家の名を挙げることも、一般的に熟知されている古典音楽の直示的定義もなく、構造認識の根拠付けとなる概念規定がどこまで正確かは不明だ。限定抽象と循環定義を繰り返している、この、「古典和声学のルールに従って忠実に和声をつけていくと、古典音楽として正しい和音進行と音列ができる」の問題性は、和声学があれほど敬意をもって行き来していたバロック_J.S. バッハ、ヘンデル、古典派_モーツァルト、ベートーヴェンの和声法から、ルール規定において軽率な決別をしてしまったこと、そこに始まる。 人間は根源的に実践的存在である。人間の思考と創造活動は実践によって具体的・現実的に統一される。その概念の根拠づけを可能にしているのが理論の一般性である。歴史に関わる決定的な事実と不可分に結びついて、概念の認識根拠が確定すればその理論の一般性も確定する。というのも、和声学の対象とするものが検証不十分な擬似的世界ではなく、合理的な経験的世界について述べている言明や法則の間にある相互関係であり、それを通して知識体系は構成されている構造そのものであるからだ。現代は人間的思惟・存在・実践の還元可能な新しい理論を要求している。その理論の骨格を提供するのが和声学に課せられた使命である。とすれば、私たちに与えられた和声学の現代的な課題とは、理論家グラレアーヌスとケックランが述べているように、外的な無関心や選択の幅を狭める安易な観念的ルールに支配されることなく、文化社会が過去から引き継いだ多様な資源を循環させ、検証による事実認識がもたらす「客観的帰結の実践的課題」との取り組みである。 2012年 01月 07日
Desk:07 − 先入観と規則主義 ◆ 基礎的な論理 西欧をはじめ、ルールというこの時代を取り違えた古典和声についての歴史観など、いまや何処を探しても見当たらない。これは普遍的な妥当請求をする概念の定義にとって、論理的にはすでに私たち日本人の面倒な否定的指向を持ち込んでいるのであり、なかなか消えることがない。というのも、規則主義者は、創造においてあくまでも実践的な領域に属するものであった人間本来の普遍的な自由、すなわち多様な表出行為に関わる概念規定の内部に先験的な一元論を持ち込んできたからである。この無謀な構想_「禁じられる・許される」_に対して本来的な和声学の理論と演習はどこまで従うことができるのであろうか? 思考の対象についての確かな検証を回避してしまい、和声学を特権化された聖域に祭り上げる方向に進んだ規則主義者がいつも決まって口にする「それは考えても無駄なこと、仕方がないこと」なのだろうか? とはいえ、現代に生きる一般の社会人は、道理に合わないことや一様なアカデミスムに陥った論理をよく心得 ている。周知のように理論家が特定の対象についてある判断をする際して、その判断において必要な認識基準は 何かと考え、それを概念化したものが古典和声学でいうルールであった。だが、傍観者的スズメたちが鳥かごの 中で騒ぎ立てている公理定理や規則禁則が、そのような重要な課題を積極的に担えないことが統計学的手法の発 達によって証明されてしまったことを、そして論理的矛盾を隠ぺいするために「非現実的な収集枠」は引き出せ ても、「それらが妥当な認識基準である」とはそのうちに言えなくなって、じれったい「やむを得ない場合は」 を連呼しながら慌てる場面をみていると、古典和声学はルールとして完成されたものではなく、根本的に問題解 決を保証するものではないことを熟知しているのである。 イギリスの歴史家H.T.ローパーは、時代は芸術によって表現されるとする立場から、芸術を歴史の証人とみなし「芸術や文学をもたない社会が退屈であるように、芸術や文学を無視する歴史は退屈である。反対に、歴史と切り離して研究される芸術や文学は、十分に理解されるとはいえない。むろんすぐれた芸術や文学は、それらを形成した歴史的状況、つまりその偉大さを生み出した状況を超越する。わたしはフランスの歴史家フェルナン・ブローデル(1902〜85)と同じく、芸術と文学は、保存するに値する全歴史の真の証言者であり、文明の後継者が我々であることを想起させてくれる精神的な蓄積物だと信じている」と説く一方で、「われわれの世紀の厳格な理論家(イデオローグ)たちは、失われた一体性を人為的に回復しようと試みたけれども、この野蛮な実験は芸術の面では成功していない ( PRINCES AND ARTISTS - Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts 1517-1633/ハプスブルグ家と芸術家たち/横山 徳爾 訳) と述べ、規則主義者のただひとつの主張のためのプロパガンダ、つまり他性を執拗に否定する安直な小細工を見破っていた( 歴史家フェルナン・ブローデル )( PRINCES AND ARTISTS - Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts/ハプスブルグ家と芸術家たち/横山徳爾 訳 )。 彼が提出しているこのような見解は重要な意味をもっている。というのは、音楽芸術の場合、対象を概念的に規定する定義やその適用が、ひとりの作曲家の現実的な実践の多くを考慮しなければ理解できないことを示しているからである。あらゆる現象はそれ自身が独立した形で存在しているものではない。和声的なシステムに近づくことができるのは、知ろうとする対象を生成においてとらえ、存在全体を組織的な形で理解可能にした理論があるからだ。対象が私たちにどのように働きかけてくるかを洞察するに際して、そのような理論は萌芽的な概念による認識に発展的可能性を与えることに役立ち、さらには象徴化の能動的な補佐役であることが分かる。それによって抽出されたさまざまな構造的概念は、自らを明確にし現実体験によって得られる合理的・具体的な現象から出発して直接的な定義となる言説の中で具現化される。私たちが行う考察や分析の和声の対象を、新しい人間のイメージをつかみとろうとした芸術作品の歴史的な和声構造領域へ移行させることで、明晰で論理的な基礎理論というジャンルへ到達することは可能になるのである。 ◆ 和声学の眼目 情報化社会の到来によって音楽文化はあらゆる方面に開かれた多元性を示すようになった。というのも、いまはすでに、社会における音楽文化の重要な領域が慣例に従順な領域ではなく、意識的選択の領域へと転化したからである。そのことから音楽文化を支える教育は、シラバスの根本的な課題について検討し直し、このような時代の教育理念はいかにあればよいのかについて吟味することが必要になったのである。だが、この国における和声学は、現代においても古典和声の実体を愚弄するような呪術によって操作され、「それを習得しなければ、作曲科の入学試験に合格することはできない」という現状を盾にしながら、品位意識のない領域をあてもなくさまよっているのである。ごく標準的な教育を受けてきた人間であるなら、また創造活動の目的が文化を利することであるを理解している大人なら、未来に夢をもって若者を前にしてこのような論理を振りかざすことはしないだろう。これは見逃すことのできないもっとも残念な時代逆行のひとつである。 こうしてみてくると、日本における実証主義的立場を貫く理論家たちが、規則禁則という概念規定による和声学の理論構築を、一種の、理論のための理論、とみなしたのもまったく的外れだとはいえなくなってくる。実証主義者によれば、旧態的和声学の理論と演習には理念の弱体化が生じているといえる。表出の規則化は稚拙な学習効率をもたらしているが、現実を学び歴史を乗り越えていった作曲家たちの言葉に倣って、和声表出がルール遊びではなく多様性・変化性の概念には重要な役割があるのだ、ということを指摘しておきたい。音楽芸術は実践的存在である人間の想像力を示す顕著な実例であり、その想像力を生み出す源泉でもある。とすれば、和声学における旧態理論がもつ定義概念が、いったいどのレヴェルに位置するのかについて考えてみることにしよう。 まず、和声学における理論と論理が、対象を概念的に規定する規則禁則の制約をあえて言うとしたら、そういった言説は、特殊な認識方法によって構成される機能理論やテキストには通用するが、あくまでも概念の適用領域が部分的に限定されたものでしかないことを、また、事実の考察に基づいた現象間の確かな検証による洞察がないために、唯一性という視点的性格からして現実とは著しくかけ離れた説明的思惟は、疑問視されるか、廃棄される時代になったということを知っておく必要がある。さらには、西洋音楽に永々と受け継がれている構造特性の定義にとって「象徴的概念の本来的特性」の証左となるものではなかった。ましてや科学的な思想として西洋における和声音楽の研究を支援できるものでもなかった。少なくとも理論基盤が旧態の規則禁則を絶対条件にする間はそうである。和声の概念に関する規定でありながら、事実考察が「思考の概念的方向」と「現象の現実的な法則」を見い出すことができないのであれば、矛盾した排他的理論の類いとみなされるのが普通なのだ。むろんこれでは「西洋 18 世紀音楽における古典和声の規則性を信じろ」と言うのは無理であろう。 次に、規則主義者が説明するように「和声学は芸術とは何ら関係ない」が本当だとすると、理論の論述と演習の例題も含め、規則禁則を基本的基準として示される様式は「フランス和声」でも「ドイツ和声」でもないのは明らかである。当然、実践的な対象の象徴化を放棄した自己定義は、本来的実体性をもった理論形成の過程を説明することはできない。事実と観念の区別に関してきわめて問題であるばかりでなく、そういう仮の現象をもって証明しようとする認識方法は基礎理論の実証的研究からもっとも遠いものである。音楽理論であれ、和声学における機能理論であれ、認識の規範意識を統合するような世界像を構築する可能性はまったく存在しない。これが現代人の総合的知性の到達点である。 実のところ旧態の和声学の理論においては、現象の多元性を謳歌する動向が、唯一・形式性の概念規定に一元 化され、理論は実践に奉仕しているという従属関係は背後に退いて見えなくなっている。この一切の現実性・変 化性を取り除いてしまう先験的な認識方法を疑うことがなかったために、和声学は実践的事実と暗黙の規則禁則 との間にある大きな距離に気がつかなかった。また、知識としての成立する理論と論理がその安定性を維持する には、実際とは食い違う矛盾した定義概念の悪循環を検討する論議を課題として背負う必要があること、このこ との重要性を見落としたのである。 そうであれば、古典和声との確かな関係を期待している学習者たちに向かって、有無を言わせない限定・制約という「きまり」があるというきめつけは批判されても仕方がない。とはいえ、歴史と実践は現代において活かされるものであって、概念や認識の方向と視点によって見方が変わリ、その結果、相対的な観点を取り入れられることもなく、一般的実在・経験的実在への接触がことごとく阻止され、和声学の全教程が、事実の単純な考察に厳密に還元し得ないルールの遵守と適用だけで終わってしまう旧態的理論はいまもって存在している。私たちには、文化の最奥、新しい情報、未知の概念に誰もが近づける自由がある。その場合、事象の現実に対して実践的関心をもてばそれ相応の段階的な努力が求められる。いうまでもなく、こういった開かれたプロセスに応える理論システムをもつことが和声学の眼目となる。 ◆ ローカル・スタンダード 分析は現実的な事実から分析に値する現象の選択を行うものである。すでに現象の多数を、現象の多様について述べてきたように、音楽的な実践を真の意味において可能にするものはこのような現象の認識である。しかし、従来の和声学における分析状況を検討し再構成していくという理論と論理は、今日においてもなお十分に展開されているとはいえない。学習者は他の学問において開かれた知的訓練を受ける一方で、真理判断をひとまとめで訴えようとする唯一性の概念による機能理論は、古典概念に対するローカル・スタンダードという、自分たちが置かれた特殊な状況を理解できないでいる。欧米では、時代から時代へ伝わる伝統的な概念は事実によって確証され、経験豊かな作曲家の捉え方や実践は様々であるという多様性を研究する分野として和声学は発展してきた。だが、日本の和声学にはいまもって事実の実証がすっかり抜け落ちた概念規定が存在している。古典音楽を聴いてルールの狭隘なあり方に疑問がわいたとしても、それを押し殺さなければ試験には臨めない。彼等の多くは和声学がなぜ古典における実践的事実を扱えないのかという普通の論議をしている。普段、私たちは様々な概念を知って、それを並べたりあるいは組み合わせたりして、有益な音楽体験の蓄積を行っているのである。こうしたことから、和声学の事実に対する閉鎖性は少なくとも社会的文化的認識の抑圧的な障害物であり、歴史的・経験的実在の現象の多数を排除する理論と論理は妥当性を失っていることが分かる。芸術作品との整合性について無関心で、論述においては古典和声の枠組みや適用領域を偽り、現実的に理解可能な事実をそれは例外といって束ねてしまう、さらには問題解決と学習能力を得るための古典和声に関する情報資源にアクセスできない和声学なら、ない方がいい。 それによく考えてみれば、音楽大学の教育領域における専門的・技術的分野は、器楽・声楽・教育学・音楽学の4部門を柱としている。とすると、たとえば管弦打楽器・ピアノ科専攻学生にとって、管弦楽・吹奏楽・協奏曲・アンサンブル、そしてピアノ・ソロ曲・連弾曲・各種楽曲の伴奏は、彼等の最も実践的関心を満たす専門的分野である。しかし、そこに展開される和声現象はいずれも「器楽構造様式」であるのをみても判るように、器楽演奏学科クラス対象の和声学が示す理論と演習が「声楽構造様式の4声体のみ」をモデルにしているという考えは異常である。これは単に限定的なだけでなく累進的な限定になりうるものであって、器楽音楽における和声構造の本質に対して排他的な傾向はもう一つの制約をあらわにする。この演奏学科(管弦打・ピアノ・オルガン)専攻学生の、器楽という専門性を意識した現実体験とかけ離れた和声学は、対象の吟味などのない無自覚で直線的な先入観によって、声楽的4声体書法以外の和声形態が、非実践的なものとして切り捨てられてしまう理論内容である。その演習は全教程を通して規則禁則とその適用によって行われ、すべてが演奏学科専攻学生の念頭にある音楽の内実とはまったく違った概念規定に重点が置かれる。これこれの声楽的な構造様式に合うような、これこれのルールを遵守するための演習が初級・中級・上級といって実行される。ここまでくると演奏学科の学生は、もはや器楽音楽に関する多面的な和声構造様式と向き合えるような人間ではなく、また、日常的体験によって得られる変幻自在な和声の変化を感受できる人間でもなく、専門性をないがしろにする荒っぽい認識論に駆り立てられる学習者にすぎない。 ある事象の検証において、そこに多数の現象・形態、さらには多様な結合・分離が分析されるとき、そのあり 方に条件をつけて範囲を狭める一義的な和声学もまた、日本的な規則禁則による理論状況の産物である。そのこ とは音楽専門大学における組織化された和声学の無内容な現状を見ればよく分かる。とくに管弦打・ピアノ・オ ルガン専攻学生の和声学講座担当スタッフが、散漫な考察への反省もいまだ行われていない、閉じられたエクリ チュールの神話を夢見ているような場合には弊害を伴う。ルール偏重を正すことができない構造認識によって古 典和声の開放性という一般的な創出レヴェルは説明できていからである。 そればかりか、我が国には「和声を4声部として把握する考え方は、中世・ルネッサンス・バロック時代における宗教的合唱音楽が中心であった時代を受け継いだもの」、さらには「 18 世紀古典音楽の創出は近代的理論が反映され、それに基づいて行われている」という実証性のない歴史観が根強く流布している。中世からバロックまでの合唱曲の多くを考察してみると、声部編成は 2・3・4、そして5声体が一般的な形態であって、和声構造の基本は4声体であるという見解はこれも単なる思い込みなのである。そのうえ、 19 世紀末にあらわれるH.リーマンの機能理論は、常識としてJ.S. バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが活躍したバロック・古典派の時代にはまだ存在していなかったのは明らかだ。もちろん古典和声そのすべてが機能理論の構造概念として解釈できるわけではない。それにもかかわらず、機能理論は古典和声を科学的に完全解明を可能にした画期的な理論であるといって他のものから差異化する。そういった説明は思考のメカニズムさえもっていない言説といってしまえばそれまでだが、和声学は、あたかも 18 世紀の作曲家たちは4声体という構造形態と規則禁則とを遵守しながら、 19 世紀的機能理論をすでに 100 年も前に知っていて、そのカテゴリーの中で和声を想像していたかのように思わせ、そうした言説の下で論じている。 概念の形成に関しては、学習者の周辺の対象について、つまり、管弦打楽器科の専攻学生にとっては「管楽合奏曲」「管弦楽曲」、ピアノ科専攻学生には「ピアノ・ソナタ名曲集」など、そうした一般的なものを認識することとして説明されるのが普通である。また、その認識に関しても様々な方法がある。たとえば、「和音には構成音の重複形態がある」という考察から「和音における重複音の違い」という構造的な多様性、あるいは、モーツァルトの交響曲のなかに「連続8度といわれる和声構造が見られる」の分析から「連続8度」ひいては「連続5度」の効用性を知るように、事実検証を介して経験の領域を広げ、多くの概念を認識することもできる。このように、対象の直接的な考察・分析と現象間における変化に富んだあり方を見定める視点がなければ、教育には思惟の一元論的傾向がもつ、人間の感性・素養に対して一方に片寄った享受といったものに走る「マニアックな差別意識」が生まれやすい。 ◆ 教育の分断 一時代前の理論家が考えた自己合理化のための仮象を対象にする概念規定は、乗り越え難い障壁にぶつかって立ち往生している。今日このことは、これまでの定義が依拠してきた用例と概念がもはやそれ以上ではありえないことを物語る。定義を行う場合の基本的な問題は、定義される対象は一般的に熟知されている必要があり、しかも、経験的実在を有する現象の説明にとって事実の考察に基づく直接的な分析データが明示できなければ、その言説は知的な検討を放棄した人間のどうでもいい論理と同じである。それを考えると、不安定な概念規定が持ち込まれる和声学講座を、若年においてはやくも受講させられた者は自分自身を体験することができない。さらに、そういう彼等が大学教育の恩恵を受けられる年代になったとき、高学年でありながら、またも低学年と同じことを教示されほとんど棒立ちの状態は自分で自分を発見できない。自分はすでに和声を知っていると誇示するだけで、ひとつ覚えを除いたらほかに何もなく課題がどのように変わろうとも他の方法をまるで理解しようとしない。それは人間の豊かな表現とは違い、ただの身ぶりである。それを見ていると実際に対してのネガティヴな関係は容易に想像できる。それもそのはず、今まで出会った講座には規則化された限定・制約についての伝達はあったが、その理論的展開はなかった。 もともと彼等は、短絡的に付和雷同する動物の群れではない。知らされていないのだ。規則禁則はどのような論拠があってつくられたものなのか? その説明はなぜいままで曖昧にされてきたのか? 答えはあまりにも簡単である。つまり、日本の規則主義的和声論は、規範的合意が社会文化においてもつ一般的な事実に基づく認識根拠を無視したのであり、これを暗黙の仮定として実践的事実の中に滑り込ませてしまったのである。たとえば、理論と実習に提示される学習規則は一見すると実際の構造特性を捉えているように見えるが、それは部分の中の一部分という断片的な現象である以上、構造原理の成立にとって重要な意味をもっていないのである。というのも、自分中心の理論家は自らが受容できない現象の多くを分析対象から除外してしまうため、理論それ自体が、芸術作品を対象とする実在を主観的な表象を切り離して捉えた概念は規則禁則であると本気で言及できないからである。当然このような認識方法による説明は、思考の対象についてある判断をする「概念の形成」において過激な一元論となる。そして経験的世界に対して無関心である。なぜなら、和声学とは、一般的な論述を見聞すれば明らかなように、理論家自らが積極的に理論の再構成に加わり、対象を唯一の概念に帰することなく、伝統的な様式と新たな問題に注意が向けられた様々な「アングル」と「アナリシス」をもって概念の象徴化を行う学問であるからだ。要するに、ある範囲内では妥当な見解も、範囲を超えて適用されると妥当でない見解になる。その結果、人間の思惟・存在・実践を知り得る情報化社会において、極端にモノクローム化された調組織論、現実的な表出のための必要最小限の範囲を逸脱した限定と制約、そして声楽的なしかも4声体の和声構造様式に限られた書法、それだけを前提にする向こう見ずな教育の分断は深刻な問題となる。◆ 前提条件 ある音現象の生成が、歴史を基盤として成り立つもの、さらには未来に向かって成り立つものとして捉えることができるならば、その音現象はそれ自体として完結することになる。完結するということからすれば、それは個性をもつとされ、過去から現在、現在から未来に向けて更新されるとなれば、それは発展するといえる。それゆえ理論とは音現象を「個性と発展」という範疇で捉えることにほかならない。ところで、機能理論における日本型のルール_限定進行と定義された音現象はそれ自体として完結されたのだろうか? また例外と定義された音現象は更新されずに今でも例外なのだろうか? それは古典和声という過去の世界においても、そこで停止し、普遍であるとされ、それ以上は発展しなかったのだ。 和声理論がもつ構成原理の本体を見極めるために、文化社会が認める音楽作品が提供する個性的な創造性にこだわることは間尺に合わないと思われるかも知れない。しかし、そこに存在している技法がもつ多様性・変化性こそが分析の根底に潜む概念と認識を明らかにしてくれるのである。芸術作品における実践とは、例外的な特殊現象の集合体であるどころか、私たちが理論構築の知的作業を行うための根源的な認識規準となるものである。音楽作品をめぐる解釈だけでなく、その基準を解釈するために用いられてきた従来の機能理論を検討してみれば、彼と同じような結論に達するだろう。ローパーが指摘するように、論理思考の最も希薄な理論のあり方を疑問視する度合いは、我が国の文化社会や音楽教育においても次第に強まっているといってよい。ここで問われるのは、和声学の論述はいかなる条件においても多様な形態を理論的に総合する問題に対処できていたのか、という点である。「歴史を横断するという視点」の導入もなく、厳密で基本的な前提条件を導き出そうとつねに変化する現象の根拠を断片的に単一規則に収束した旧態の概念は、これを単に外からの強制として受け取る知的な学習者を対象とする限り有効には機能しない。たとえ、個別に芸術作品の和声について語ることがあるにしても、具体的に知る手がかりは方法的に遮断されているのである。音楽芸術における人間の実践的存在を事実をもって証明する際に、規則禁則を普遍的な認識方法とする和声学は、その性格において 19 世紀的機能理論の限界を露呈している。 象徴的概念化は、ほかのことはさておいても、差し当たって「古典和声がもつ多様な可能性」にまつわる関連領域の様々な和音とその用法を明らかにしたリストを作成することにある。和声を形成している諸要素を中立的なレヴェルで定義するためには、このような手順を踏まえる「前提」と「理論」はどうしても必要である。当然のことながら、概念化の目的は、人間の創出とその歴史的経緯が作品という素材そのものにおいてどのような形で総合されているかを示そうとする点にある。そうすることによってはじめて古典和声もまた人間の表現手段の一要素となることができるからだ。 つまり、「私たちはいかに創造的になれるか?」と同様に、「私たちはいかに音楽的になれるか?」を問題にしたとき、歴代の作曲家たちが考えていたのもまさにそのことなのである。それは芸術に対する根本的な認識に欠けた、その周辺を目的もなく徘徊しているような規則禁則から説明できるものではない。日本の古典和声学が、和声学の分野で画期的な発展を遂げられなかったことを考えると、私たちは。事実考察に基づかない理論構築の無意味さを、十分知ることができるのである。 2012年 01月 07日
Desk:04 − 知識獲得の可能性 「 歴史における伝統性と創造性 」 ◆ ジャパン・シンドローム 現代の理論家は改革を目指した研究セッションに加わる一方で、増え続ける「検証放棄」についての原因糾明を扱っている。「なぜ対象の一面的な概念でしかないルールが多くなるのか、その意図が判らない」と語る。古典芸術の規範が画一化される以前にしてもこれほどのことなかった。概念の外延を与えはするが、その内包には関わらない定義は、事実をより現実に近い条件でシミュレーションができないばかりか、こうした検証放棄によって概念的論証および規則禁則の実証的妥当性をなくしている。 この状況を放置したままでは、一切の古典における実践的存在を排除し、事実によって実証し得ない超越的思弁を次から次と持ち出すほかはなく、たとえば、「古典和声学はルールとして完成されたものだ」という説明はまさにその例にほかならない。それは規則主義者たち自身の行為に対する責任からの逃避であり、恐れによる「検証の拒絶」である。なぜなら、歴史を通じて変化し様々な実践からなる結合・複合的和声構造として、私たちの専門知識となる概念規定は、古典の事実に基づいた考察・分析の助けを借りて実証的データそれぞれの一貫した観点から定義される必要があるからだ。もしそれに倣うとすれば、次のような図によって示すことができる。 ① ② ③ ④ ⑤ 古典 ─→ 考察・分析 ─→ 検証データ ─→ 概念化 ─→ 定義 ↓ ↓ ↓ ↓ └─────────────────────────────────────┘ ↑↓ 理論の一般性 ↑↓ 古典和声に関する理論 ↑↓ 専門知識 ↑↓ 古典 そこには歴史的実在から逃避して本来的実体を否定するルールの閉鎖性、つまり、規則主義者がつくったストーリーからは逃れられない理不尽な実態がある。もともと日本型の機能理論には事実の証明をもって確実な認識方法とする哲学的立場は根づいていなかった。しかも、それはかつてあった現代の理論構築のために現和声学を問う姿勢とは質を異にする。とりわけ「長・短調的凡例を示すために大作曲家の名を言及するが、理論の信頼性を損なう由々しき問題、すなわちその楽曲や様式の解析を意味しない」という理論構成の曖昧さは、これまで実行してきた概念規定の正体を暴露するものである。そういった透明性のない概念規定が、プロの理論提供者や解説者であるなら常識的公理として当然知っている必要がある「古典的な意味での」という区分はもとより、「正しい和声のあり方」に関わる認識根拠についての実証的説明を不可能にしている。 ① ② ┌───┐ ルールに適合する部分現象を │ ? │ …→ ルール ⇄ 一集合にまとめた特殊な概念 └───┘ ↓ ↓ └────────────────────────────────┘ ↓ ? 古典的な意味での 正しい和声のあり方 ? ↓ ? 専門知識 ? ↓ ≠ 出 口が不透明 古典 音楽文化社会 人々は、この、「古典的な意味でのルール」とは何を指しているのか、という問いがきわめて核心的であるため避けて通れないことに気がついており、唯一論の賛美に終始した歴史的存在を例外視する「ルールの完成度」には懐疑的である。とりわけ、「古典」とは、いったい何を指しているのか? 和声学が、学生そして児童生徒までが、古典を創造した人間の人間的尊厳と芸術概念を前にして、「それはしてはいけないこと、その音は限定進行音と決まっているから、この大作曲家の和声は古典的な意味でのルールを守っていないので例外である」などと思慮分別もなく判断させられる姿は、人間の繁栄とその表出の実例を指し示す常識的な質性に相応しい状況といえるだろうか? それゆえ、従来的思考の概念的方向と排他的視点を根本から考え直せばいいのである。それに必要なのは現代的な一般の社会人が共通にもっている柔軟な判断力である。表現者と表現者、時代と時代、古典和声と古典和声、そして文化も、それぞれの価値ある差異に、機械的で古びた規則禁則でもって擦り切れた物差しを当てる愚行は避けたいものだ。振り返れば、日本の規則主義者は長らく自らの物差しで強引にも他を測り続け、理論解説者もその愚行と無縁ではなかった。同時に、理論領域における和声学意識には特有の病理_「ジャパン・シンドローム」_が存在することも認識している。とはいえ、現代社会の多様な文化環境に配慮する認識論と和声学とが共に満足する道は必ずある。事実とその理論との不一致によって陥る「循環論法の危険」そして「実証的認識論を欠いた理論状況」をのり越えるためには、旧態のルール規定が依存する方法とは違った認識方法が必要となる。 ◆ 基本概念 私たちはしばしば他の人の常識のあるなしを問題とする。しかしその場合、常識あるいは非常識とは何を根拠にして判断されるのであろうか。ごく普通には、自明なものとしてそのまま音楽行為の規範とされ、多様な事実の考察によって象徴化された共通な感覚を基盤としている意見や思考様式が常識と呼ばれている。つまり専門的・技術的分野で、それに従事する者が当然知っている基本的知識を指すのである。となれば、和声の本当の姿と出会えることができる場所とは一体どこにあるのだろうか? 和声学からすると、それは対象再現のためのルールによって抽象化される理論的モデルということになる。それなら和声学は、人間の側に任意選択権が委ねられているルールの妥当性を筋道を踏んで論議し、事実をもって現象の現実的な法則を洞察する必要がある。 しかし、従来の和声学は説明の出発点となる古典的な和声様式がなぜこうなっているのか、それを学ぶモティベイションをどう高めるか、つまり自己の表出力をどのように蓄積していくかを考えさせるような概念の形成をしてこなかった。もし、概念的方向とその視点についての論理的な説明もなく、ましてや西洋和声音楽に参入するために必要な経験的実在の洞察もなく、創造の場である歴史を喪失した規則禁則だけが唐突に示されるとしたら、それが象徴的概念の属性を明確に与える科学的で有効な定義とはなり得ないことは、もはや繰り返すまでもなかろう。その説明の出発点となる理論的モデルは、事実に基づく「基本概念」を提供するばかりでなく、さらに新しい問いを導き、新しい現象をさがし、将来の予見をたてるのに役立つものである。 ![]() なんと奇妙なパラドックス。その行き着くところは、学ぶ人間から人間が築きあげた「文化的資源活用」の機会を奪ってしまう理論である。こうした理論は規則禁則の順守以外に方法はなく、それ以上に報われる人間的な価値を有する思惟的行為という実践を見失ってしまい、他と比較することができる諸理論を与えようともしない。そこには、多様な概念を定義するにしては構造認識や価値規範が極端すぎるという問題がある。したがって、そのような概念と認識からは西洋18世紀のクラシック音楽_J.S. バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの和声表出を基本概念とする様式_の具体的なイメージを描くことなどほとんど不可能に等しい。このことによって有無を言わせないルールによる日本的形態の和声学は、知識獲得の可能性において十分な成果をあげることができなかった。すでに述べたように、社会が認める音楽文化とそのメディア・リテラシーが与えてくれる経験的証拠および情報・分析データによれば、今まで象徴化において基本的知識とされてきた常識をあからさまに排除する。超越論的思考の対象となり得るとしても認識の発展の役には立たない。それは現象の生起という事実検証によって完成されたものではなく、古典和声を象徴するありふれた体系的構造を示すものでもない。もし私たちに働きかけてくる対象を無視してルールに固執するなら、もし暗黙の同意が得られているとしてあらゆる構造をイコールで結んでしまうとするなら、音楽芸術の歴史的発展は無価値な作品の巨大な塵芥収集場になってしまうだろう。 和声学は、本来、定義することで対象に関わる決定的な事実と不可分に結びついて、認識論拠とその過程を提示しながら理論体系を構成していこうとするものである。しかし、ある規則主義者はむしろ定義することで事実を隠ぺいし、ある和声学は定義することで事実を否定する。 では、人々はそういう理論と論理を本当に信じているのだろうか? 彼等は古典に展開される現実の和声に触 れ、それをを把握するための道具としてつくられた「モデル」が事実と共に生きていないことが分かっているの である。実際とルールとの間には定義上の大きな食い違いがあるということを、すなわち、それによって事実と モデルとの「混同による誤解」を呼ぶ危険性があることをすでに知っているのである。作曲家・演奏家・音楽学 者の言葉を借りるなら、たとえ、規則主義者が理論において規則禁則は普遍と言い張り事実の説明を怠ったとし ても、和声学が対象を概念的に規定する言説においてどのように操作的であったにしてもである。 逆の立場からすれば、人々はその狭隘な枠組の中で、個々の説明はもちろん再検証によっては偽りになるかも知れない概念と認識に従属させられ、そればかりか、基本的な思考形式において、事実の直接的な考察にもとづく現象間の原理法則よりも、モデル構成の要素となるルールの方が無条件に信頼できるものだと信じ込まされてきたのである。この芸術的な遺産を支えることができない唯我性は今さら驚くようなことではない。その時代の作曲家が作品を想像しているときに考えていたことを、人間の聴感覚に備わっている音組織の多彩な色調を認識する能力を再現するようなものではない。単調なモノクロ長・短2階調に限定し、構造解釈としてバロック・古典派から現代の音楽作品まで、考察・分析においては借用和音論をのべつ乱用する。しかも、正しい和声のあり方として肯定されるのは、和声音楽の歴史的・文化的ディテールを執拗に規定の外においた規則禁則というルールを遵守している現象のみであって、他の現象その他一切はすべては規則違反・例外・不可あるいは例外的現象であるにすぎないと定義する構造認識である。 このように自己批判的能力を失った認識論は、理論の構成基盤に新生面を切り開く理論史を踏まえれば科学以前の存在でしかない。これでは 私たちが知ろうとする対象に対して様々な視点を取り、多くの概念を分かちもつために行われる考察や分析は尽されていない。だから、概念規定においては個別的で相対的な理論独自の専門性が必要であるという理念に導かれた概念的方向と視点でさえも、実践的帰結を無視した限定的部分的な概念規定にまで堕ちてしまっている。これが日本の旧態的な和声学の理論状況である。だが、本来的な理論構築を考える認識者は再び問うであろう。 理論と演習がルールという一元的志向の枠内にあることによって実践的であろうとすることは、合理的・具体的に統一された古典の実践的存在を相対化できないという限界をもたらす。要するに、歴史的・文化的資源と結びついた根源的な課題を放棄する前提条件をはじめ、認識根拠とその過程に対する批判的な問いかけに背を向けてきた概念的方向、そして「人間が歴史および実践において伝承してきた共通感覚を学ぼうとしている人々」と「実証性に欠けるルールだけで満足させられてしまう人々」とが対立するような和声学、その理論的失点は大きい 。 ◆ 直示的定義 我が国の和声に関わる理論家たちにとって、音楽文化社会に受容されている古典の和声構造特性が理論構築のための分析対象であったことはなかった。それらの実例はつねに例外であった。少なくとも、規則主義者が、西洋ではすでに和声構造の対象として関心のないピアノ初級教則本などを対象にした認識根拠とその過程を批判的に問うこともなく、それに基づいてテキストの編纂をしている間はそうである。節度を保てばいいものを、そういった限定し過ぎた概念規定は、現代の情報化社会のもとで容易に様々な作品検証が可能であるにもかかわらず、構造特性を規定する合理的な定義の不足よって、私たちの思考の概念的方向となる共通感覚を繰り返し歪曲する。 たとえば、「西洋音楽の基本的な調構造は長調と短調である」「バロック・古典派和声様式は19世紀的機能 理論に基づいている」「ドイツ的な機能理論に依拠する構造を崩さなかった印象派_フォーレの和声特性」とい う唯一論的な概念判断、さらには「現象のすべては同一性によって支配される」の超越的思弁にみられる極端な 視点など、その和声的思考は概念規定の妥当性を当の対象に尋ねることをしないばかりか、概念のもつ内包の矛 盾に対しても無関心であり、何のことはない、様式の底に潜む「構造上の特性とは何か?」を見定める全体的な 考察と分析を怠っているのである。したがって、現代の実証的研究では明らかとなった古典和声の起源的構造と その歴史的経緯を今もって論述できないでいる。 「ここは日本である」といった単純な機械的誇張を言い訳にする機能理論に、いまさら説明を求める必要があるのだろうか? むろん、何世紀にもわたって伝承された実践的事実を文字どおり受け入れながら、より大きな「コンテクスト」から捉え直すというのなら話は別である。私たちは、必ずしも旧来の機能理論が符号化によって解決できるような問題しか扱うことができないわけではない。和声構造の各問題領域に固有な和声法と深く関わるような場合、その定義において必要なことは、概念と元の対象とが合致しなくなった言葉だけの普遍性を語るよりも、とにかく音楽文化において一般的に熟知されている現象の現実的な概念を見い出し、その対象がもつ分析特性について説明的思惟に役に立つような「直示的定義」を行うことなのである。 もはや、概念が形成された認識根拠となる対象についての論述ではなく、「規則に合っているか、合っていないか」「禁則を遵守しているか、いないか」という経験的明証に逆らった正誤判断に訴えるだけで、強い意欲をもち、それをやり遂げようとする人間の実践がいかに多様なものであるかを暗に無視する。その唯一論的な論理は現象の重要な問題から目を逸らす、しかも、先入観によって矮小化された認識基準の産物であるばかりか、そこに示される門前払いのような論理的言説は壁に向かって語るよりも空しい。規則主義的和声理論はその普遍的な理論として検証もないルールを持ち出してくるのであるが、現代の順を追って進む理論家たちに言わせれば、これは和声論ではなく、断片的レヴェルの一つの現象を構造全体にまで延長した言説にすぎない。先入観を吟味することは、和声学の一つの仕事である。それゆえ今日、この認識をさまたげる強引さや退屈さ、そして概念規定に関わる定義の非論理性や認識の発展には役に立たない概念に対して信用をおく人間はほとんどいないだろう。人間に備わった自然な聴感覚は個人的な色彩が極めて強いものである。あえていえば、芸術作品に示された伝統的な和声音楽の数々を考察しながら、同一の対象に対して様々な視点を取り、それぞれの洗練された個性を探していた方がずっと実りが多かったはずだ 。 ◆ 理論構成 日本的形態の機能理論以来、和声学の理論と論理、そして演習は日本人の嗜好に合うように仕組まれた規則禁則によってなすがままに支配されてきた。こうした人間的行為の実践的な対象に備わる価値の規則化は、全体としての実践の価値の歴史的な源を説明してないし、事実の考察に基づく法則や実践そのものを実際には何も説明していない。というのも、価値についてのあらゆる問いを理論的・原理的に解明しようとするのではなく、事実とは食い違う限定・制約による正誤判断という認識基準内に閉じ込めることによって、結果的に私たちの周りにある古典音楽の経験的実在とはますます疎遠になるからだ。もっと危険なことに、この考え、つまり理論の価値は「理論以外のもの」によって正当化されるという考えである。それが認識方法であれ概念規定であれ、まずは理論の実証的なあり方を例外視しておいて、理論の価値を何か別の目的のための単なる道具と見ることは、それを普遍的といって4声体書法のような他の固定化された演習に服従させるという「去勢の論理」と同じである。もし、理論構成に現実を経験する主体がなければ、それらは死んでおり意味がない。それらをそれだけで価値があるものとして扱うことは、概念の内包を明確に与える定義や知識の成立する条件のゆがみを助長する。 ![]() 説明を求めても無駄なのである。はじめから論理立てを可能にする内容にはなっていない。西洋音楽の歴史における枠組と諸現象を仲立ちとした言説でもないのだ。対象に対する概念規定とその適用がこうなるのは、集団授業の学習効率をあげるための規則励行にとらわれ、古典的和声音楽の実体を別のものと取り替えてしまったことが原因なのである。論ばくを加えようと急ぐあまり、判断を誤る限定・制約という認識論、時間をかけて考察するという手間を惜しむルール、そして最短を駆け抜けようとする教育が逆の結果を招いた。この出口の見えないゆがんだ理論構成が流行のようにもてはやされると、なおのこと理論構成はゆがんで見える。信じがたいばかげた話であるが、これが、ほぼ四半世紀近くにもわたって放置され、隠ぺい性・排他性を内在させた音楽理論なのである。 旧態の和声学における疑似の現象を対象にした仮の認識基準は、いまや実践的存在を洞察し人間としてのバランス感覚を回復するように求められている。理論と演習は、歴史的にその価値に対する認識は事実との照らし合わせで問題にされ、論理的な問題もそれによって表面化するものであった。現代では論理実証主義的な見解で論じられる、概念的終着点が誤って仮の認識基準と同一視されているが、このルールによる基本的基準は、その理論の中での使用価値を離れれば何の芸術的価値ももたない。和声学が合否選別目的につくられる受験和声のモデルに拘束されたことは、文化社会における芸術という概念を物扱いする行為に行き着き、それを理論構成の中で言及することにはまったく関心がなかったことを意味している。芸術家が遺した作品・書簡・遺品を保護・保存するのに莫大な代価が支払われているのに対して、美的教育にはほとんど皆無といえる。 私たちは、概念規定と認識方法を例外・不可という安価な概念規定の中に閉じ込めるのではなく、価値問題の道筋からすると作曲家はいかなる過程をたどったのかを見い出し、それらを現実的で有効な経験として考え直すことで、「歴史における伝統性と創造性」それ自体が人間の強力な「体験の記憶」であることを知るのである。
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