2018年 01月 24日
和声学序説
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# by musical-theory | 2018-01-24 12:55 | 和声学序説
2018年 01月 24日
基本的前提
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 定義概念のレヴェル
 情報化社会の到来によって、音楽文化はあらゆる方面に開かれた多元性を示すようになった。というのも、いまはすでに音楽文化の重要な領域が慣例に従順な領域ではなく、意識的選択の領域へと転化したからである。そのことから音楽文化を支える教育は、シラバスの根本的な課題について検討し直し、このような時代の教育理念はいかにあればよいのかについて吟味することが必要になったのである。だが、和声学は、現代においても新方式といって一見近代化されたようであったが、何も変わっていない古典和声の実体を愚弄するような呪術によって操作され、ごく標準的な教育を受けてきた人間であるなら、また創造活動の目的が文化を利することであるを理解している大人なら、未来に夢をもって若者を前にしてこのような矛盾の多い論理を振りかざすことはしないだろう。これは見逃すことのできないもっとも残念な時代逆行のひとつである。
 こうしてみてくると、現代の実証主義的立場を貫く理論家たちが、規則禁則という概念規定による和声学の原則構築を、一種の、有害無益な原則のために作られた原則とみなしたのもまったく的外れだとはいえなくなってくる。実証主義によれば、原則の論議や解体の試みもない旧態的な 「和声 理論と実習」には理念の弱体化が生じていたといえる。表出の規則禁則化は稚拙な連結の評価効率をもたらしているが、現実を学び歴史を乗り越えていった作曲家たちの言葉に倣って、和声表出がルール遊びではなく多様性・変化性の概念には重要な役割があるのだ、ということを指摘しておきたい。音楽芸術は実践的存在である人間に与えられた創造的・想像力を示す顕著な実例であり、その「力」を生み出す源泉でもある。とすれば、和声学における旧態原則がもつ定義概念が、いったいどのレヴェルに位置するのかについて考えてみることにしよう。


 根源的現象の事実
 まず、和声学における理論が、対象を概念的に規定する規則禁則をあえて言うとしたら、そういった言説は特殊な認識方法によって構成される機能理論やテキストには通用するが、あくまでも概念の適用領域が部分的に限定されたものでしかないことを、また、事実の考察に基づいた現象間の確かな検証による洞察がないために、唯一性という視点的性格からして現実とは著しくかけ離れた説明的思惟は、疑問視されるか、廃棄される時代になったということを知っておく必要がある。さらには、西洋音楽に永々と受け継がれている構造特性の定義にとって「象徴的概念の本来的特性」の証左となるものではなかった。ましてや科学的な思想として和声音楽の研究を支援できるものでもなかったのである。少なくとも理論基盤が旧態の規則禁則を絶対条件にする間はそうである。和声の概念に関する規定でありながら、事実考察が「思考の概念的方向」と「現象の現実的な法則」を見い出すことができないのであれば、矛盾した排他的理論の類いとみなされるのが普通なのだ。むろんこれでは「西洋 18 世紀音楽における古典和声の規則性を信じろ」と言うのは無理であろう。
 つぎに、規則主義者が言明しているように「和声学は創造的な存在つまり “芸術“ とは何ら関係ない」 が本当だとすると、概念定義と演習の例題も含め、規則を基本的基準として示される様式は「フランス和声」でも「ドイツ和声」でもないのは明らかである。和声の世界のすべての存在は、このフランス・ドイツ和声に由来する存在構造と、検証可能な別の由来をもつ資料との合成体と考えられている。このばあい、資料となり得るものといえば「芸術作品」以外にない。つまり、創造的な存在論の地平においては、芸術作品はもはや自ら一般原理を内蔵し構造化されたもなのである。したがって芸術には存在することのない様式、その存在構造と結びつかない様式、それは非存在的なものでしかないのである。この非存在的なものが、矛盾した排他的理論と見なされていたということは、すでにふれた。だが、果たして_和声 Wikipedia_に掲載されているテキストはこの根本的な様式矛盾を克服したのであろうか。
 現代人はそうは見ない。現代人にとってそうした様式は、規則の様式であっても、その存在論的な基本的様式ではないのである。当然、特定対象の象徴化を放棄した自己定義は、本来的実体性をもった理論形成の過程は説明することができない。根源的現象が保持されている事実と、根源の存在が忘れ去られる観念との区別に関してきわめて問題であるばかりでなく、そういう仮の現象をもって証明しようとする認識方法は、規則によって一貫して規定され、実証的基礎論の研究からもっとも遠いものであり、音楽理論であれ、機能理論であれ、現存在認識の規範意識を統合するような世界像を構築する可能性はまったく存在しないことになる。これが日本の学習者たちの和声学に関わる総合的知性の到達点なのである。_この失敗の原因は何か。


 基礎論システム
 実のところ従来的な規則論においては、現象の多元性を謳歌する動向が、唯一・形式性の概念規定に一元化され、理論は実践に奉仕しているという従属関係は背後に退いて見えなくなっている。この一切の現実性・変化性を取り除いてしまう先験的な認識方法を疑うことがなかったために、我が国の和声学は実践的事実と暗黙の規則禁則との間にある大きな距離に気がつかなかった。また、知識としての成立する理論と論理がその安定性を維持するには、実際とは食い違う矛盾した定義概念の悪循環を検討する「論議」を「課題」として背負う必要があること、このことの重要性を見落としたのである。そうであれば、古典との「確かな関係」を期待している人々に向かって、有無を言わせない「きまり」があるというきめつけは批判されても仕方がないのである。とはいえ、実践的伝統性は現代において活かされるものであって、思弁や弁明によって見方が変わリ、その結果、相対的な観点を取り入れられることもなく、一般的実在・経験的実在への接触がことごとく阻止され、理論と演習が、事実の単純な考察に厳密に還元し得ないルールの遵守と適用だけで終わってしまう_お祭り騒ぎの奇妙な和声学は日本の音楽大学にいまもって存在しているという。
 私たちには、文化の最奥、新しい情報、未知の概念に誰もが近づける自由がある。その場合、事象の現実に対して実践的関心をもてばそれ相応の段階的な努力が求められる。いうまでもなく、「基本的前提」として_こういった開かれたプロセスに応える「基礎論システム」をもつことが和声学の眼目となる。






# by musical-theory | 2018-01-24 12:53 |   基本的前提