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HARMONICS Book 1
Net Work Preface(前記) Contents 1 Basic Desk Front - Information ① 01-これで和声学といえるか? 02-客観的帰結の実践的課題 03-人間能力の根本原理 04-知識獲得の可能性 05-現代的な枠組み 06-マザー・システム * 07-先入観と規則主義 08-対象概念についての論及 09-音楽理論家グラレアーヌス 10-実際に機能している和声法 * ReferenceData
St.Augustine, Confessions Anicius M.T.S. Boethius, De institutione musica Flavius.M.A. Cassiodorus, Institutiones Anonymous, Musica enchiriadis Anonymous, Scholia enchiriadis Bartolome Ramos, Musica practica Heinrich Glarean, Dodecachordon Gioseffe Zarlino, Instituzioni armoniche Thomas Morley, A plain and Easy Introduction to Pratical Music Vincenzo Galilei, Dialogo della musica antica e della moderna J. P. Rameau, Traite de l'harmonie J. J. Rousseau, Lettre sur la musique francaise Charles Koechlin, Traite d'harmonie Edmond Costere, Mort ou Transfigurations de L'harmonie Knud Jeppesen, Counterpoint Paul Henry Lang, Music in Western Civilization Carl Parrish and J.F. Ohl Masterpieces of Music Before 1750 H. M. Miller, History of Music Donald Jay Grout, A History of Western Music Hermann Keller, Das Wohltemperierte Klavier von J.S. Bach Werk und Wiedergabe Peter Bastian, Ind I Musikken Vincent Persichetti, Twentieth Century Harmony Diether de la Motte, Harmonielehre Katharine le Mee, The Origins, Form, Practice, and Healing power of Gregorian Chant Hugh Trevor-Roper, PRINCES AND ARTISTS Patronage and ideology at Four Habsburg Courts Pierre Boulez, penser la musique aujourd'hui Kevin Bazzana, GLENN GOULD The Performer in the Work 検索
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2012年 01月 07日
Desk:01 − これで和声学といえるか? ◆ 音楽と人間 音楽とは何か? この問いは、音楽理論にとって積年の課題であった。それは西洋音楽理論史における中世の音楽について詳述した「音楽教本/著者不詳_ムシカ・エンキリアディス 」、「同書への注釈書_スコリア・エンキリアディス」が理論書として登場するはるか以前から同じである。これらの理論書は、グレコローマンの著書から引用した諸原理を採用するものであると多くの研究者が論じているように、概念の形成に関しては、ピタゴラス理論をはじめギリシャ音楽の音組織、和声の根本原理となった「オルガヌム」「複合オルガヌム」に依拠する音程の和声について検証を踏まえながら説明したものである。 そもそも、古代世界の文化において音楽は民族性や道徳性に影響を与えるものとして、また、真理探究のための哲学的導入手段として一般教養である7自由学科の主要4学科の中に置かれ、算数、幾何、天文学と並んで数理的な教科の一つとして重要視されていた。すなわち、音楽は人間の精神的な豊かさを示す顕著な実例であって、想像力や実践力を認識するための源泉であった。そしてこの音楽についての検証は中世的・ 18 世紀的・近代的という段階を経て、現代の実証主義に至るまで連綿と続いている。その理論書は、それぞれの音楽の無限の豊かさと固有の構造特性とを見い出した点で、ヨーロッパ音楽理論史の発展を意味するものである。 20 世紀において西欧の思惟が経験したように、歴史家・理論家・評論家が新たな角度から論じる機能論的思考と実体論的思考は、理論を社会的・文化的実践と定義する。 ◆ 変化発展していく認識方法 音楽創出の世界には多くの独立した原理がある。その歴史は単に特殊な領域内部の限定的概念から成り立つものではない。作曲家それぞれが創意工夫した実践と各技法間に生じる相互作用の結果として得られるものであり、その多様なあり方は、人間が自ら変化しようとする本能によって、昔からどんな時代にもどのような作品の中においてさえも見ることができる。私たちには仮に一義的に見える現象であるとしても、それは多義的な表出をもつことを前提としている。それゆえ、近い将来にはデータ・バンクが提供してくれる知識体系を活かす方法、また、その新しい認識根拠と基本的基準が必ず問題となるだろう。たとえ、そうなったところで、事実の全体像を明らかにする考察と分析という知的活動が不要になることはない。 ボエティウスは音楽と人間の関係について「音楽は本来、私たちと親密な関係にあり、私たちを気高くすることも堕落させることもできる。すべての知覚力は人間に生まれつき自然に与えられているが、心に感じることを見つめているだけでは何も分からない。その行動にともなう感覚機能の本質とは、また感覚的に感じていることの固有の特性とは何であるかは、事実に沿って専門的な研究や熟考がなければ明らかにされることはないのである」と論じている( De institutione musica /Book one_1.Introduction /Boethius 音楽教程-第1巻 )。 事実の認識がいかにあやふやなものであり、いかにつながりのないものであるかをまざまざと見せてくれる例がある。分析において構造認識の根拠を示すことのできる基本原理についての言及はなく、事実に基づく考察・分析からの逃避が、そのまま理論に写し出されているものである。曖昧な枠組みや実例の解析もない概念規定が延々と並べられる。前提とされる特定対象についての説明もない。さらに事実に基づく新しい法則の発見により定義基盤も揺れる。構造認識の飛躍があり、負が負を呼ぶ。目も鼻もない逃避というほかはない。 それは、特定対象のもつ明証性を原理的に表明できない限定と制約である。この実体論的思考や客観性に欠ける内的論述と概念規定は誰に向かって語りかけているもののではない。自分自身ですらない。あげくの果ては隘路の奥へと駆け込んでいくのである。歴史からも目を反らし、この余裕のない理論の語りかけるものは浮遊そのものであり、本来的な世界を擁護しているのではなく、事実すべてを無差別に否認しているのを隠そうとしている。驚くような規定だが、和声の世界は変化に富んだものであることは私たちがよく知っている。 人間は根源的に実践的存在である。和声学はその実践的存在を学ぶ場である。和声学が人間という実践的存在を認識する実体論的思考を放棄するときそれは単なる規則主義に変貌してしまうであろう。古典和声の根幹を説こうとする和声学が、枠組としてJ.S.バッハ、W.A.モーツァルト、L.v. ベートーヴェンの名を揚げ、概念定義の中に禁則という概念規定をするなら、それは古典和声の客観的実在性の否定に向かわざるを得ない。周知のように、現代では事実をもって証明することを認識方法の理想とする傾向が著しい。しかし、論理的・形式的関係を明らかにする概念規定が実体の考察・分析を忘れたなら、その世界観が古典和声の実質的内実を見失うに至るであろう。 理論とは、人間が試行錯誤しながら身につけた実際的な知識の総合体であった。つまり対象をより正確に把握するための道具である。その世界に先験的にあるのではなく、象徴化の対象となる現象の現実的に理解可能な検証を通して、対象の自然な姿を客観的にみた理性の働きかけによって形成される。その認識方法は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ時代と共に変化発展していくものである。これに対して「理論とは、人間の創造的な実践において、従わなければならないこと、してはいけないことを論述したものであって、古典はそれに則してつくられている」という考えがある。もしそうであれば、実践が存在する以前に理論は存在していたことになる。それはあり得ないことだ。対象が実在しないのに理論をつくる必要はなかったというのが本当である。人間の主体的思惟と存在が投影された実践を認識の対象とするためには、現象の現実的な法則を「連動」させ、相対的なものに置き換えてゆく「的操作」が必要になってくる。体系づけである。 要するに、人間社会の歴史的な文化創造のプロセスは「実践が先にあって理論は後」なのである。そのような理由から、理論はどのようなものでも、その妥当性には移り行く時代状況・社会環境に関して限界があり、そこに述べられる基本的基準も再構成されていくものにすぎない。いずれにせよ、理論構築の目標は、歴史的・実践的事実に適合する基本概念をつくりあげ人間の日常生活を利することにある。同じことが和声学についてもいえる。 ◆ 定義と再生 私たちはいつかは自分の足で出口に立つことを迫られる。和声を学ぶということは、人間がある時代に手に入れた創出に関する専門知識を駆使し、考察・分析によって現実的に証明された定義をもって実践的事実と深くかかわるということである。それと同時に、個々の違いを発見するのが、古典を体験する最大の利益の一つである。つまり古典は、歴史と同じく、「事象がいかに別々であり得たのか」、また「そうした違いが、いかに価値あるものであったのか」を教えてくれる。こうして古典は、いま現代の文化社会に必然とされているものが歴史的に生み出されたものであり、それゆえに概念規定に必要な認識基準の根拠を論証するのである。 これらは私たちが自立するためには避けて通れないステップとなる。とはいえ、現に実際とルールの照合が多くなると、事実の具体的な検証も行っていない機能理論には、対象に関わる歴史的経緯・借用和音・和音表記を含め気恥ずかしいほどの矛盾点があらわれ、定義において原則的に無効である循環定義に陥ってしまう。その定義は古典すべてにおいて「規則禁則は基本中の基本」という見方に頼っているが、こういう歴史的なコンテクストから逸脱した概念をめぐり、現代の認識論に即応できずに二転三転する基準は、人々によって積み重ねられた多様な経験の中から、古典和声を尺度として概念化された共通の知識を基盤としているものではない。それは、時代に取り残された規則主義者の閉じられた思考、判断、音感覚、これらのものと、過去の時代やその様式すべてが本質的に共通であるという誤った認識に基づいている。様々な古典に対する概念の方向的状況は、古典とのコミュニケーション的行為の広く承認されている均衡的あるいは相対的な認識からは実にほど遠い。すでに見た通りである 旧態的ルールに基づく概念とその適用に内在するこうした傾向は、構造特性を限定・制約として規則化する際のもうひとつの危険をあらわしている。和声学の概念規定がかつては極めて多くの実践的テクノロジーを含んでいたとすれば、今日のそれは古典の解析を意味しないルールによって区画された限定的な演習のために特殊化されている。このような狭苦しい理論への締めつけは、このルールを認めさせ、そこから正しくない和声の除去を期すためのものであるとして正当化されるのであろう。しかし現代の理論家が論じているように、多様な事実を旧態のルール規定に縮小することは、そうした過程の中で現れてしまう循環定義やマニアックな嗜好を反映し、傲慢な認識を補強する。その認識とは、大作曲家が描いた和声様式の定義と再生、それを介して得られた私たち個人の体験など役に立たないと決め込む事実の隠蔽という浅慮である。この排他性は、実際に機能している和声法を規則違反・禁則・例外と規定するかたちで頻繁に登場する。 現代のシステム社会が備えるにいたった柔軟性を考えると、和声学の論述の対象とは、特殊例を除いて、むしろ広義の経験論の立場に立つ古典を対象にした現実体験であるといってよい。卓越した理論的な観点を整え、新しい感覚やエネルギーをもった作曲家たちの実践に考察・分析を加えることであり、その前で和声を考え演習することがいちばん確かなことなのだ。しかし、そこには統一的全体としての固定化された認識基準はない。事実の認識方法・根本的な弁証法がすべて排除される一連の理論と演習はいったい何をしているのであろうか。実証主義的な和声解明の学問でありながら、日本の和声学は、とうとう「規則禁則のテーマ・パーク」になってしまったのかと思わせるような昨今である。 ◆ 原理的な保証 実証的精神を踏まえてきた和声学が、なぜ規則禁則へと向かい、変わってしまったのか。その理由を現代の理論家は、ルールの普遍化からもたらされた特殊的概念とみる。和声をコントロールできるかのような錯覚をもってしまった。規則主義者は排他的であるから_「他者の表出である古典の実践的事実」_は視野に入らない。したがって、歴史にも無関心だ。人間に力強く訴えかけてくる“バッハやモーツァルトの和声”と一緒に音楽芸術への畏怖や尊敬の念を失った」と指摘する。周知のように旧態の和声学は、定義が明らかに不十分で不正確なドグマを前提とするため、理論の中枢部にはその本来的実体を排除しようとする正誤判断と経験的実在を排除した概念の適用がしきりに起こる。歴史的な結果責任という意味においても、その説得力の足りない論理は、言ってみれば、「創造における可能性探究」の道を逆行するものである。 それだけではない。古典という芸術作品が有する確かな和声現象を禁則や例外に区分する考えは、実践的事実と自己判断の不適合性を打ち消そうとした取りつくろいである。また偶成という概念化は、単なる埋め草、それは語意が示すように素材を構造特性に結びつける機能は存在せず、このような概念は_「事象の起こる原因・必然性を考えた機能理論」_にとって適切な象徴化ではない。それに加え、近代的な機能本位の合理性を曖昧にし、大々的に和声の機能性を語るにしてはあまりにも破壊的である。それは勇み足の論述と言ってもいい。しかも、象徴的概念の基盤となる芸術作品の実例表示を怠る、つまり歴史や事実に対して対応能力の備わっていない概念によってつくられたルールは、限定という執拗な強制と同じことの繰り返しによって、「私たちを現実体験から引き離してしまう反文化的なナンセンス」に陥っている。 これらの問題は、例外という実証的説明には役に立たない枠組設定と同じように、合理的な実践によって創出された古典と共存するのに十分なほど精神的に豊かでない人間の自己防衛的な反応にすぎない。それは単に検証力の脆弱さから生じた事実を厳密に還元し得ない認識基準であり、理論的・論理的な優越性ではない。いまや、古典和声学は規則に適合しているか適合していないかではなく、総体として新たな問いのまえに立たされているようである。現実体験によって認識できる常識的な理論を押し進めるためには、その理論が論述することになる古典の世界の「和声的な構造特性」を、事実に基づく現象間の法則を直接的に象徴化する必要がある。すでに人間が獲得した創出すべてを保持しつつ、現代の文化社会が認める優れた芸術作品の構成要素や、それらが躍動する空間を基盤にして諸概念を明かにする、そうすることが和声学の役割ではないだろうか? 音楽芸術は本質的に歴史的である。その移り変わりの現象を離れてその本質は論述できないとされる。音楽芸術が歴史的であるということは、その和声における構成要素も人間の記憶と現実的な経験の一部をなしている。それは論理的な確実性にあらゆる概念を引き入れるものでもある。その明証を一般的な定義概念とするためには、原理的な保証を歴史的事実に求める必要がある。だからこそ、私たちの体験が現実である古典の直接的な探究を決して無視することはできないのである。特殊な概念規定の欠落部分を把握するためには、作曲家の生きた時代的環境とその作品に展開された実践的存在の構造的分析という観点に徹底して立ってみる必要があるからだ。そうしてはじめて「ルール批判の原因はどこにあるのか?」「芸術作品における実践の多くを観察もできない定義概念はどのような目的があってつられたのか?」、あるいは「ルールにおける例外という説明が当然のように正当化されていたとすれば、その論理から私たちの名曲を通して得られる音楽経験も例外となってしまうが、それでよいのか?」という問題も判ってくる。 和声学がよく引き合いに出す「ドイツ和声」「フランス和声」の概念規定は、たとえ、過去における「エクリ チュール」のルールがどのようなものであれ、まず歴史的存在と実践的事実という具体的に存在した伝統的な構 造特性を再生するために、しかも、学習者に経験を積ませ現実的に理解可能な基本的基準を数多く見い出せるよ うに、まず事実に基づく古典和声の考察と分析から始まったのである。あらゆる芸術論と表出論に、それが対象 の単なる部分考察に止まってしまう唯一性の概念が、ルールとして確立された例がないことは見識豊かな知識人 なら誰でも理解している。 それを踏まえれば、和声学は、実際との整合性を求められる有効なルールの資質として欠かすことのできない歴史的経緯の検証、そして音楽文化を象徴する対象との実践的交渉をあえて見過ごした結果、思いもよらない事態に直面している。歴史に遺された古典における実践は、いまだ実現されていないものに向かって既成概念を乗り越える未来的発展という構造特性をもつ。つまり、そういった古典和声に関わる象徴的概念を、事実の証明をもって最も確実な認識方法とする理論は、その世界の本質的な体系である実際に機能している和声法に対してどのようなスタンスをとればよいのか? かつて西洋の和声学の理論と演習が、起源的な音組織となる教会旋法の排斥、際限のない借用和音論の乱用や規則禁則の固定化、また、古典における事実検証の放棄を容認しなかったのはなぜなのか? そうした逆説的な意味において、有用な和声現象を理論に還元するための理論家の常識的なバランス感覚、確かな認識方法に依拠した機能論的思考と実体論的思考、客観的で合理的な構造認識から学ぶところはいまなお大きい。 ◆ 相対的な理論の展開 人間は根源的に実践的存在である。人間の思惟・存在・実践といったものすべてを規則で推し量ろうとし、序列化できるものだけに価値を見い出そうとする傾向が理論をいかにゆがめていることか。とくに序列化によって教え込まれる固定化された価値は、規則化された価値である。その理論は人間の想像力をも含めて、そればかりか人間そのものまでをも含めて、すべてのものを規則で判断させるような世界に若者を招き入れる。それでは、規則の実践に、しかも、その実践の予想させる方法が厳密に守られたとすれば、もっとも想像力の乏しいものにおいて結びつくことになる。理論において何でも限定・制約という視点でものを考えるように強いられた人間は、多数の実践を例外視する。その結果、規則化できない多様な存在を見のがしてしまう。彼にとって規則化できないものは第二義的となり、ただ規則が要求するものばかりを果たしているうちに、与えられた要求を受け入れるだけで、自分に与えられた固有の能力を失う。 _ 私たちの体験が本質的に多様であるなら、万人向きの禁則はない _ それを求める必要もない。私たちは無意識のうちに自分のスタイルを確立しようと努めるものである。はじめ から決まっていることはない。だが、一人ひとりに独自の考え方が形づくられる。だれもそれを押しのけること はできない。それが「かたち」になる。とはいえこのような常識論を聞くことは稀であろう。なぜなら、その理 論と論理の基盤となる認識基準に説明能力が欠けているからだ。 和声学は、その枠組や前提を踏まえると、人間の五感によって認知できない存在を考える学問ではない。それゆえ素粒子学のように、概念がまず仮説として提出された後に事実によって確証される学問ではない。また、歴史的な時間性の外に位置した神学的観念において、服従するか、反抗するかを決定する場でもない。それは人間の合理的経験論と認識論に依拠する。私たちが知ろうとする対象を概念的に規定することは、私たちの対象に対する関わり方を厳密な言葉と実例で記すことである。その基本的概念は、対象とそれに関わる数々の対象とを突き合わせることによって検証することができる。その手段は考察である。事実に基づく分析である。この比較検証は一挙に行われるのではない。何らかの実践的関心を満たすためにそれを検証するのである。しかし、概念規定のあり方が経験的実在から得られる事実を象徴化していないなら、理論をその方向から論述することで私たちにもたらされるものは少ないということだ。さらにそのような事象に対する非現実的な概念の適用は、現象の多数と多様をひきかえに神話に相当する認識根拠の混乱を引き起こす可能性がある。そもそも、私たちの思考の概念的方向や視点もなく「古典音楽の作曲家たちは選択の意志決定をするに際して、規則禁則を把握し、それに従って和声を想像していた彼等はみんなこの道を通ったのである」という説明はおかしい。 ところが、曖昧な、限定・制約ばかりに眼を向ける和声学には、考察の対象となる一般的な古典和声の実際を伝える機能は存在しない。理論は、概念規定の矛盾はおろか、公理定理が身動きすらとれず,さながら機能不全という姿をさらしている。糸口となる経験的実在の分析よりも、はじめにルールを示し、あげくは暗記を迫る。もはや認識論を欠いた概念規定がすべての前提条件となる。規則禁則に準じていなければ、古典和声の統一された合理的な実践は例外として扱い、概念形成における抽象からは排除する。このような流れをみると、和声学は私たちに働きかけてくる対象に無関心であることは理論にとってマイナスの要因にはなり得ないとして、一元的純化の一途をたどってきたのではないだろうか? そうであれば、いつ、どこで、どのような方法で和声の事実に触れ、いかにして論理的整合性と一体化できるのであろうか? 我が国の和声学においては、古典の音楽文化的な資源がつねに隠蔽されたままである。現に、古典の和声がもつ具体的なあり方を明らかにできない認識基準から、正しいか正しくないか、という正誤判断が行われている。日ごろ芸術の開かれた理念を心に深く感じて生きている人間にしてみれば、その脆弱性・非論理性の再考を要求する所以がある。現代の理論家は音楽的にも教育的にも疑問が大きい限定・制約だと指摘する。 音楽の人間的な共通感覚は、歴史的・実践的事実をもって存在し発展・成長する古典音楽と同質の、むしろそ のモデル・アナロジーとして存在した。つまり数々の対象を洞察し、和声の事実を追求することは人間的な共通 感覚の把握に通じ、逆に、人間的な共通感覚を洞察することは、和声についての事実の把握に連なる。 構造的な大転換を経験しつつある音楽文化社会において、日本の旧態的な和声学は現実的で有効な理論構成を確保できているのであろうか。今日の機能理論が背負っている問題とは、歴史的・実践的存在の多様性・変化性からみれば、限定制約の定義が明らかに不十分で不正確でしかない、というパラドックスである。もちろん、私たちに必要なのはその行き詰まった理由と方法を、古典を顧みて理解することである。さらに、もし理論の目的や方向づけが誤って導かれたままであるなら、また、もし旧態の定義が元の対象と合致しなくなっているのなら、その問題解決のためにはさらなる検証が必要なわけを理解することだろう。なぜなら、事実考察を放棄した和声学は、特定対象の認識基準に、人々が日常的に体験する概念内容を反映させることができないからである。 和声学は明解に明証性を展開し、特定対象の実体を再生するために、理論構成において古来さまざまな説明原理と認識方法が考えられてきた。各時代の和声理論を見ると、その理論構成というものが古典を本来的実体とする一般的な説明原理に基づいたものであることが判る。「基本原理→概念定義→古典の考察と分析→事実検証・客観的帰結→理論構成」、「古典の考察と分析→事実検証・客観的帰結→概念定義→理論構成」など、いくつかの説明原理がある。私たちがもつ思考の概念的方向やその視点への問いかけが自然にかたちになり、そのかたちを確立していったものである。したがって、一切の非実体的観念論を排し、事実の証明をもって最も確かな認識方法とする和声学的立場は、人間活動に依拠する相対的な理論の展開にとって現実性・効用性があるため、現代においても踏襲されているのである。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
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