2017年 03月 04日
和声概念 (1) / 和声学序説:基本的前提
和声概念 (1)


 まず理論的・論理的な命題のひとつの例を示そう。
 和声学の歴史において、人間が創出する和声のことを何でも解きあかそうとして、なぜそれが可能となったのかという問いを発することが和声学の始まりだといわれる。これは、和声学とは理論的にしかも論理的に何でも明らかにして説明しようとするものである、という意味である。そのためには、私たちは「歴史的・実践的実在(大作曲家たちの創意工夫)はプログラムできないものである」という極端な言動を慎む必要がある。というのも、検証を拒否する知識には事実認識を妨げる偏った見解があるからだ。
 その例をいくつか挙げてみよう。

           J.S.バッハ _ Four-Part Chorales "バッハのコラール"
           W.A.モーツァルト _ Symphonie No.41 "ジュピター"
           ベートーヴェン _ Violin Sonata No.5 "春"
           R.シューマン _ 8 Novelletten Op.21 No.1 "ピアニストA.ヘンゼルトに献呈"
           ブラームス _ Symphonie No.4 "ブラームス交響曲の最後の曲"
           マスネ _ Meditation de Thaïs "タイスの瞑想曲" など

      これらの和声には、日本の和声テキストに示された基礎編のルールに照らし合わせてみると、正しくない進
      行と解決、演習しないほうがよいとされる規則違反・禁則・不快とされる旋律や響きが次々と現れる。その
      人間的実現行為による実践的帰結を無視した概念規定からすれば、それらは、西洋古典音楽にはもともとあ
      り得ない事象現象となってしまう。

 このような人間の実践的課題の重要性から目をそらす特殊な概念規定は、意識的に、規則禁則が古典音楽や一般的な音楽においてさえ基本的な認識基準であると見せている。つまり、虚構的テクストとしての規則禁則の地位を主観的な論述を通してだけでなく、現代の理論家たちが閉じられた構造として論じているように、一切の多様性・変化性を排除する一元化、概念の外延に関わる定義であるにもかかわらず、さして実体論的思考のないような非現実的な分析や分類を通して行なわれているのである。したがって、それは「蓋然性が高い和声の仕組」を体系的に踏査し、理論的に説明したものではない。私たちはその特殊な概念規定(規則違反であるから不快な響きであり、古典和声学では禁則となる現象)が与えていたものとは、事実からのけばけばしい逃避であることに気づいて愕然とさせられる。いったい和声学的な環境と対比して、規則主義に特有なルールとは何であろうか。
 このように考えることができよう。テキストの使用価値と範囲を離れれば、何の価値ももたない。経験する実体が存在しないなら、それらは理論として静態的であり、文化の面からも破壊的である。なぜなら、実在の直接的間接的な否定は、無邪気な誤りで済まされるものではないからである。それらを妥当性があるものとして使用・操作することは、明証化、概念化、象徴化の歪みを助長する。音楽人や教育者にとって、このような後退的規定は妥当性をもたない。
 それに加えもっと受け入れがたいのは、つまり、理論の価値は人間の思考活動によって生み出された音楽以外のものにより正当化される、という考えである。理論の価値を別の目的のための単なる道具と見ることは、理性であれ共通感覚であれ、人々の合理的な経験を封じ込め偽装の論理を再演することである。そうした規則禁則が正当化されるのは「ここは日本なのだから_というローカル・スタンダード」の限られた領域内においてであり、和声理論に関する世界的な認識基準においては様々な実践的実在を放棄した当面の便法にほかならない。実際、この検証分析を拒絶する理論と論理そして概念規定は、古典音楽との音楽的な情報伝達の知的環境を混乱させている。だが、そういう概念規定は結局、分析・実技・総合を小さくしてしまう。周知のように、私たち人間の合理的な体験が棚上げにされる限定制約という規定の選択は、実践によって具体的現実的に統一される人間の本来的な思惟と歴史的な存在とは合致していない。一義的な概念を固定化する定義はもう限界に来た。この奇異を通り越す概念規定はよく知られた意図的な事実隠しの問題にも関係している。旧態の概念硬直したルールを放置する一方で、次の世代が将来背負う理論的矛盾に眼をつぶれば、機能理論への不信はさらに高まり古典和声学を維持するのが難しくなる。だが、このようなテキストは、規則禁則の妥当性を正面から問うこともせず、また自らが事実の証明に用いている対象と認識方法を明らかにすることもなく、「和声学は限定制約に準じる以外に選択肢はない」の言説を繰り返している。それゆえ「公理によって演繹される進行およびルールを遵守していない和声構造は、すべて美的不正・理論的に誤である」と主張して、古典音楽の和声が示す活動的な変化を逃れ、何ごとも無批判に従う思考に合わせた「実在性の否定に向かわざるを得ない規則主義」に陥ってしまった。
 ルールという問題を捉える表出的認識論において、理論解説者が「歴史上の大作曲家たちはこのルールに従って曲を書いたのではない」とわざわざ注意を呼びかけているように、そうした概念的方向と視点は自明であり音楽に携わる人々の間では常識化されている。しかもルールは、古典和声(作曲・演奏・聴取活動)そのものではなく、本来的理論としての基礎的役割から外れていることを、少なくとも単純な事実の論述に還元できない概念規定であることを常に示すことになるのである。概念の内包を明確に与える定義、それは和声全体の問題を論じる場合、基本的な認識基準にほかならない。ゆえに実体とのコミュニケーションの様態だけが事実の論述と音楽文化社会を結びつけるのである。なぜなら、それはあらゆる人に共通するものに関係するからである。しかし、私たちが古典音楽の演奏や鑑賞において経験する和声の実践原理を理論の問題に対して当てはめてみるなら、つぎのような事実が分かってくる。

 「古典音楽における和声の様式特性を保全しようとする限り、そこで検証分析される実践的実在(バロック_J.S.バッハ、古典派_モーツァルト、ベートーヴェン、そしてロマン派_シューマン、ブラームス)の和声そのものはすでに限定制約というルールの支えなしに成立していたのである」。

 和声学が古典和声の様々な現象を再生するという役割は、現象の情報伝達力にある。今まで続いていた反社会的文化的欲求の原則主義の動きが止まるのは、永々と続く古典和声の恩恵を知るときである。不明確な概念から解放されない公理を基本的前提とするために実在そのものを俯瞰できなくなっている考えを、概念的に古典的な意味での和声の正しいあり方として規定することは妥当なのだろうか? その歴史的・実践的実在という実体の多くを例外視する概念化が矛盾していることは明らかである。こうした矛盾は事実をルール化する際の対象と認識基準とのセマンティカルな問題であり、理論構成の意味においても概念の象徴化においても、和声学の知識体系が和声構造の客観的実在性を枠組としているからである。
 古典和声の様式とは、人間が歴史上において獲得した実現行為であり、ノーマルな聴感覚に裏打ちされた検証を通じて人間を豊かにする経験の対象でもある。そうした対象は、理論の基本的象徴と本質的概念となるものである。理論がその認識根拠と概念規定で人間的実現行為と結ばれているのは、個々の音楽理論家の生きた分析と総合という研究があるためである。とするなら、なんらかの音現象を古典和声の構成要素と認めるためには「事実であるもの」と「事実ではないもの」を前もって区別しておく必要がある。




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by musical-theory | 2017-03-04 14:36 | 和声概念 (1) | Comments(0)
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