2017年 03月 04日
01 - 実体論的思考 / 和声学序説:基本的前提
01 - 実体論的思考


「 説明原理 」


 相対的概念
 人間は根源的に実践的存在である。つまり、はじめに「実践」がある、のである。しかし、人間の思惟・存在・実践といったものすべてを規則禁則で推し量ろうとし、序列化できるものだけに価値を見い出そうとする概念規定がいかに実践を歪めていることか。とくに序列化によって固定化された価値は、規則化された価値である。その規定は人間の想像力をも含めて、そればかりか人間そのものまでをも含めて、すべてのものを規則で判断させるような世界に若者を招き入れる。それでは、規則の実践に、しかも、その実践の予想させる方法が厳密に守られたとすれば、もっとも想像力の乏しいものにおいて結びつくことになる。和声学において何でもルールという視点でものを考えるように強いられた人間は、多数の実践を単純に例外視する。その結果、規則化できない多様な存在を見逃してしまう。彼にとって規則化できない存在は第二義的あるいは全く関係のないものとなり、ただ規則が要求する実践ばかりを果たしているうちに、与えられた要求を受け入れるだけで自分に与えられた固有の思考や能力を失ってしまうのである。
 ルールによる和声学とはこんなふうに考えることができよう。一般に規則禁則論は、多少の幅はあるにしても狭い部分を説明することしかできず、したがって部分に与えられている事象現象に閉じ込められることになる。ところが、検証分析や演習を介して聴感覚の発達がある人間は、実在の音楽体験と連動した記憶や想像の働きによって、過去や未来という「次元」を開くことができる。正確に言えば、全体の中に、ルールとは異なる歴史上に展開された自然な事象現象が認識されるようになり、そこに伝統性あるいは現代性と呼ばれる次元が開かれてくる。そうした次元との関わり方が記憶・想像と呼ばれるものである。そうすることによって人間は、現に与えられているある一つの和声構造を考えながらも、そこに過去に存在したことのある和声構造や、存在し得る思惟可能な和声構造を重ね合わせ、それらを互いに切り替え、さまざまな和声構造を相互に関連させながら多様性・変化性を事実として理解することができるようになる。このように多様な構造をさらに高次に構造化する概念の認識、変化ある事象現象をさらに拡張された事象現象のもとに関係づける概念の認識を、認識論や論理学の領域で実体論的思考による概念認識という。和声学に特有の世界とは、そうした認識方法によって構成される実体論的思考体系のことなのである。
 和声学は人間の「5感」によって認知できない存在を考える学問ではない。また、歴史的な「時間性」の外に位置した神学的観念において、服従するか、反抗するかを決定する場でもない。それは人間の合理的経験論と一般的な認識論に依拠する。その基本的概念は対象とそれに関わる数々の対象とを突き合わせることによって見出すことができる。その手段となるのが考察である。つまり事実に基づく分析である。この比較検証は一挙に行われるのではない。何らかの実践的関心を満たすために検証するのである。しかし、概念規定のあり方が経験的実在から得られる事実を象徴化していないなら、理論をその方向から構成することで私たちにもたらされるものは少ないということだ。さらにそのような事象に対する非現実的な概念の適用は、現象の多数と多様をひきかえに神話に相当する認識基準の混乱を引き起こすものなのである。
 音楽とは何か? この問いは、音楽理論にとって積年の課題であった。それは西洋音楽理論史における中世の音楽について詳しく述べた「音楽教本/著者不詳_ムシカ・エンキリアディス 」、「同書への注釈書_スコリア・エンキリアディス」が理論書として音楽の世界に現れ出るはるか以前から同じである。これらの理論書は、グレコローマンの著書から引用した諸原理を採用するものであり、多くの研究者が筋道を立てて述べているように、和声現象に関しては、ピタゴラス理論をはじめギリシャ音楽の音組織、和声の根本原理となったオルガヌムに依拠する_音程の和声_を明らかにしたものである。
 ボエティウスは音楽と人間の関係について「音楽は本来、私たちと親しい関係にあり、私たちを気高くすることも節操を失わせることもできる。すべての知覚力は人間に生まれつき自然に与えられているが、心に感じることを見つめているだけでは何も分からない。その行動にともなう感覚機能にとって根本的なものとは、また感覚的に感じていることの性質とは何であるかは、事実に沿って専門的に塾考することができないのであれば明らかにされることはない」と述べている(De institutione musica/Book one_1.Introduc- tion / Boethius 音楽教程-第1巻)。
 古代世界の文化において、音楽は、民族性や道徳性に影響を与えるものとして、また、真理探究の哲学的導入手段として一般教養である7自由学科の主要4学科の中に置かれ、算数、幾何、天文学と並んで数理的な教科の一つとして重要視されていた。すなわち音楽は人間の精神的な豊かさを示す顕著な実例であって、想像力や実践力を理解するための源泉であった。この音楽についての考察は、中世・ルネッサンス・バロック・古典派・ロマン派・近代的という段階を経て、現代の実証的研究に至るまで連綿と続いている。そうした理論書は音楽の無限の可能性と固有の構造特性とを見い出した点で、ヨーロッパ音楽理論史の発展を意味するものである。 20 世紀において西欧の思惟が経験したように、歴史家・理論家・評論家が新たな角度から論じる機能論的思考と実体論的思考は、理論を社会的・文化的実践と定義する。


 原理的保証
 本来、実証的精神を踏まえてきた和声学がなぜ規則禁則へと向かい変わってしまったのか。その理由を、現代の理論家は、ルールの普遍化からもたらされた公理的理論とみる。その特殊的概念は和声をコントロールできるかのような錯覚をもってしまった。定義概念の形成過程は排他的であるから、他者の表出である古典音楽の実践的存在は視野に入らない。和声表出の面からいうなら歴史的存在である音楽作品の関係という問題を全く無視している。現象の多数を、現象の多様を語ることに対しても無関心。したがって、理論と演習は規則主義によって拘束され、私たちはもはや変化発展のない疑似和声を嫌でも聴かされることになる。唯一論的な理論構成はこの孤立化する限定・制約の概念規定から一歩たりとも超えることができなかった。つまり、人々に力強く訴えかけてくるJ.S.バッハやモーツァルト・ベートーヴェンの和声と一緒に音楽芸術作品への畏怖の念をすでに失っている」と指摘する。
 周知のように旧態の和声学は、定義不十分で不正確なドグマを前提とするため、理論の中枢部には本来的実体を排除しようとする正誤判断と、調構造の論述においても部分であるにすぎない概念の適用がしきりに起こる。歴史的な結果責任という意味においてもその説得力の足りない論理は言ってみれば、創造における可能性探究の道を逆行するものである。それだけではない。古典音楽という芸術作品が有する確かな現象の多くを例外に区分する考えは、実践的事実と自己判断の不適合性を打ち消そうとした取りつくろいである。また、曖昧な概念化は単なる埋め草。それは語意が示すように素材を構造特性に結びつける機能は存在せず、このような概観性や全体的な直観性が欠ける概念は事象の起こる必然性を考えた機能理論にとって適切な象徴化ではない。それに加え、近代的な機能本位の合理性を曖昧にし、大々的に現象の機能性を語るにしてはあまりにも破壊的である。しかも象徴的概念の基盤となる芸術作品の実例表示を怠る、すなわち、歴史や実践の事実に対して対応能力の備わっていない定義概念は、私たちを現実体験から引き離してしまう反文化的なナンセンスに陥っている。
 音楽芸術は本質的に歴史的である。その移り変わりの現象を離れてその本質は論述できないとされる。音楽芸術が歴史的であるということは、その和声における構成要素も人間の記憶と現実的な経験の一部をなしている。それは論理的な確実性にあらゆる概念を引き入れるものでもある。その明証を一般的な定義概念とするためには、原理的な保証を歴史的事実に求める必要がある。だからこそ、私たちの体験が現実である古典の直接的な探究を決して無視することはできないのである。よく引き合いに出す「ドイツ和声」「フランス和声」についての概念の規定は、たとえ過去におけるエクリチュールがどのようなものであれ、ドイツそしてフランス古典音楽における伝統的な和声構造を再生するために、しかも、現実的・具体的に理解可能な基本的基準を数多く見い出せるように、まず事実に基づいた特定対象の考察と分析から始まったのである。かつて西洋の和声学が、起源的な音組織となる教会旋法の排斥、際限のない借用和音論の乱用や元の対象と合致しない規則禁則の固定化、また、古典における事実検証の放棄を容認しなかったのはなぜなのか? そうした逆説的な意味において、有用な和声現象を理論に還元するための理論家の常識的なバランス感覚、確かな認識方法に依拠した客観的で合理的な基本的前提そして多義的な概念定義から学ぶところはいまなお大きい。


 理論的空間
 和声創出の世界には、その全体をつらぬきそれを成り立たせている多くの独立した「原理」がある。その歴史は特殊な領域内部の断片的・限定的概念規定から成り立つものではない。作曲家それぞれが創意工夫した実践と各技法間に生じる相互作用の結果として得られるものであり、その多数で多様な和声のあり方は、人間が自ら変化しようとする本能によって、昔からどんな時代にもどのような作品の中においてさえも見ることができる。私たちには仮に一義的に見える現象であるとしても、それは多義的な表出をもつことを前提としている。それゆえ、近い将来にはデータ・バンクが提供してくれる知識体系を活かす方法、また、その新しい認識根拠と基本的基準が必ず問題となるだろう。たとえ、そうなったところで、対象の全体像を洞察するという知的活動が不要になることはない。というのも、私たちが音楽文化社会という世界にはめ込まれ、音楽文化に参与した存在である限り、実践によって統一される思惟と存在を区別する公理的理論は成り立たず、音楽体験は本質的に両議的なものとして現れるからである。このような根源的両義性は、諸理論の解決の手前にあり、ルールの唯一論的規定によって霧散するようなものではなく、考察と分析を通じて、一つひとつ明らかにされていくにすぎない。各時代の理論書を見ると、理論の構成というものが古典音楽の和声構造を本来的実体とする一般的な説明原理に基づいたものであり、私たちの思考の概念的方向への問いかけが自然にかたちになり、そのかたちを確立していった理論であるということが判る。周知のように理論とは、人間が試行錯誤しながら身につけた実際的な知識の総合体であった。その認識方法は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ時代と共に変化発展していくものである。
 現に和声学が背負っている問題とは、前提である西洋古典音楽の和声からみれば、概念規定が不正確でしかないというパラドックスである。前提を認めるなら、そこに実在したものを肯定する必要がある。前提を認めた上で、その実在を否定することは、自分の矛盾を表明していることに等しい。もし、理論の目的が誤って導かれたままであるなら、その明確な問題解決のためには対象となる様式特性レヴェルを明確にした事実の考察と分析が必要なわけを理解することだろう。なぜなら、実体論的思考への顧慮を忘れた規定は人間が日常的に体験する概念内容を反映させることができないからである。原理的保証のない公理とルールから独立した媒介機能と理論的空間を生み出す必要がある。人間活動を認識する実体論的思考を放棄するとき、それは単なる原則主義に変貌してしまう。これが20世紀までの和声学が教える必然的な結果であった。
 現代の和声学は、よく知られているように、歴史的・実践的存在を学ぶ場である。現代の理論家に支えられた象徴化の多くは、この点に関してきわめて明確である。




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by musical-theory | 2017-03-04 14:34 | 01 - 実体論的思考 | Comments(0)
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