カテゴリ:古典和声の検証分析 ① **( 1 )
2017年 03月 04日
古典和声の検証分析 ① / 和声学序説:基本的前提
古典和声の検証分析 ①

実際に機能している基本現象


 情報の最前線
 いまや和声学は情報化を組み入れている時代である。理論家も、理論解説者も、そして学習者の誰もが濃密な情報社会の恩恵を受けている。事実、そういう社会状況の新しい変化によって、おびただしい和声の分析資料を把握することが可能な環境にある。その意味で、もし和声という響きの世界に、ひとつの現象だけを正しいとして、すなわち、限定的な規定によって正誤判断するという、限定性を凍結した前提条件が本当にあることを信じ、これに様々な願望や期待を寄せることによって、人間の思考や選択のあり方を排除することは妥当であるとするなら、話はまったくおかしいことになる。つまり私たちは過去と現在だけでなく、未来の和声についても知り尽くせることになるからである。過去の人間の文化創造における思惟・存在・実践が極端に断片化され、機能不全に陥った限定性凍結の概念は、理論的構築性に疑問符をつける不条理と矛盾があることを意味している。
 理論の構築において、最終的には「人間という実践的存在は必要としない」あるいは「新たな選択的叙述は例外視される」という歴史の動きを否定する時代が来るのかも知れない。しかし、いま私たちは歴史という大きな流れの中に立っている、ということは、それは過去のあらゆる人間たちにとっても同じであったように、まさに私たちは現実を乗り越え歴史を創造していく存在である。創造とは新しい実践を生み出すことであり、創造性とはそうした能力または性質をいうのである。人間的能動性、合理性、自律性によって具体化された多様で多数の創造性は、どんな時代になったとしても人間社会の学問という分野において生き続けるであろう。体系的に組織化された理論そのものが、音楽創造における自由とは何か、自我の創造性をも許せる自由とは何かを示す縮図である。
 もっとも慎みのない振る舞いは、聴くことも、また検証もせず、「そこから先は立ち入り禁止にしよう」という止まることのない論理を和声学における概念認識の形成過程に取り込むことである。今まで私たちは古典和声に関する知識を得るために、ルールがもつ定義概念の必要条件なるものについて多くの考察から検討を加えてきた。そのさまざまな象徴化において、理論家は明晰な理解者としてつねに一連の論理的言説の頂点に立つ者であった。では理論家というものは、自分自身を象徴化における最終決定者とでも考えているのだろうか? いや、そのような考えはもっていないだろう。
 なぜなら、有能な理論家には、象徴化は何らかの運命的な超越的思弁に決定の根拠をゆだねるような認識根拠ではなく、選択に関わるメタ・コミュニケーションによって支えられるものであり、その過程を放棄すれば現実に体験している世界からは逸脱し、選択のリスク_人間の思考や古典和声の世界のうちに現存する「選ばれなかった可能性」を暴力的に切り捨てる行為を冒すことになる_という「倫理的自覚」があるからである。
 この意味において、限定制約にかかわる選択された概念規定の結果がどのようなものであれ、理論家は神学的な考えによる思弁や過去の観念的な認識方法に責任を転嫁することはできないのであり、理論家自身が全身で「概念認識の形成過程」のために、「実際に機能している基本和声現象」の検証分析を引き受ける必要がある。一般的には、日常体験、諸科学において用いられる対象の表出すなわち現象・事象の事実を、明確に与えることを定義と呼ぶ。そのように現象・事象の事実を規定しようという場合には、概念のもつ特性を、できるだけ熟知された対象全体を考察しその検証データをリスティングすることがしばしば行われる。検証データというのは、コンテキストのなかで言葉の代わりに用いても、対象全体の意味に変化が起こらないような認識基準と考えれば、直接、譜例提示で置き換えるという作業は一種の定義と言える。


 分析結果
 和声学の言語や符号で述べられた論述の基盤となる与件、つまり「定義の出発点」とはいったい何処に位置するのであろうか? ここで私たちは、「西洋 18 世紀の音楽文化において創出された現実的な和声の構造特性」と「それを象徴化したといわれていた限局的な概念規定」とを比較しながら検証することにしよう。


導音進行の実在検証

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           検証分析                            原則
                                           
 
        導音進行は6種ある                      導音は限定進行音

  
     1)長3度下行            →             × 規則違反  「誤」

     2)短2度上行            →             ◯ 規則    「正」

     3)完全・減4度上行         →             × 規則違反  「誤」
                              
     4)長2度下行            →             × 規則違反  「誤」  
                            
     5)長2度上行            →             × 規則違反  「誤」 
                             
     6)増1度下行            →             × 規則違反  「誤」
 
     * 導音重複             →             × 禁則    「誤」

                                           

 J.S.バッハ以降、伝統的な機能性を肯定して継承した作曲家      原則だけを「正」として他を[誤」と判断した作曲家

                                           

     ヴィヴァルディ、
     ヘンデル、
          
     ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、
 
     シューベルト、ショパン、                        存在しない 
     シューマン、ブラームス、
                 
     フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラベル、

     エルガー、ディーリアス、ヴォーン・ウィリアムス

     ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、ショスタコヴィチ
     プロコフィエフ
     バルトーク、コダーイ

     グロフェ、コープランド、バーバー    
                                                                                               
     (リアル・ハーモニー)                     (ペーパー・ハーモニー) 
      
                                          

     [ 導音進行の客観的実在性 ]                 限定進行の証明可能な判断基準が不明確。
                                  この規定には実在的な現象の現実性と効用性の概念
                                  が欠落している。

                                             
                                          

     [ 古典和声の再生可能な概念 ]                西洋古典楽曲に関する和声分析の範囲は対象が限ら
                                  れ、その諸現象と概念定義を密接に連関させること
                                  ができないのは明らかである。

                 

     [ 実在の検証分析によって導音進行の事象(事実)は
                  多様で変化ある現象(姿)として捉えられる ] 

                              

理論体系の基層的本質

 導音に関する分析において、私たちは導音に関する何らかの実践的関心を満たすために知ろうとするのである。つまり、知ろうとする導音の性質が、特定様式において私たちにどのように働きかけてくるのかを考察しようとする。現代の理論家は、この、導音の私たちにみせてくれる古典の実践的事実という和声のあり方が、私たちの思考の概念的方向であり、その方向に従い認識することがまさに事象に対する概念の適用である、と考えている。
 上記、右側_「局所的単一現象という捉え方を意図した原則から帰結する導音進行の正誤判断」は、左側_「経験的存在としての実在和声における導音進行の概念的本質」とは明らかに矛盾している。それは私たちの音楽思考が指し示す合理的な概念的方向や対象全体を再生させようとする和声現象としての自律的概念ではない、それゆえ、導音の検証と分析においてそのひとつの進行だけを切り離し正誤判断したところで、導音進行の性質を説明したことにはならない。たとえそうした性質に適応能力のない人間によってそのほとんどが規則違反とされたにせよ、実在する導音進行の現象には人間的能動性と音楽的事象の実践を明らかにできる確かな内容が多く含まれており、それらは導音に関する「和声学基礎論」の概念定義の重要な未来的・創造的・生産的な次元を構成するものなのである。


 本来的機能
 和声の世界における諸現象の歴史的・実践的事実をいくつか示してみよう。


   例 1.
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   例 2.
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   例 3.
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   例 4. 
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 導音進行(↑)(↓)の例は、バロック・古典派の多くの作曲家によって統一された確かな実践の例である。J.S.バッハが前時代の段落・終止和声における導音進行の概念と実践的存在の影響下に発展させたのは、まさに音楽的な意味作用のもつ導音進行のより一層の多元的な面に他ならない。音楽的な実践が意味をもつのは、それが他の音楽的な実践と関わりをもつことによってそれが存在することを期待させるからである。その意味において、直示的定義(譜例提示)によるすべての各概念は、現代の和声学的な導音進行の概念となっている。とはいえ、真に本質的な概念定義と規定(自己同一性=導音進行は限定されない)が登場するためには、理論家による最近の実証的分析データを待つ必要があった。


   例 5.       
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   例 6.
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   例 7.
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   例 8.
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   例 9.
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 導音重複_J.S. バッハ - 例2、モーツァルト - 例5、ベートーヴェン - 例9_の現象は、人間が生み出した多くの思考システムと同様に古典和声の実体概念であり、歴史に由来する根元的本質である。事実によって証明する認識方法によれば、第3音重複,さらに第7音重複(後述)は、本来、他の和音構成音重複と等価値のものである。これらの重複の特質は、言葉によって説明するまでもなく、バロック・古典派和声様式におけるありふれた(恒常的・本質的) 表出であり、とくに古典派和声のなかに頻繁に現れるものの、先行和音および後続和音の内容によってその形態は変化する。


   例 10.
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   例 11.
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 並進行(連続) 5・8 度(↑)(↓)の実践は,和声表出におけるれっきとした人間の思惟活動である。古典音楽の和声には「連続の存在する和声」と「連続の存在しない和声」が共存する。こうした事実の考察分析に基づく認識は規則禁則への一切の志向を斥け,私たちのさまざまな思考的状況と常に相対的である普遍妥当性をもたらす自然な知識を提供してくれる。そして古典和声のもつこの相対的特質は、和声の論述に厳密に還元し得る「並進行(連続)5・8度」を現実的に理解可能な一般原理である,ということを「人間の聴感覚がもっている正当な基本的基準」として認めているのである( 和声 1 / 再検証_http://practicus.exblog.jp/ )。


   例 12.
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 譜例に表出されたこの交響曲を支える和声的な事象現象は、第1楽章全体にわたって繰り返し取り扱われる。柔らかで、さわやかで悠長に明るく進んでいく。説明するまでもなく、こうした特徴は第2楽章においても何の奇もなく穏やかに展開される。


    例 13.
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 定義の出発点
 概念とは、特定対象と他の多くの対象との類似性を指摘するものであって、概念による認識は諸現象を集めて事象全体を再生させようとするものにほかならない。それにもかかわらず、旧態の古典和声学の概念と定義は、たとえば「導音進行は主音への進行以外はすべて誤り」としてそのありふれた実在性を否定する。それは概念規定にもたらされた疎ましいほどの理論と論理の固定化である。しかし、対象の広範な検証を行ってみると、たとえば_ 2) 導音進行は主音へ_を一集合にまとめてつられた疑似和声のモデルのような特別の概念は存在しない。したがって、導音化の概念定義のための論理の展開において、また、中世・ルネッサンス和声において導音の生成過程での思惟的動機としての導音は主音への認識、そして、ある特定作曲家の実践において導音を主音へ進行める現象が多く認められるにしても、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートヴェンの和声を枠組とする和声学であるならば、上に挙げた実例とその歴史的経過からも判るように、「導音は限定進行音」というルールは和声学的な実体論的思考を逸脱した認識基準であり、その結果、普遍妥当性を欠いた概念規定となるのは明らかである。導音進行の性質は、被定義概念_写真撮影であるなら被写体_となる「元の対象」の考察・分析を介してはじめて事実確認ができる。
 つまりそうすることは、導音と第7音の進行および重複、並進行(連続)と第3音重複の命題について、人間が陥りやすい矮小化された先入観、さらには事実を受け入れることを拒否する偏見、そして真偽の根拠を先へ延ばそうとするか、または断念するかなどの心理状態に対しての「自由化」といえよう。


機能論的思考につながる実体論的思考


 古典音楽を枠組とする対象の検証において、和声の認識・選択基準となる導音進行の実体は、従来の概念規定(規則禁則)によって陥りやすい固定観念をはるかに超えたものであり、音楽人が共有する知識あるいは常にもつ必要のある共通感覚となる。しかも、その射程、柔軟性、理論史、人間のさまざまな思惟・聴覚的状況と絶えず相対的である事実の実証的研究を踏まえてみても、根源的な原理を十分に捉えそれを常識化する。今日、それは現代の統計的手法によっても検証され、すでに事実の現実性と効用性とを確保する理論の基本概念となっている。
 ところで、調構造とは、事象実質のなに刻み込まれた特性やその組み合わせの全体であるばかりでなく、様々な表出によって感受される諸現象の全体であり、調的とされた和声様式に見られる和音および音進行の全体である。多元的な導音進行という恒常的・本質的現象は、古典音楽における調構造がそれなしには考えられない性質つまり属性である。とすれば、多様な導音的機能性の構造認識は、理論の骨格である 18 世紀古典音楽_バロック・古典派和声様式の調に関する象徴化において重要な命題となる。このことは、調和声に関して Ch.ケックランが行った説明のなかにはっきりと含まれている。というのも、調和声は、孤立した導音の限定進行に還元されてしまうものとはみなされておらず、むしろ、動的に、必然的に、両議的、多義的導音進行と導音重複の機能的背景のなかに位置づけられており、それによって形作られているからである。この調構造こそ、古典的次元を必ず含むものなのである。
 理論とは、あくまで文化社会が認める歴史的・実践的存在の中に創出された構造特性を対象とした概念規定によって構成されるものである。しかし、現実には存在しない、ルールという唯一性の概念をあたかも存在するかのように理論のあらゆる面で適用する極端な非論理的言説は、伝統的な西洋音楽文化と理論の歴史に対する否定であり、少なくとも現実の意味ある体験を全く包含できないことによって妥当性をなくしている。たとえ、倍音共鳴論の本質的な論述さえもなく、そういった概念規定を基準にした西洋古典音楽の分析から新しい理論が生まれることはない。それは経験的実在を顧慮しない単なるアプリオリな認識論の産物であり、それ自体がさらなる誤解を引き起こすものでしかないため、概念の内包を明確に与えるより根源的定義の出発点に戻る必要があるからだ。
 現代の和声学の「理論構築」のなかで、実在の概念的本質の検証が占める位置は、もっとも基本的な出発点というよりは、その出発点である公理定理あるいは概念定義の妥当性を確かめる手段ということになる。理論を構成する場合でも、和声の検証は、古典和声の実体概念の本質的規定と古典的事象あるいは現象との間に、関係があるはずという構造認識が前提であり、それがあってはじめてその検証が組み立てられ実行に移されるのである。当然のことながら、基本的前提とされる構造認識が明らかにされなければ、どんな検証を行なうかの見当さえつかない。旧態の「声部の書法」における「原則」が、多少の幅はあるにしても狭い領域に生きることしかできず、したがって現に規定された範囲内に閉じ込められ、画期的発展を遂げられなかったことを考えると、私たちは、実在論に基づかないそこには過去も未来もない和声学基礎論の無意味さを、充分に知ることができる。
 和声学基礎論の価値基準は、それが包括し得る全対象の客観的実在性の有無と範囲の大小による。現代の和声学は現象の生起という事実は様々な調構造様式に関係していること、それが統一的全体に共に属していること、を明らかにすることにより、その実体論的思考に基づいた多様な考え方を理論の正面に据えたといえる。普遍的な概念規定が古典音楽の和声を離れて、存在している、ということは考え難い。他方、ある概念規定を示されたときにそれが普遍であるか否かを見分けるための価値基準は私たちに存在しているといえよう。つまり普遍とは、創造されるものであり、普遍を創造する未来は私たちにはまだ壮大な可能性として開かれているのである。




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by musical-theory | 2017-03-04 14:35 | 古典和声の検証分析 ① ** | Comments(0)