2017年 03月 04日
02 - 知識獲得の可能性 / 和声学序説:基本的前提
02 - 知識獲得の可能性


「 理論と論理 」


 和声構造の基本概念
 私たちはしばしば他の人の常識のあるなしを問題とする。しかしその場合、常識あるいは非常識とは何を根拠にして判断されるのであろうか。ごく普通には、自明なものとしてそのまま音楽行為の規範とされ、多様な事実の考察によって象徴化された共通な感覚を基盤としている意見や思考様式が常識と呼ばれている。つまり専門的・技術的分野で、それに従事する者が当然知っている基本的知識を指すのである。となれば、和声の本当の姿と出会えることができる場所とは一体どこにあるのだろうか? 和声学からすると、それは対象再現のためのルールによって抽象化される理論的モデルということになる。それなら和声学は、思いつきを口にしたり、無理を通そうとするのではなく、人間の側に任意選択権が委ねられているルールの妥当性を筋道を踏んで論議し、事実をもって現象の現実的な法則を洞察すればよいのである。
 もし、概念的方向とその視点についての論理的な説明もなく、ましてや西洋和声音楽に参入するために必要な経験的実在の洞察もなく、創造の場である歴史を喪失した規則禁則だけが唐突に示されるとしたら、それが象徴的概念の属性を明確に与える科学的で有効な定義とはなり得ないことは、もはや繰り返すまでもなかろう。その説明の出発点となる理論的モデルは、事実に基づく「基本概念」を提供するばかりでなく、さらに新しい問いを導き、新しい現象をさがし、将来の予見をたてるのに役立つものである。
 とはいえ、従来の和声学は、その理論と演習においてイデオムとしている概念規定というものを考えてみると、事態はかなり矛盾したものになっている。「個々の和声構造に機能性を与えているものは何か」。それについて歴史上の大作曲家たちは実践をもってみごとに論証している。まず、和声構造というものは限定・制約される現象そのものではない。なぜなら、個々の現象は多義的なものであるからである。また、和声構造というものは規則主義的な考えそのものではない。なぜなら、考えというものは人によって異なるからである。さらに、和声構造というものはルールが示す音進行そのものではない。なぜなら、和声構造のもつイデオムはルールがもつ諸性質とは違っているからである。そして、和声構造というものは公理そのものであるわけではない。なぜなら、和声構造はつねに規則主義的な公理定理を超えた相対的特質をもつからである。要するに、定義における基本的な問題は、分析の対象が一般的に熟知されている必要があり、直接、様式特性(現象、調構造もも含め)を指し示す「直示的定義」が必要になる。こうした認識方法が有効なのは、少なくともカタログを欠いた定義は、そうした認識の過程で現れてしまうストア的退却論に陥るからである。さらには技法の習得を目指す客観的帰結を無視する。
 現代の和声理論における定義はルールと事実の関係が一致する地点から出発する必要がある。しかし、検証分析と直示的定義を放棄する理論は、たとえば同一現象を一集合にまとめて、特殊な唯一性の概念を作るために客観的実在性を否定する限定抽象と、既存の限定・制約を正当化するためにあえて譜例および用例の提示を拒絶する循環定義を今でも繰り返している。このような象徴化は、特定対象の部分現象を規則化すると同時に普遍化するがゆえに、歴史的・実践的実在と合致しなくなるのである。すでに見てきたように、和声理論の手意義と概念規定はつぎのような問題を引き起こすことになった。「規則禁則は、いったいどこまでが事実であり、どこからが事実ではないのか?」。
 なんと奇妙なパラドックス。その行き着くところは、人間が築きあげた文化的資源活用の機会を奪ってしまう概念規定である。こうした規定の形成過程は規則禁則の順守以外に方法はなく、それ以上に報われる人間的な価値を有する思惟的行為という実践を見失ってしまい、他と比較することができる諸理論やできる限り多くの分析データを与えようともしない。そこには多様な概念を定義するにしては構造認識や価値規範が極端すぎるという問題がある。したがってそのような概念と認識からは、西洋 18 〜 19 世紀のクラシック音楽を基本概念とする和声様式の具体的なイメージを描くことなどほとんど不可能に等しい。このことによって有無を言わせないルールによる和声学は、知識獲得の可能性において十分な成果をあげることができなかった。
 すでに述べたように、社会が認める音楽文化とそのメディア・リテラシーが与えてくれる経験的証拠および分析データによれば、今まで象徴化において基本的知識とされてきた常識をあからさまに排除する。超越論的思考の対象となり得るとしても認識の発展の役には立たない。それは現象の生起という事実検証によって完成されたものではなく、古典和声を象徴するありふれた体系的構造を示すものでもない。もし私たちに働きかけてくる対象を無視してルールに固執するなら、もし暗黙の同意が得られているとしてあらゆる構造をイコールで結んでしまうとするなら、音楽芸術の歴史的発展は無価値な作品の巨大な塵芥収集場になってしまうだろう。

c0070638_15145617.jpg

すなわち、それによって「実践的事実とルールとの混同による誤解」を呼ぶ危険性があることをすでに知っているのである。作曲家・演奏家・音楽学者の言葉を借りるなら、たとえ、理論において規則禁則は普遍とされ事実の説明を怠ったとしても、和声学が対象を概念的に規定する言説においてどのように操作的であったにしてもである。とはいえ、ある規則主義者はむしろ説明することで事実を隠ぺいし、ある和声学は定義することで事実を否定する。
 逆の立場からすれば、人々はその狭隘な枠組の中で、個々の説明はもちろん再検証によっては偽りになるかも知れない概念に従属させられ、そればかりか、基本的な思考形式において、事実の直接的な考察にもとづく現象間の原理法則よりも、モデル構成の要素となるルールの方が無条件に信頼できるものだと信じ込まされてきたのである。この芸術的な遺産を支えることができない唯我性は今さら驚くようなことではない。その時代の作曲家が作品を想像しているときに考えていたことを、人間の聴感覚に備わっている音組織の多彩な色調を認識する能力を再現するようなものではない。単調なモノクロ長・短2階調に限定し、構造解釈としてバロック・古典派から現代の音楽まで、作品分析においては借用和音論をのべつ乱用する。しかも、正しい和声のあり方として肯定されるのは、和声の歴史的・文化的ディテールを執拗に規定の外においた規則禁則というルールを遵守している現象のみであって、他の現象その他一切はすべては規則違反あるいは例外的現象であるにすぎないと定義する構造認識である。このように自己批判的能力を失った認識論は、理論の構成基盤に新生面を切り開く理論史を踏まえれば科学以前の存在でしかない。これでは私たちが知ろうとする対象に対して様々な視点を取り、多くの概念を分かちもつために行われる考察や分析は尽されていない。だから、概念規定においては個別的で相対的な理論独自の専門性が必要であるという理念に導かれた概念的方向と視点でさえも、実践的帰結を無視した限定的部分的な概念規定にまで堕ちてしまっている。これが旧態的な和声学の理論状況である。だが、本来的な理論構築を考える認識者は再び問うであろう。理論と演習がルールという一元的志向の枠内にあることによって実践的であろうとすることは、合理的な古典の実践的存在を相対化できないという限界をもたらす。要するに、歴史的・文化的資源と結びついた根源的な課題を放棄する前提条件をはじめ、認識根拠とその過程に対する批判的な問いかけに背を向けてきた概念的方向、そして「人間が歴史および実践において伝承してきた共通感覚を学ぼうとしている人々」と「対象との実践的交渉もできない実証性に欠けるルールだけで満足させられてしまう人々」とが対立するような和声学、その理論的失点は大きい 。
 理論家によれば和声構造とは「志向的な対象」である。いうまでもなく、それは作曲家(人間)の想像と実践によって現実化されるものである。まず、その志向的な対象の考察・分析が和声構造の枠組を与える。そして、この枠組が何らかの実体概念を与えるようになる。和声構造の現実とは人間の創造的な志向性によって統一された実践的存在である。これが和声構造の基本概念となるものである。したがって、和声構造というものは和声学的な理論構成法に従うなら「創造的な志向性」「実践的存在」「対象の考察・分析」といった3つの基盤に分けられることになる。このように、和声学は対象に関わる決定的な事実と不可分に結びついて、認識論拠とその過程を提示しながら理論体系を構成していこうとするものである。


 直示的定義
 規則主義者にとって、音楽文化社会に受容されている古典の和声構造特性が理論構築のための分析対象であったことはなかった。そ創造的な志向性と実践的存在はつねに例外的な対象であったからだ。そればかりか対象の考察と分析も放棄したからである。少なくとも、規則主義者が、西洋ではすでに和声構造の対象として関心のないピアノ初級教則本などを対象にした和声分析を批判的に問うこともなく、それに基づいてテキストの編纂をしている間はそうである。節度を保てばいいものを、そういった事実を限定し過ぎた概念規定は、現代の情報化社会のもとで様々な作品検証が可能であるにもかかわらず、構造特性を規定する合理的な定義矢和声分析論の基礎能力の不足よって、私たちの思考の概念的方向となる共通感覚(常識)を繰り返し歪曲する。

 たとえば、「西洋音楽の基本的な調構造は長調と短調である」「バロック・古典派和声様式は 19 世紀的機能理論に基づいている」「ドイツ的な機能理論に依拠する構造を崩さなかった印象派_フォーレの和声特性」という唯一論的な概念判断、さらには「現象のすべては同一性によって支配される」の超越的思弁にみられる極端な視点など、その和声的思考は概念規定の妥当性を当の対象に尋ねることをしないばかりか、概念のもつ内包の矛盾に対しても無関心であり、何のことはない、様式の底に潜む「構造上の特性とは何か?」を見定める全体的な考察と分析を怠っているのである。したがって、現代の実証的研究では明らかとなった古典和声の起源的構造とその歴史的経緯を今もって説明できないでいる。

 私たちは、必ずしも旧態の機能理論が符号化によって解決できるような問題しか扱うことができないわけではない。和声構造の各問題領域に固有な和声法と深く関わるような場合、その定義において必要なことは、概念と元の対象とが合致しなくなった言葉だけの空虚な普遍性を語るよりも、とにかく音楽文化において一般的に熟知されている現象の現実的な概念を見い出し、その対象がもつ分析特性について説明的思惟に役に立つような「直示的定義」を行うことなのである。
 もはや、概念が形成された認識根拠とその過程となる対象についての論述ではなく、「規則に合っているか、合っていないか」「禁則を遵守しているか、いないか」という経験的明証に逆らった正誤判断に訴えるだけで、強い意欲をもち、それをやり遂げようとする人間の実践がいかに多様なものであるかを暗に無視する。その唯一論的な理論と論理は現象の重要な問題から目を逸らす、しかも、ルールによって矮小化された認識基準の産物であるばかりか、そこに示される門前払いのような言説は壁に向かって語るよりも空しい。規則主義はその普遍的な理論としてルールを持ち出してくるが、現代の順を追って進む理論家たちに言わせれば、これは和声論ではなく、断片的レヴェルの一つの現象を構造全体にまで延長した言説にすぎない。ルールを吟味することは、和声学の一つの仕事である。それゆえ今日、この認識をさまたげる強引さや退屈さ、そして概念規定に関わる定義の非論理性や認識の発展には役に立たない概念に対して信用をおく人間はほとんどいないだろう。
 人間に備わった自然な聴感覚は個人的な色彩が極めて強いものである。あえていえば、芸術作品に示された伝統的な和声音楽の数々を考察しながら、同一の対象に対して様々な視点を取り、それぞれの洗練された個性を探していた方がずっと実りが多かったはずだ。


 理論構成
 日本的形態の機能理論以来、和声学の理論と論理、そして演習は日本人の嗜好に合うように仕組まれた規則禁則によってなすがままに支配されてきた。こうした人間行為の実践的な対象に備わる価値の規則化は、和声生成の歴史的な源を説明してないし、事実の考察に基づく法則や実践そのものを実際には何も説明していない。というのも、理論の価値についてのあらゆる問いを理論的・原理的に解明しようとするのではなく、事実とは食い違う正誤判断という認識基準内に閉じ込めることによって、結果的に私たちの周りにある古典音楽の経験的実在とは疎遠になるからだ。
 もっと危険なことは、「理論の価値は理論以外のものによって正当化される」という考えである。それが認識方法であれ概念規定であれ、まずは理論の実証的なあり方を例外視しておいて、「理論の価値を何か別の目的のための単なる道具」と見ることは、それが普遍的といって固定化された理論と演習に服従させるという「去勢の論理」と同じである。もし、理論に現実を経験する主体がなければ、それらは死んでおり意味がない。それらをそれだけで価値があるものとして扱うことは、概念の内包を明確に与える定義や知識の成立する条件のゆがみを助長する。

c0070638_10123139.jpg

 はじめから論理立てを可能にする内容にはなっていないからだ。西洋音楽の歴史における枠組と諸現象を仲立ちとした言説でもない。対象に対する概念規定とその適用がこうなるのは、集団授業の学習効率をあげるための規則励行にとらわれ、古典的和声音楽の実体を別のものと取り替えてしまったことが原因なのである。論ばくを加えようと急ぐあまり、判断を誤る限定・制約という認識論、時間をかけて考察するという手間を惜しむルールの固定化、そして最短を駆け抜けようとする規則主義が逆の結果を招いた。この出口の見えない理論構成が流行のようにもてはやされると、なおのこと理論構成はゆがんで見える。これが、ほぼ四半世紀近くにもわたって放置され隠蔽・排他性を内在させた理論と演習の実態である。
 疑似和声の現象を対象にした仮の認識基準は、いまや実践的存在を洞察し人間としてのバランス感覚を回復するように求められている。理論と演習は、歴史的にその価値に対する認識は事実との照らし合わせで問題にされ、論理的な問題もそれによって表面化するものであった。現代では論理実証主義的な見解で論じられる、概念的終着点が誤って仮の認識基準と同一視されているが、このルールによる基本的基準は、その理論の中での使用価値を離れれば何の芸術的価値ももたない。和声学が合否選別目的につくられる受験和声のモデルに拘束されたことは、文化社会における芸術という概念を単なる物扱いする行為に行き着き、それを理論構成のなかで言及することにはまったく関心がなかったことを意味している。芸術家が遺した作品・書簡・遺品を保護・保存するのに莫大な代価が支払われているのに対して、それぞれの実践的実在の無限の豊かさに対してはほとんど皆無といえる。
 私たちは、概念規定と認識方法を安価な概念規定の中に閉じ込めるのではなく、価値問題の道筋からすると、作曲家は実践においていかなる過程をたどったのかを見い出し、それらを現実的で有効な経験として考え直すことで、歴史における伝統性と創造性それ自体が人間の強力な体験の記憶であることを知るのである。




[PR]
by musical-theory | 2017-03-04 14:33 | 02 - 知識獲得の可能性 | Comments(0)
<< 01 - 実体論的思考 / 和... 03 - 実践的実在がもつ開放... >>