2017年 03月 04日
03 - 実践的実在がもつ開放性 / 和声学序説:基本的前提
03 - 象徴事実


「 実証と疑似 」


 モデル形成
 学問的知識としての和声学について述べる前に、いったい私たちはなぜそれほどまでに和声に対して深い関心を寄せるのかを考えてみたい。音楽活動上の必要性とか、音楽の歴史・文化における重要性もあるにはあるが、何よりも大きい理由は、人間の好奇心であろう。和声の世界は閉鎖的か開放的かとか、あるいは和声はどのようにして存在し始めたのかなどの疑問は、誰もが心に抱いた覚えがあるのではないだろうか。

 _和声の世界には規則や禁則があるのか。それとも自由な存在か。限定や制約があったとすれば、それはいつの時代か。また、_規則と禁則の様子はどうか。和声を構成する根源的な実体概念とは何か。そして、_和声には何か目的があるのか。公理的方法による原則_概念定義や声部書法_があるとすれば、不明確な概念定義から解放されない公理すなわち"限定進行"と"禁則"は特別の意味をもつ存在なのかどうか。これらに対して、オルガヌムの時代から約 1000年たった今世紀になってやっと、和声学の知識を駆使した実証的研究による答えが出始めたところである。一般的に言えば、和声の世界あるいは実在する和声現象という言葉には、多様性と変化性で特徴づけられた包括的で相対的な対象という意味が含意されている。現代の和声学といわれる学問分野が、ほとんど実在する事象現象の読解・観照・享受によって構成されているのは、この言葉に対する意味内容と関係しているからであろう。日本にも 20 世紀後半、西洋古典音楽の和声の様式特性に興味を示す人たちがいた。しかし彼らの手からは、検証分析の結果から抽出された歴史的・実践的実在がもつ開放性(あかるみ)は出ずじまいであった。

 私たち日本人にはその事実を確かめる歴史も実践もなかったというのだろうか?
 多くの西洋人が抱いている疑念がある。それは、「和声の世界を学ぶとき、なぜ文化社会が認める芸術作品の和声に興味をもたないのか? たとえどのような反論があろうとも、和声学をよみがえらせるためには、機能和声の規則という原則論の枠を超えて、現存在いわゆる古典音楽をも視野に収めた客観的実在を表舞台に引き出すことだ」と彼等は語る。
 歴史的な遺産である古典的規範の認識根拠とその過程を、特殊な概念_限定進行・規則違反・禁則_によって自己批判的に問うことを放棄してしまう理論の現状が、海外諸国の音楽理論とリンクできない内容で行われている矛盾を外からはっきり印象づけてくれる。彼等が私たちに語ろうとしていることは、古典の音楽が和声学のあり方に照らし合わせてどうなのかという議論ではなく、その全方位的な芸術概念そのものが、現代社会における音楽文化を通して人間の想像力に寄与しているという事実である。まさに、J.S.バッハの和声概念は 18 世紀以降 21 世紀を超えて多方面に影響を与えていく可能性を秘めたものであり、バロック的ともいわれる現代の音楽創造の分野にとっても開かれた質の高い指針となり得るもの、という思考である。
 なぜこのようなことを述べたかというと、和声学は形骸化した規則禁則に代わり、客観的実在性を肯定する複数のあり方と、それらが並立した諸構造特性を肯定し容認することで、理論としての内的構成をより強固にしていくからである。その瞬間、確かに公理的理論は論理的安定性を失ったかのように見えるが、それは現代に生きる私たちに課せられた解決すべき命題となり、和声理論の構築に必要な「新しい時代の事実に即した内容豊富なモデル構成」として浮上する。古来、理論家が和声を論述するには「論議の出発点」となる検証対象を得るために、芸術作品の考察と分析は「必要条件」となったのは自明なことで語るまでもない。中世の理論家「ボエティウス Boethius/De institu-tione musica 音楽教程/Book one」_理論構成の前提条件、「カシオドロス Cassiodorus/Institution-es」における_音程論と和声システム、そして「グラレアーヌス H.Glareanus/Dodecachordon 12 弦論 1547」_理論のあり方の論及以来、現代にいたる諸研究は、それにもとづいた明証性をともなう変容と再生の歴史であった。彼等は音楽理論についてこれを合理性と両義性を確保するための「よきパートナー」と考えていた。その考えによれば、古典の分析は和声学の主要な教程・課程として位置づけられ、音楽理論を中心とする教育にとって欠くことのできない教科である。また、実際と定義とを分断してそれぞれを領域化するのではなく、歴史および文化的な意味をもって理論構成に加わるものとなる。
 とはいえ、人間が享有する自然な和声感覚を2分化し、方法論的に一方を排除してしまう前提、また現実体験から得られる概念に対して、直接的な関係性や柔軟な役割構造をもたない観念的な規則、そして例外区分を隠れみのにした理論の立場からは、古典和声の洗練された感覚と優れた技法の説明はできない。公理論の問題が古典音楽の認識論全体の一部でしかないのは事実であるが、音楽文化や創造的人間が歴史上に残した実践的存在とその共通感覚が把握できる解決策を見い出せる概念化なしには、和声認識論の将来を語ることも難しい。この深刻な問題は、理論とその演習をめぐる問題というよりも、いまや和声学基礎論のモデル形成すなわち実践的課題それ自体が問われはじめ、類としての和声学全体と関わるようになっている。


 基礎資料
 特定対象の検証において、たとえば「規則認識に準じた対象」と「準じていない対象」とを比較した場合、そこには美的感覚の主観性と客観性、快・不快の受容基準などの限界を確定できないため、一概にどれが正しいか、どちらが誤りかを決めることはできない問題がある。つまり、どのような創出のあり方にも、一つのあり方に「適うもの」と「適わないもの」とがつねに存在し、しかも、この両方を含む多様な構造を表出する相対的な平衡感覚が求められているからである。もし、そのような実証的精神によって裏づけされた理論的な観点から現実的な和声を論述しようとするなら、ある特定様式の多様を提示するだけで、事実に適応した理論展開は可能なのである。なぜなら、歴史上のどのような様式も、先行した時代が遺した伝統的な諸原理の上に未来を創造して行く存在であり、その理論は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ、時代と共に変化発展していくものであったからである。
 和声の概念とは、歴史的概念である。しかも文化的概念である。とはいえ、現在と過去を未来につなげる構造認識を見失った和声学の行き詰まりは、文化社会にとって重要な教育領域を舞台に、ついにその有効性の問題にまで発展したのである。なぜ理論的矛盾の問題は改善されないのか? 和声学が理論的基軸とする定義概念についてのコペルニクス的転換は遠い昔のことではない、と言っても言い過ぎではないだろう。これまでの検証と概念の論述で明らかなように、芸術作品には旧態の機能理論が説明していない歴とした和声領域があることは証明されている。それらは西洋古典和声の様式的統一を通じて、優れた音楽性が要求する人間の合理性と自由な発想の_「開かれた実証モデル(多様性・変化性)」_となり、教育や文化活動における基本的基準となるものであり、社会的な関心のもとに開示される知識体系であって、どんな理由があるとしても例外視扱いされるものではない。なぜなら、人間の真の想像力は人間の歴史や実践の中に生き続けているからである。とすれば、私たちの経験的実在すなわち和声の世界に展開された実践は、実証的研究のための的確な基礎資料となる。
 普通の感覚をもった一般人が尋ねたくなるのは、確実な認識方法である芸術作品と向き合う体験が無視され、そればかりか、人間の実現行為には無関心で空転する_「閉じられた疑似モデル(限定制約による声部書法)」_だけがなぜ必要とされてきたのか、ということである。和声モデルは実践的事実をどこまで伝えられたかである。それが私たちの思考の概念的方向であり、その美的方向に従うことがまさに事象に対する概念の適用である。しかし、いま私たちが生きている文化社会の現実をラジカルに見据えなければ、和声学の理論構成は空論に終わる。とすれば、和声学がそれは旧態の規則禁則という規格以外の概念を提供しないということには決してならないのである。古来、音楽芸術とのコミュニケーション的行為を求める理論家は「音楽文化にとって古典音楽は例外視できない現実であり、和声学は美的対象も規則主義者たちが自己テーマとした唯一性の概念にだけ求められるものではないと主張し、またルールづくりに対する規則主義者の満足度がどれほど高くても知る機会を奪う合理的な理由にはならないと、そして対象の事実に基づく考察と分析こそが歴史の審判に堪えることができる」と指摘している。そのわけを説明しよう。


 不可欠条件
 事実の実証的研究での画期的な発展の根底にある人間の思惟・選択・実践を正しいとすれば、和声概念はただ一方向の属性に収縮するのでなく、むしろ和声の世界の基本的な特徴は常時進化していると考えられる。とすると、西洋古典音楽の様々な和声は一元的な概念と構造状態を意味せず、和声の世界は限定制約をのり超えた開放的な構造として再生成されると考えられる。かつては唯一性の概念による限定的和声像の固定化が流行していた。だが、和声の世界はその開放的循環を将来も繰り返し、和声の世界の一元化は限定進行および禁則の妥当性を主張するための便法としか看做さないという考え方が一般的になってきた。古典音楽すべての考察分析は不可能としても、 20 世紀後半に進展した「開かれた実証モデル」が、人間の想像した和声の世界が開放的な概念と構造を有したものであることを教えてくれる。和声の世界のなかの概念と構造を限定制約によって均一化してしまうと、概して和声の世界は一元的な構造で成り立っていると考えることもできる。この場合、「歴史的・実践的実在」を対象とする実在和声には、相対的特質に対応した解はあるが、「閉じられた限定進行や禁則をなぞるだけの声部書法」を対象とする疑似和声に対応する解はない。言い換えると、均質状態の和声の世界は存在しないということで、限定論はこのために自明なものではありえない「公理」をつくりあげて均質状態を仮定した。しかし、その後、和声の世界の非均質性が確認されたことから、この公理の存在理由もなくなってしまい、均一的な和声モデルを真面目に検証分析する必要はなくなったのである。
 ところで、検証分析は「なぜ」に対する答えと考えてよいであろう。ということは、ものごとの原因・理由あるいはそのものごとに起こっている構造などを明らかにすることを検証分析と見なすことは、一応の妥当性を認めることができるからである。そして、このようなかたちでの検証分析が、和声理論の領域で問題になるのは、説明がどのような論理的構造をもっているかという点においてであり、その際に対象となるのは、広い意味での実証的研究による説明であると考えるのは、理論界の一般的傾向である。
 古典音楽の特定領域における「西洋18〜19 世紀_バロック・古典派・ロマン派和声の検証分析データ」が示すように、また、時代を遡ればその起源となるオルガヌム考察を出発点にした「著者不詳/Musica enchiriadis 音楽教本」および「Musica enchiriadis の注釈書_複合音程構造(シンフォニー)について/訳 O.Strunk 」の解説が示すように、生きた創出概念を対象にする事実探究のなかに未来のヒントが隠されているのである。和声学が本来目的とする事象の考察意義はこの点にかかっている。「重要なのはどんな影響や感動をあたえられるのか、そこから事実を学び対象に対する自らの認識の発展を確かめたいと思う人のためかどうかであろう」。従来の規則禁則で考えられることは限られている。というのも、こういう仮象を対象にした認識基準には実践的事実の検証的ネットワークがないため、その理論は限定制約の世界に閉じこもるしか道はなくなるからだ。現に「価値ある独創的な概念と構造」の現実は、経験的実在の考察と分析を怠ったルールが壁となって、事実のままに具現化されることはない。
 事実の再生可能な検証と再検証によって保証される和声分析において、単なる唯一論的な概念規定で個々の対象が結びつく時代はもう終わったのだ。現実的に理解可能な現象を証明できない理論構成になれば、その理論構成は共に形而上学的仮定にいたるが、人間の意志に固有の自由を認めない概念規定は論理的自明さと表裏一体の空虚さを伴っている。和声理論の将来は完全に予測し得ないという点で、少なくも事象の実際的な認識論を必要不可欠の条件とする。私たちの時代は知識の体系的構造に関わる考察と分析状況の不十分さを指摘している。旧態の理論が前提として掲げる認識基準が、なぜ歴史的な文化において証人となる_記憶システム=古典和声の実体概念_にあらわれる「開放的象徴事実」を説明できないのか、という普通の議論をしている。したがって、その基準は、認識上の深刻な空白を埋め尽くそうとするものではない。いずれにしても、もし公理あるいは規則禁則を遵守した演習があるとしても、事象の実際的な認識論を必要不可欠の条件とする和声理論はまだできていないことは確かである。




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by musical-theory | 2017-03-04 14:32 | 03 - 象徴事実 | Comments(0)
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