人気ブログランキング |
2019年 01月 24日
基礎論の体系_和声学の眼目

c0070638_00225159.gif
* highlight _ Google sites


 情報化社会の到来によって、音楽文化はあらゆる方面に開かれた多元性を示すようになった。というのも、いまはすでに音楽文化の重要な領域が慣例に従順な領域ではなく、意識的選択の領域へと転化したからである。そのことから音楽文化を支える教育は、シラバスの根本的な課題について検討し直し、このような時代の教育理念はいかにあればよいのかについて吟味することが必要になったのである。だが、和声学は、現代においても新方式といって一見近代化されたようであったが、何も変わっていない古典和声の実体を愚弄するような呪術によって操作され、ごく標準的な教育を受けてきた人間であるなら、また創造活動の目的が文化を利することであるを理解している大人なら、未来に夢をもって若者を前にしてこのような矛盾の多い論理を振りかざすことはしないだろう。これは見逃すことのできないもっとも残念な時代逆行のひとつである。
 こうしてみてくると、現代の実証主義的立場を貫く理論家たちが、規則禁則という概念規定による和声学の原則構築を、一種の、有害無益な原則のために作られた原則とみなしたのもまったく的外れだとはいえなくなってくる。実証主義によれば、原則の論議や解体の試みもない旧態的な 「和声 理論と実習」には理念の弱体化が生じていたといえる。表出の規則禁則化は稚拙な連結の評価効率をもたらしているが、現実を学び歴史を乗り越えていった作曲家たちの言葉に倣って、和声表出がルール遊びではなく多様性・変化性の概念には重要な役割があるのだ、ということを指摘しておきたい。音楽芸術は実践的存在である人間に与えられた創造的・想像力を示す顕著な実例であり、その「力」を生み出す源泉でもある。とすれば、和声学における旧態原則がもつ定義概念が、いったいどのレヴェルに位置するのかについて考えてみることにしよう。
 まず、和声学における理論が、対象を概念的に規定する規則禁則をあえて言うとしたら、そういった言説は特殊な認識方法によって構成される機能理論やテキストには通用するが、あくまでも概念の適用領域が部分的に限定されたものでしかないことを、また、事実の考察に基づいた現象間の確かな検証による洞察がないために、唯一性という視点的性格からして現実とは著しくかけ離れた説明的思惟は、疑問視されるか、廃棄される時代になったということを知っておく必要がある。さらには、西洋音楽に永々と受け継がれている構造特性の定義にとって「象徴的概念の本来的特性」の証左となるものではなかった。ましてや科学的な思想として和声音楽の研究を支援できるものでもなかったのである。少なくとも理論基盤が旧態の規則禁則を絶対条件にする間はそうである。和声の概念に関する規定でありながら、事実考察が「思考の概念的方向」と「現象の現実的な法則」を見い出すことができないのであれば、矛盾した排他的理論の類いとみなされるのが普通なのだ。むろんこれでは「西洋 18 世紀音楽における古典和声の規則性を信じろ」と言うのは無理であろう。

c0070638_22010949.gif
* highlight _ Google cashe


 つぎに、規則主義者が言明しているように「和声学は創造的な存在つまり “芸術“ とは何ら関係ない」 が本当だとすると、概念定義と演習の例題も含め、規則を基本的基準として示される様式は「フランス和声」でも「ドイツ和声」でもないのは明らかである。和声の世界のすべての存在は、このフランス・ドイツ和声に由来する存在構造と、検証可能な別の由来をもつ資料との合成体と考えられている。このばあい、資料となり得るものといえば「芸術作品」以外にない。つまり、創造的な存在論の地平においては、芸術作品はもはや自ら一般原理を内蔵し構造化されたもなのである。したがって芸術には存在することのない様式、その存在構造と結びつかない様式、それは非存在的なものでしかないのである。この非存在的なものが、矛盾した排他的理論と見なされていたということは、すでにふれた。だが、果たして_和声 Wikipedia_に掲載されているテキストはこの根本的な様式矛盾を克服したのであろうか。
 現代人はそうは見ない。現代人にとってそうした様式は、規則の様式であっても、その存在論的な基本的様式ではないのである。当然、特定対象の象徴化を放棄した自己定義は、本来的実体性をもった理論形成の過程は説明することができない。根源的現象が保持されている事実と、根源の存在が忘れ去られる観念との区別に関してきわめて問題であるばかりでなく、そういう仮の現象をもって証明しようとする認識方法は、規則によって一貫して規定され、実証的基礎論の研究からもっとも遠いものであり、音楽理論であれ、機能理論であれ、現存在認識の規範意識を統合するような世界像を構築する可能性はまったく存在しないことになる。これが日本の学習者たちの和声学に関わる総合的知性の到達点なのである。_この失敗の原因は何か。
 実のところ従来的な規則論においては、現象の多元性を謳歌する動向が、唯一・形式性の概念規定に一元化され、理論は実践に奉仕しているという従属関係は背後に退いて見えなくなっている。この一切の現実性・変化性を取り除いてしまう先験的な認識方法を疑うことがなかったために、我が国の和声学は実践的事実と暗黙の規則禁則との間にある大きな距離に気がつかなかった。また、知識としての成立する理論と論理がその安定性を維持するには、実際とは食い違う矛盾した定義概念の悪循環を検討する「論議」を「課題」として背負う必要があること、このことの重要性を見落としたのである。そうであれば、古典との「確かな関係」を期待している人々に向かって、有無を言わせない「きまり」があるというきめつけは批判されても仕方がないのである。とはいえ、実践的伝統性は現代において活かされるものであって、思弁や弁明によって見方が変わリ、その結果、相対的な観点を取り入れられることもなく、一般的実在・経験的実在への接触がことごとく阻止され、理論と演習が、事実の単純な考察に厳密に還元し得ないルールの遵守と適用だけで終わってしまう_お祭り騒ぎの奇妙な和声学は日本の音楽大学にいまもって存在しているという。
 私たちには、文化の最奥、新しい情報、未知の概念に誰もが近づける自由がある。その場合、事象の現実に対して実践的関心をもてばそれ相応の段階的な努力が求められる。いうまでもなく、「基本的前提」として_こういった開かれたプロセスに応える「基礎論システム」をもつことが和声学の眼目となる。






# by musical-theory | 2019-01-24 12:58 |   基礎論の体系_和声学の眼目
2019年 01月 24日
和声学序説:基本的前提


c0070638_11410238.gif

* Summary _ Google cashe


 和声学の基本的前提を考えてみよう。和声の事象現象は静止している。その構造は均一である。これが成立しないことは現代では明らかである。和声は静止して均一どころか非均一的であり、しかもその非均一性は実証研究によって検証され、今日「実在検証の一般原理」として知られるようになったからである。
 基本的な現象が、実在検証の一般原理によるものだとすれば、対象が多くなるほど和声としての連続進行は実在密度が高く、その実在密度に準じた割合で、古典音楽に現われるその進行の性質が増加する傾向にシフトする(発展する)から、和声学ではこれを「性質の多様化」という。多様化の検証については「和声学:旋法和声および調和声、続いてロマン派の和声」の章で説明するが、連続進行の定義がそれにともなって明確になっていく。定義の明証性(直接的な確実性)は検証領域の広さに比例するからである。
 そうした明証性を拡張するためには、その原理的な保証を、規則禁則の外に求めるか、あるいは憶測や推測に現前し、明白な一般原理、つまり、歴史的実践的に実在した基本的前提に求める必要がある。






# by musical-theory | 2019-01-24 12:55 | 和声学序説:基本的前提
2019年 01月 24日
古典和声の検証分析 ①
古典和声の検証分析 ①


c0070638_14255436.gif

* Contents _ https://fundamen.exblog.jp *


 理論家は和声学を本来性に立ち返らせ、本来的検証分析にもとづく新たな存在概念、おそらくは「存在→継承→生成」という存在概念を構成し、再び歴史的な存在つまり古典音楽に包まれ生成するものと観るような基本的前提を復原することによって、明らかに挫折してしまった限定規定中心の認識的環境を解体しようと考えていたのである。それは、古典音楽の根幹でもあるバロック和声_J.S.バッハの和声法を理解しようとするものであろうが、他方では、実証的研究が示すように、存在を継承しながらも古典派およびロマン派の和声の新しい実践構造の生成に強く促されたものであろう。そして、おそらくはこれが現代の理論家を由来証明の確かな定義に近づけたにちがいないのである。


c0070638_21124459.gif
* highlight;Google cashe


 理論と演習
 時代がいくぶん前後することになるが、新たな知をもたらす実体概念の検証と分析に応じて、規則矛盾の問題をもう一度考えておきたい。今日では、その事実関係はほとんど明らかにされている。いまや和声学基礎論は情報化を組み入れている時代である。理論家も理論解説者も、そして学習者の誰もが濃密な情報社会の恩恵を受けている。事実、そういう社会状況の新しい変化によって、おびただしい資料を把握することが可能な環境にある。その意味で、もし和声という響きの世界に、ひとつの現象だけを正しいとして、すなわち限定的な規定によって正誤判断するという、限定性を凍結した前提条件が本当にあることを信じて、これに様々な願望や期待を寄せることによって、人間の思考や選択のあり方である「実在性」を排除することが妥当であるとするなら、話はまったくおかしいことになる。つまり私たちは、過去と現在だけでなく、未来の和声についても知り尽くせることになるからである。過去の人間の文化創造における多様な実在つまり人間の思惟による存在が切り離され、歴史的存在が極端に断片化され「機能不全」に陥った「限定性凍結の概念」は、理論的構築性に疑問符をつける不条理と矛盾があることを意味していた。私たちは「和声学」や「書法規定」において、規則論の説明と演習の内容が異なることはないということを知っている。たとえば、導音進行の理論説明を楽曲分析で再認識しても、演習において実行する内容しても、同じ結果が出る。理論においても演習においても規定の内実は変わらないということである。
 ところが,滑稽なことがある。

      規則禁則は演習にだけにあるもの、という、規則論に生じた歪みを帳消しにすることができると思い込む主張
     である。だが、ここで理論の存在意義を一緒に考えると、このような論理こそが不条理と矛盾なのである。

 したがってこの論理で、演習の規定内容をそれぞれ勝手な基準から決定したり、また別々にセットされた規定で勝手に実習を指示したりすれば、演習結果は理論のいう内容とは違ってくるだろう。たとえば、_理論的にみても古典音楽には限定進行という原理は存在しない、つまり規則に従ってあれこれ演習する意味はないのである、そもそも連続5度は禁則ではなかった、だから、作曲は自由でよいのだ_などということも起こる。これは何を表しているかというと、和声学の理論は、その時々の勝手な言動のスライドに対しては対称性をもたない、ということである。これについて理論家はこう考えている。

c0070638_15125204.gif


      「演習にだけにあるもの」が事実そのものに解釈され、事実の存在にのしあがるということになると、どうで
     あろうか。そうなれば理論に連動した演習としての意味は認められないことになり、そうした帰結が当然のよう
     に_ テキスト「和声 理論と実習」は「理論書ではないではない」_ をあえて指摘することになる。疑似和声の
     存在こそが真に存在する和声のあり方(禁じられている)へと格上げされ、以前実在的であった歴史的存在そのも
     の(つまりバロック・古典派・ロマン派の和声)には、規則主義者がありえないと呼ぶものにおとしめられてしま
     うのである。
      そして、その通りになったのである。要するに、規則禁則を理論の枠組から切り離したことだけが問題なので
     はなく、それによって、歴史的存在概念を相互に認識する仕方までがそうした事実を遮断する認識環境に巻き込
     まれ、文化的教育的に価値のある人間的実現行為(作曲)を、卑下するかのような稚拙な4声体( J.S.バッハ、ヘ
     ンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの和声からはかけ離れた限定規定)による和声が存在の唯一
     の支配的な解釈になるということが決定的なのである。
      では、モンテヴェルディよりもいっそう和声的に、端緒において思索された歴史的に存在した実在の本質に基
     づいて音楽活動をしているバッハやハイドンやモーツァルトは、「端緒の思索」、あの「雄大な射程をもった音
     楽的思索」において、「非合理な限定規定についての認識」という必要性を考えていたのであろうか。そうでは
     ないらしい。

 和声学の実証的研究には新しい概念枠組をつくり、それによって特定対象に対する従来の解釈を眺め直そうという根源的な志向があるが、研究が飛躍的に発展を遂げるのは、いつもそのような志向がなされたときである。先にもふれたように、和声学が本来的な実在性をもたないときに、歴史的存在概念を再定義して、実在性を回復することができる。この定義される歴史的存在のことを実在性という。このような実在性の命題を第一義的に扱って構成された場の理論を「実在理論」、この理論と一貫して整合性がある、またその内容をもって古典音楽に存在する和声を「実在和声」と呼んでいる。


 検証分析と定義との関係
 理論の構築において、「歴史的存在概念の再定義は必要としない」あるいは「新たな選択的叙述は重要視されない」という歴史の動きを否定する時代が来るかも知れない。しかし、いま私たちは歴史という大きな流れの中に立っている、ということは、それは過去のあらゆる人間たちにとっても同じであったように、まさに私たちは現実を乗り越え歴史を創造していく存在である。創造とは新しい実践を生み出すことであり、創造性とはそうした能力または性質をいうのである。人間的能動性、合理性、自律性によって具体化された多様で多数の創造性は、どんな時代になったとしても人間社会の学問という分野において生き続けるであろう。この意味において、限定制約にかかわる選択された概念規定の結果がどのようなものであれ、理論家は神学的な考えによる思弁や過去の観念的な認識方法に責任を転嫁することはできないのであり、理論家自身が概念認識の形成過程のために、実際に機能している基本現象の検証分析を引き受け定義する必要がある。
 一般的には、検証分析によって判明した対象の表出すなわち基本現象の事実を、明確に与えることを「定義」という。別の言い方をすると、定義とは、文字通り、「実際に述べる」ことである。とすればそこには、述べられるものが前提とされているはずである。それを抜きにして定義はありえない。そしてその述べられているものこそ、「理論」もしくは「演習」の内容なのである。
 そのように定義しようとする場合には、概念のもつ特性を、できるだけ熟知された対象全体についての検証データのリスティングがしばしば行われる。検証データというのは、コンテキストのなかで言葉の代わりに用いても、対象全体の意味に変化が起こらないような認識基準と考えれば、直接、譜例提示で置き換えるという作業は一種の定義である。したがて、現代和声学の方法論のなかで、「譜例提示」つまり「直示的定義」が占める位置は、もっとも基本的な出発点というよりは、その出発点である対象の妥当性を確かめる手段とうことになる。
 グラレアーヌスの場合でも、教会 12 旋法の定義は、日常的に聴いている教会音楽には従来の中世8旋法の他に4旋法があるはずだという認識が前提であり、それがあってはじめて、その検証分析が組み立てられ定義されたのである。当然のことながら、前提となる対象の認識や検証分析なしには、どんな定義をするかの見当さえつかない。


 導音の本来的機能
 和声学における言語や符号で述べられた「論述の基盤となる与件」、つまり「定義の出発点」とはいったい何処に位置するのであろうか? ここで私たちは、「西洋 18 世紀のJ.S.バッハの和声において創出された構造特性_実在性」と「それを象徴化したといわれていた機能和声における原則という概念規定_声部の書法規定」とを比較しながら検証することにしよう。

c0070638_11111362.gif

c0070638_10465409.gif

c0070638_10471002.gif

c0070638_10472676.gif

c0070638_10474237.gif

c0070638_09462768.gif




c0070638_14022909.gif

c0070638_14322343.gif


                                            

     機能離脱という本質的な矛盾:
      理論家は従来的規則論における「機能離脱」の不確かな規定を次のような理由で否定する。つまり「導音の機能
     は限定進行」、たとえば「導音進行は限定される」という命題において、「限定進行音」「限定される」という機
     能は、導音の機能という概念のもつ現象内容を示す機能、すなわち実在的な機能となるはずである。ところがこの
     場合、そうした導音の限定的機能が実際に存在するかしないかは検証していない。一方、「導音の機能性が存在す
     る(ここに導音の機能の存在が認められる)」という命題における「限定進行音」「限定される」は、導音機能の
     現象内容を示す実在的な機能ではなく、導音機能概念に対応する対象について規則主義者がおこなう規定、つまり
     その対象と規則主義者(機能離脱を語るテキストの著者)の認識のあいだにどのような関係が成り立っているかを
     示しているにすぎない。「導音の機能は_限定進行_というのは、歴史的存在に現われる現象内容を示す機能では
     ない」のである。
      したがって、導音の機能という命題「どのような進行を機能として定義するのか」の説明もなく、唐突に「機能
     離脱」を結論するこの規定は論理矛盾だと理論家は主張する。人間が表出する導音機能の根底には、歴史的存在と
     その知識に依拠した本来的なシステムがあると考え、これを構造と呼んでいるが、それによれば「構造」は、検証
     と分析のための基本的認識基準であり、実在と連動している。

 このように歴史上の大作曲家もまた、導音現象を多義的な機能性をもつ歴史的な存在概念と考えていたことが、古典和声の検証によって明らかになる。J.S.バッハは、歴史的存在概念の示すこの「伝統的な技法」に分析を加え、「6種の機能をもつ導音進行」という意味での「事実存在」、つまり実在を成立させる導音進行を、人間的な「思惟による存在」、あるいはもっと広く本来的な「歴史的・実践的実在」であると考えていたのである。そして、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンはさらに分析を進め、この導音の進行の根底には、現象的・歴史的・伝統的な目的を達成するための機能体系がひそんでいる、ということを実践してみせるのである。




c0070638_18193624.gif

c0070638_15292682.gif



c0070638_12492225.gif


* Contents _ Excite_和声理論:実践_https://historicus.exblog.jp



               ⬇︎
                                           

        [ 導音進行の客観的実在性 ]              限定進行の証明可能な判断基準が不明確。
                                  この規定には実在的な現象の現実性と効用性の概念
                                  規定が崩壊している。

                  ⬇︎
                                           

        [ 古典和声の再生可能な概念 ]             ”西洋古典楽曲” に関する "和声分析" の範囲は対象
                                  が限られ、その諸現象と概念定義を密接に連関させ
                                  ることができないのは明らかである。

                     ⬇︎

       [ 実在の検証分析によって導音進行の事象(事実)は
                  多様で変化ある現象(姿)として捉えられる ] 


 上記、右側_「局所的単一現象という捉え方を意図した原則から帰結する導音進行の規定」は、左側_「経験的存在としての実在における導音進行の概念的本質」とは明らかに矛盾している。それは私たちの音楽思考が指し示す合理的な概念的方向や対象全体を再生させようとする現象としての自律的概念ではない、それゆえ、導音の検証と分析においてそのひとつの限定進行だけを切り離し、正誤判断したところで、導音進行の性質を説明したことにはならない。たとえそうした性質に適応能力のない人間によってそのほとんどが規則違反とされたにせよ、実在する導音進行の現象には人間的能動性と音楽的事象の実践を明らかにできる確かな内容が多く含まれており、それらは導音に関する「和声学基礎論」の概念定義の重要な未来的・創造的・生産的な次元を構成するものなのである。






基層的本質


c0070638_16581238.gif

* Contents _ Excite_https://opulente.exblog.jp/


 導音に関する分析において、私たちは導音に関する何らかの実践的関心を満たすために知ろうとするのである。つまり、知ろうとする導音の性質が、特定様式において私たちにどのように働きかけてくるのかを考察しようとする。現代の理論家は、この、導音の私たちにみせてくれる古典の実践的事実という和声のあり方が、私たちの思考の概念的方向であり、その方向に従い認識することがまさに事象に対する概念の適用である、と考えている。


 実体論的概念
 ところで、現代の理論家は、和声の概念化という過程にしても、それて連動している古典和声の知識にしても、その理論の構成自体は無機質的に規則禁則によって規定されていたが、しかしそれがどのように生成され、どのように実在するかは、けっして無機質的に一義的に規定されているものではなく、歴史的存在の「実践構造」にゆだねられていると考えている。とすれば、古典和声における歴史的・実践的実在のいくつかを検討してみよう。


   例 1.
c0070638_14025571.gif

c0070638_09504658.gif

   例 2.
c0070638_14031427.gif

c0070638_09542933.gif

   例 3.
c0070638_14033145.gif

 導音進行のそれぞれの例は、バロック・古典派の多くの作曲家によって統一された確かな実践の例である。J.S.バッハが前時代の段落・終止和声における導音進行の概念と実践的存在の影響下に発展させたのは、まさに音楽的な意味作用のもつ導音進行のより一層の多元的な面に他ならない。音楽的な実践が意味をもつのは、それが他の音楽的な実践と関わりをもつことによってそれが存在することを期待させるからである。その意味において、直示的定義(譜例提示)によるすべての各概念は、現代の和声学的な導音進行の概念となっている。とはいえ、真に本質的な概念定義と規定(自己同一性=導音進行は限定されない)が登場するためには、理論家による最近の「実証的分析データ」を待つ必要があった。


   例 4.       
c0070638_14085238.gif


c0070638_09572817.gif

 もう1つ加えておけば、実証的な研究によると、古典和声_バロック・古典派の和声には、属7の和音_第7音の多様な進行や第7音重複といった事象現象が満ちあふれているという。その事実を検証してみよう。

c0070638_10011893.gif

および

c0070638_10013875.gif


   例 5.
c0070638_14091065.gif

   例 6.
c0070638_14092864.gif


 古典和声が存在の住まいであるからこそ、私たちは常にこの住まいを通り抜けることによって基本的前提となる概念に行き着く。属和音を聴くとき、属7の和音を聴くとき、私たちはいつもすでに導音進行の開放性、第7音進行の多様性、そして連続5・8度という和声概念を通り抜けているのである。たとえこれらの理論用語を口に出したり、古典和声のことを考えたりしなくても、実在が語るそれらの優美な概念を確かな響きとして聴いているのである。

c0070638_10050912.gif


   例 7.
c0070638_16113887.gif

   例 8.
c0070638_15022275.gif




和声理論の新たな展開

< 基本的前提への思索 >


   例 9.
c0070638_14100894.gif

 導音重複_J.S. バッハ - 例2、モーツァルト - 例5、ベートーヴェン - 例9_の現象は、人間が生み出した多くの思考システムと同様に古典和声の実体であり、歴史に由来する根元的本質である。事実によって証明する認識方法によれば、第3音重複,さらに第7音重複(後述)は、本来、他の和音構成音重複と等価値のものである。これらの重複の特質は、言葉によって説明するまでもなく、バロック・古典派和声様式におけるありふれた(恒常的・本質的) 表出であり、とくに古典派和声のなかに頻繁に現れるものの、先行和音および後続和音の内容によってその形態は変化する。


   例 10.
c0070638_14155147.gif


   例 11.
c0070638_14161374.gif

 並進行(連続) 5・8 度の概念は,和声表出におけるれっきとした人間の思惟活動による実践構造そのものである。古典音楽の和声には「連続の存在する和声」と「連続の存在しない和声」が共存する。こうした事実の考察分析に基づく認識は規則禁則への一切の志向を斥け,私たちのさまざまな思考的状況と常に相対的である普遍妥当性をもたらす自然な知識を提供してくれる。そして古典和声のもつこの相対的特質は、和声の論述に厳密に還元し得る「並進行(連続)5・8度」を現実的に理解可能な一般原理である,ということを「人間の聴感覚がもっている正当な基本的基準」として認めているのである。


   例 12.
c0070638_15025266.gif


 譜例に表出されたこの交響曲を支える和声的な事象現象は、第1楽章全体にわたって繰り返し取り扱われる。柔らかで、さわやかで悠長に明るく進んでいく。説明するまでもなく、こうした特徴は第2楽章においても何の奇もなく穏やかに展開される。


    例 13.
c0070638_14165542.gif



 定義の出発点
 概念とは、特定対象と他の多くの対象との類似性を指摘するものであって、概念による認識は諸現象を集めて事象全体を再生させようとするものにほかならない。それにもかかわらず、旧態の古典和声学の概念と定義は、たとえば「導音進行は主音への進行以外はすべて誤り」としてそのありふれた実在性を否定する。それは概念規定にもたらされた疎ましいほどの理論と論理の固定化である。しかし、対象の広範な検証を行ってみると、たとえば_ 2) 導音進行は主音へ_を一集合にまとめてつられた疑似和声のモデルのような特別の概念は存在しない。したがって、導音化の概念定義のための論理の展開において、また、中世・ルネッサンス和声において導音の生成過程での思惟的動機としての導音は主音への認識、そして、ある特定作曲家の実践において導音を主音へ進行める現象が多く認められるにしても、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートヴェンの和声を枠組とする和声学であるならば、上に挙げた実例とその歴史的経過からも判るように、「導音は限定進行音」というルールは和声学的な実体論的思考を逸脱した認識基準であり、その結果、普遍妥当性を欠いた概念規定となるのは明らかである。導音進行の性質は、被定義概念_写真撮影であるなら被写体_となる「元の対象」の考察・分析を介してはじめて事実確認ができる。
 つまりそうすることは、導音と第7音の進行および重複、並進行(連続)と第3音重複の命題について、人間が陥りやすい矮小化された先入観、さらには事実を受け入れることを拒否する偏見、そして真偽の根拠を先へ延ばそうとするか、または断念するかなどの心理状態に対しての「自由化」といえよう。






相対的な機能性の究明につながる

< 実体論的思考 >



 古典音楽を枠組とする対象の検証において、和声の認識・選択基準となる導音進行の実体は、従来の概念規定(規則禁則)によって陥りやすい固定観念をはるかに超えたものであり、音楽人が共有する知識あるいは常にもつ必要のある共通感覚となる。しかも、その射程、柔軟性、理論史、人間のさまざまな思惟・聴覚的状況と絶えず相対的である事実の実証的研究を踏まえてみても、根源的な原理を十分に捉えそれを常識化する。今日、それは現代の統計的手法によっても検証され、すでに事実の現実性と効用性とを確保する理論の基本概念となっている。
 ところで、調構造とは、事象実質のなに刻み込まれた特性やその組み合わせの全体であるばかりでなく、様々な表出によって感受される諸現象の全体であり、調的とされた和声様式に見られる和音および音進行の全体である。多元的な導音進行という恒常的・本質的現象は、古典音楽における調構造がそれなしには考えられない性質つまり属性である。とすれば、多様な導音的機能性の構造認識は、理論の骨格である 18 世紀古典音楽_バロック・古典派和声様式の調に関する象徴化において重要な命題となる。このことは、調和声に関して Ch.ケックランが行った説明のなかにはっきりと含まれている。というのも、調和声は、孤立した導音の限定進行に還元されてしまうものとはみなされておらず、むしろ、動的に、必然的に、両議的、多義的導音進行と導音重複という機能的背景のなかに位置づけられており、それによって形作られているからである。この調構造こそ、古典的次元を必ず含むものなのである。
 理論とは、あくまで文化社会が認める歴史的・実践的存在の中に創出された構造特性を対象とした概念規定によって構成されるものである。しかし、現実には存在しない、ルールという唯一性の概念をあたかも存在するかのように理論のあらゆる面で適用する極端な非論理的言説は、伝統的な西洋音楽文化と理論の歴史に対する否定であり、少なくとも現実の意味ある体験を全く包含できないことによって妥当性をなくしている。たとえ、倍音共鳴論の本質的な論述さえもなく、そういった概念規定を基準にした西洋古典音楽の分析から新しい理論が生まれることはない。それは経験的実在を顧慮しない単なるアプリオリな認識論の産物であり、それ自体がさらなる誤解を引き起こすものでしかないため、概念の内包を明確に与えるより根源的定義の出発点に戻る必要があるからだ。
 和声学の価値基準は、それが包括し得る全対象の客観的実在性の有無と範囲の大小による。現代の和声学は現象の生起という事実は様々な調構造様式に関係していること、それが統一的全体に共に属していること、を明らかにすることにより、その実体論的思考に基づいた多様な考え方を理論の正面に据えたといえる。普遍的な概念規定が古典音楽の和声を離れて、存在している、ということは考え難い。他方、ある概念規定を示されたときにそれが普遍であるか否かを見分けるための価値基準は私たちに存在しているといえよう。つまり普遍とは、創造されるものであり、普遍を創造する未来は私たちにはまだ壮大な可能性として開かれているのである。






# by musical-theory | 2019-01-24 12:50 |     古典和声の検証分析 ①
2019年 01月 24日
和声概念 [1]

c0070638_21532278.gif
* highlight;Google cashe


 合理性
 和声学は、普遍的な理論体系である。私たちが聴いているマクロな音楽の世界を記述する。したがって、和声の構造様式は4声体構造にだけに依存していたわけではない。古典音楽にみられるように、和声表出は個々様々な声体数変換によって実践されていた。しかし、現実体験とかけ離れた声部の書法による実践は、対象の吟味などのない無自覚で直線的な先入観によって、4声体書法以外の構造形態が非実践的なものとして無視され切り捨てられてしまう書法となる。その内容は全教程を通して規則禁則とその適用によって行われ、すべてが音楽の現実在の概念とはまったく違った概念の規定に重点が置かれ、そして、これこれの限定進行に合うような、これこれの禁則を遵守するための検証不備の概念定義が実行されてきた。

      事象現象の「検証」において、そこに多数の「現象・形態」、さらには多様な「結合・分離」が分析され
     るとき、そのあり方に条件をつけて範囲を狭める一義的な和声テキストもまた、旧態的な欠陥規定による事
     実との不整合の産物でる。

 そのことは組織化された和声学の無内容な現状や論理矛盾に窮する状況をみればよく分かる。関連分野の指導者が「実践の設定は規則規定が行うエクリチュールである」の神話を夢見ているような場合には、人間の思惟・存在・実践が限局的概念に振り回され、和声の根源性すなわち古典和声に対応する理念の放棄という弊害を伴う。この限局方法論とともに検証の拒否が始まるのである。本源的な情報資源などというとあらたまって聞こえるが、要するに「原初的実在」のことであり、そうした実在検証において学ぶことは、単なる知識ではなく、自分の足で立って新鮮な視座で音楽の世界と向き合い、原則と言われていた限定に対して常に「クリティカル」な眼をもつこと、制約からは見えないものを観ようとすること、多様で柔軟な価値観に開かれることの重要性である。機能和声の技法の説明において、J.S. Bach をはじめモーツァルト・ベートーヴェンの和声の例は`規則違反・例外`といって、伝統的に継承された始原の存在を否定し、そして、その事象現象の原理の意義や価値を認めない_という説明はいったい何であったのか。


▾            ▾            ▾

 ところで、`和声 - Wikipedia`_Web_機能和声の原則_は、理論性に立ち返らせるような原初的実在の再生力が弱い。むろん事実の限局的体質と検証放棄、不透明な「出口」のあり方が問われていたのである。今日、その意味での伝統的な実在性そのものを非実在性とする特殊な原則主義に拘束されており、そのもっとも大きなそして自己撞着的なものとは、いわゆる`例外・補則・実曲中では無視されることもある`という概念定義であろう。それは理論体系の全存在に関わる重大な命題といえる。またそうした定義は`脚注`に挙げられたあの「歴史的な知的活動の成果を獲得した大作曲家の和声を排除するテキスト _和声 理論と実習_ 」からの引用であるとすれば、その説明からも判ってくるが、そこに見られる`不整合な欠陥規定`を体系矛盾としてとらえる人間にとって、これがのちに問われる創造的表象と認識されている技法の習得と楽曲の分析、そして自然な和声の世界における必然的な原理の思考において「つまづきの石」になるのである。そこでは、その根本問題とされるあの生きた「存在一般の歴史的・実践的実在の究明」は行われていないことは明らかであり、それらテキストの演習内容が「実在性から切り離されてしまう無機質な欠陥規定によるもの」などと厳しく批判されたのはそのためである。古典和声の理論的な解釈にしても、知的思考の成果としての名曲を眼の前にして、いったい何をどう解釈するのか分からないことになるだろうし、その考察の仕方さえも変わりかねない。

▾            ▾            ▾


 和声を学ぶ人間は、まず、「古典和声のもつ明証性がいまだに表明されていない`原則`のあり方を見直すことではないか、としたうえで、実在的事象現象の実証的なあり方を重ね合わせ、そうすることによって、そこに風穴を開けるという判断には合理性がある」と見ている。当然、歴史上においてすでに自立していた実在を根拠にその自然な現象を規範にしておこなう「和声学の課題」の地盤確保もなく、和声的な世界観を放棄する規則に対して自己批判的機能の必要性が恒常的に指摘されていたとしても、そう不思議ではあるまい。
 なぜなら、「実現行為の事実に定位して概念が形成される_合理性_は、人間の基本的欲求であり、和声学は限定に先立つ人間の素質や能力(可能性)を理論体系に回復し、この分野での根本問題を克服す必要があるからである」。というのも、「規則偏重および例外枠組によって次第に変質していった`原則`つまり`声部の書法`は、検証と分析によって概念化される、本質存在の事実存在に対する優位はゆるがない高次の創出レヴェルが説明できないからである」。
 それは、こういうわけである。バロック・古典派和声に存在する生成の概念からすれば、実在全体の本源性もその「想像力への可能性」にほかならない。つまり、実在全体の本源性というものは、たとえばJ.S.バッハ・モーツァルトの和声を捉えてみても、たえず拡大し続け、より創造的になろうと生成されているわけである。もはやより限定的(擬似的)に、より制約的(非実在的)になろうと思考することなど原理的にありえない。とすれば、元の対象との不一致が起きているために事実について的確な答えが与えられない`声部の書法`_導音は主音へという解決の限定、_並進行(連続)5・8度は禁則の制約、_ただひとつの_関数5_に閉じ込められた和音配列は、過去や未来という次元を開くことができず、無力に転じ衰え滅びてしまうものであろう。


 事実認識を妨げる限局
 現代の理論家の考えでは、こうした元の対象との不一致、ことに実在との調和を破るあからさまな規定矛盾と、それを正当化することになった`原則` は、当然のように「過激な検証放棄を引き起こしたもの」として見えてくる。和声の歴史の生成を説き、まったく新たな機能論の成り立ちを告げるのに、安逸な概念認識の場で「これが正しい」とされた説明ではとうてい間に合わない、と見られるのである。言葉のまやかしとしか思えない` 16 世紀ヨーロッパに端を発した機能和声`といった前置き、その「端」にいたるまでの由来説明を捨て置く曖昧さ、つまり16・17・18世紀における機能和声を論じる本質的根拠は何かを表明できない事態、これらが 検証(前提)放棄の引き起こす結果であり、 ...... 西洋古典派音楽がもつ明証性を原理的に説明したものではない規則禁則、そうした内部的規定に翻弄される`声部の書法`もまた、それに追従していたことはこうして明らかである。
 そればかりか、和声のあり方は4声体であるという思い做しは、宗教音楽が中心であった中世・ルネッサンス時代における合唱編成を受け継いだことによるものであり、古典和声はそれにもとづいてつくられている、という学問的に根拠のない「俗説」が流布している。ところで、その時代の混声合唱曲を考察してみると、実在の歴史における和声の本源的本質は、原初的な声部編成の多義的構造が実在形態であって、この分析をも含めて考えるなら、「4声体構造が基本である」は俗物の思い込みである。
 「和声が認識されて多義的構造になる。この認識の遂行とその準備とともに、和声の歴史が始まるのである」。つまり「多義的構造の認識の遂行は、和声的思考におけるの単なる派生的実在といったものではない。それは和声の歴史におけるひとつの真実在を示している」。そうだとしたら、当然すべての「和声」は、人間に「多義的構造を通して現れてくる」のである。
 「和声が多義的構造であるからこそ、人間は絶えずこの多義的構造を聴くことによって和声概念に行き着く。ルネッサンス音楽を聴くとき、バロックや古典派音楽を演奏して楽しむとき、人間はいつでも2声体、3声体、そして4・5声体構造の和声を聴いているのであり、たとえこれらの用語を口に出さなくとも、そうした響きを体験している。楽曲を調べてみると、和音はけっして混声4部合唱構成と見なされないことぐらいすぐわかる」。こう考えれば、「多義的構造が和声になる」ということの意味も判ってこよう。
 そして、「多義」という視点の設定、つまり「多義のあらわれ」が、人間の想像の世界で生成されながら人間のつくる規則に従ったものではないのと同様に、実在の事実と本質つまり「和声」の形成も人間が限定的におこなうことではない。むしろ人間は、すでに投げ出された和声の力を借りて、概念の事実認識を果たすのである。その意味では、人間が和声を語るというよりも、「和声が語る」のであり、人間はその多義的構造によって考えさせられているのだといった判断が和声学の命題に合っている。したがって、人間は和声の多義的構造を基本的前提として、それを検証することによって、和声概念を明らかにするのである。
 現代の理論家がこの検証にこだわるのには理由がある。というのも、前述の_根源の存在を消滅させる`脚注_書籍の概念定義`と併記された`原則の規定`_は、命題の解明において結局失敗に終わり批判されたわけであるが、その失敗がどこで起こったのかという問題にこれが関わるからである。この場合、理論家は次にあげる2つの命題だと考えている。つまり、この過程で「和声学の歴史全体についての命題認識が間違いであった」ということ、そして、「命題究明のための準備作業に欠陥があった」ということである。まず本来的命題のひとつの例を示そう。

c0070638_18430651.gif


 和声学の歴史において、人間が創出する和声のことを何でも解きあかそうとして、なぜそれが可能となったのかという問いを発することが和声学の始まりだといわれる。和声学の始まりはこの問いよりほかにないのである。おそらく問いを発してこそ、人間は、今日もそうであるが、昔からそのようにして和声学を始めたのである。これは、和声学とは、概念認識の諸段階を昇りつめ、真の実在はどれか、対象の本性は何かを尋ねようとするものであり、そうした事実を理論的にしかも論理的に説明しようとするものである、という意味である。そのためには、私たちは「歴史的・実践的実在(たとえば、大作曲家の和声法)はそれぞれであり、その和声の統一的概念化(プログラミング)はできない_困難である」と述べながら、多様性も可能性も包括できない特殊な考えのもとで、実在的連関から引き離された「バロック・古典派・ロマン派和声の原則」を語ってしまう、という極端な言動を慎む必要がある。というのも、検証を拒否する`原則`には、そのつど和声を限定のうちに引き込み、制約のうちにとどめようとする_事実認識を妨げる偏った限局_が立ちはだかっている、と考えるからである。
 その証拠をいくつか挙げてみる。

        たとえば、
           J.S.バッハ _ Four-Part Chorales
                  Brandenburgishe Konzerte
                  Suiten
           W.A.モーツァルト _ Symphonie No.41 "ジュピター"
                     Le nozze di Figaro
                     Piano Sonate
           ベートーヴェン _ Violin Sonata No.5 "春"
                    Symphonie No.9
                    String Quartet No.1
           R.シューマン _ 8 Novelletten
                   Blumenstück
           ブラームス _ Symphonie No.4 "ブラームス交響曲の最後の曲"
                  Drei Intermezzi
                  Rhapsodien
           マスネ _ Meditation de Thaïs "タイスの瞑想曲" など

      これらは、「機能和声の規則」に照らし合わせると、原則が無視された声部の書法、つまり規則違反や禁則の
      事象現象が次々と現われる楽曲_ということになる。

 このような人間の実践的課題の重要性から目をそらす和声学的環境は、いわば歴史からの贈りものである和声を、限定が切り開いたもの、制約が企図したものと判断をあやまり、意識的に古典和声は規則禁則が基本的な認識基準である、ということを見せようとしている。つまり、虚構的テクストとしての規則禁則の地位を主観的な論述を通してだけでなく、現代の理論家たちが閉じられた疑似構造として論じているように、一切の多様性と変化性を排除する一元化、あるいは、概念の外延に関わる定義であるにもかかわらず、さして実体論的思考のない非現実的な推測や仮説を通して行なわれているだけなのである。このように、それは蓋然性が高い和声の仕組みを体系的に踏査したものではないのだとすれば、今もこうした名曲を見逃す和声テキストが人間に与えているものとは何であろうか。


 実体と疑似の峻別
  21 世紀に入り、それまで動的な本質を否定してきた`機能和声_声部書法`の限定制約からようやく脱却し、基本的前提としての事実認識に達したいま、現代人はこのように考えるようになったのである。「`和音の進行``連結の評価`の使用価値と範囲を離れれば、何の価値ももたない。経験する実体概念の認識がないなら、すなわち可能性が活動していないなら、それらは概念として静態的であり、伝統的和声の面からも破壊的である」。なぜなら、現存在を明確に語るための実在検証の直接的間接的な排除は、無邪気な誤りで済まされるものではないからである。それを妥当性があるものとして操作することは「明証化のゆがみ」を助長する。音楽人にとって、この後退的概念の規定は「妥当性」をもたない。
 ルールという問題を捉える表出的認識論において、理論解説者が「歴史上の大作曲家たちはこのルールに従っていたのではない」とわざわざ注意を呼びかけているように、そうした概念的方向と視点は自明であり人々の間では常識化されている。しかもルールは、古典和声(作曲・演奏・聴取活動)そのものではなく、本来的理論としての基礎的役割から外れていることを、少なくとも単純な事実の論述に還元できない概念規定であることを常に示すことになるのである。概念の内包を明確に与える定義、それは和声全体の問題を論じる場合、基本的な認識基準にほかならない。ゆえに実体とのコミュニケーションの様態だけが事実の論述と音楽文化社会を結びつけるのである。なぜなら、それはあらゆる人に共通するものに関係するからである。しかし、私たちが古典音楽の演奏や鑑賞において経験する和声の実践原理を理論の問題に対して当てはめてみるなら、つぎのような事実が分かってくる。

      古典音楽における和声の様式特性を保全しようとする限り、そこで検証される実践的実在(バロック_モ
      ンテヴェルディ、J.S.バッハ、ヘンデル、古典派_ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、そしてロマ
      ン派_ショパン、シューマン、ブラームス)の和声そのものは、すでに限定規定というルールの支えなしに
      成立していたのである。

 和声学が古典和声の様々な現象を再生するという役割は、現象の情報伝達力にある。今まで続いていた反社会的文化的欲求の原則主義の動きが止まるのは、永々と続く古典和声の恩恵を知るときである。不明確な概念から解放されない公理を基本的前提とするために実在そのものを俯瞰できなくなっている考えを、概念的に古典的な意味での和声の正しいあり方として規定することは妥当なのだろうか。その実在という実体の多くを例外視する概念化が矛盾していることは明らかである。こうした矛盾は事実をルール化する際の対象と認識基準とのセマンティカルな問題であり、理論構成の意味においても概念の象徴化においても、和声学の知識体系が和声構造の客観的実在性を枠組としているからである。
 したがって、古典和声の特徴とは、人間が歴史上において獲得した多様な「実現行為」であり、ノーマルな聴感覚に裏打ちされた検証を通じて人間を豊かにする「経験の対象」でもある。そうした対象は、理論の基本的象徴と本質的概念となるものである。理論がその認識根拠と概念規定で人間的実現行為と結ばれているのは、個々の理論家の生きた分析と総合という研究があるためである。そうだとすると、和声学が人間的実現行為を前提条件とする理論的探究、事実判断の拠りどころとなるような明証的な認識に到達するための実証的研究である限り、なんらかの音現象を古典和声の構成要素と認めるためには、対象の現実性と効用性とを確保した本源的な存在構造「事実であるもの」と、分析データの裏付けを欠いた擬似的な構造「事実ではないもの」を前もって区別しておく必要がある。






# by musical-theory | 2019-01-24 12:42 |     和声概念 [1]
2019年 01月 24日
実体論的思考

01 -
c0070638_11003128.gif
「 説明原理 」


 相対的概念
 人間は根源的に実践的存在である。人間は自己の生きて活動する根源の力を保持し、それを成り立たせるために何らかの働きを必要とする。つまり、はじめに実践がある、のである。しかし、人間の思惟・存在・実践といったものすべてを反自然的な規則禁則で推し量ろうとして、序列化できるものだけに価値を見い出そうとする俗説的原則がいかに人間の実践を歪めていることか。とくに、序列化によって固定化された価値は、規則化された価値である。その規定は人間の想像力をも含めて、そればかりか人間そのものまでをも含めて、すべてのものを規則で判断させるような世界に若者を招き入れる。それでは、規則の実践に、しかも、その実践の予想させる方法が厳密に守られたとすれば、もっとも想像力の乏しいものにおいて結びつくことになる。和声学において何でも限定制約という視点でものを考えるように強いられた人間は、多様な働き、多数の実践を、単純に禁則といって例外視する。その結果、規則化できない多様で多数な存在を見逃す。彼にとって規則化できない存在は第2義的あるいは全く関係のないものとなり、ただ規則が要求する実践ばかりを果たしているうちに、与えられた要求を受け入れるだけで自分に与えられた固有の思考や能力を失ってしまうのである。
 ルールによる和声学とはこんなふうに考えることができよう。一般に規則禁則論は、多少の幅はあるにしても狭い部分を説明することしかできず、したがって部分に与えられている事象現象に閉じ込められることになる。ところが、検証分析や演習を介して聴感覚の発達がある人間は、実在の音楽体験と連動した記憶や想像の働きによって、過去や未来という「次元」を開くことができる。正確に言えば、全体の中に、ルールとは異なる歴史上に展開された自然な事象現象が認識されるようになり、そこに伝統性あるいは現代性と呼ばれる次元が開かれてくる。そうした次元との関わり方が記憶・想像と呼ばれるものである。そうすることによって人間は、現に与えられているある一つの和声構造を考えながらも、そこに過去に存在したことのある和声構造や、存在し得る思惟可能な和声構造を重ね合わせ、それらを互いに切り替え、さまざまな和声構造を相互に関連させながら多様性・変化性を事実として理解することができるようになる。このように多様な構造をさらに高次に構造化する概念の認識、変化ある事象現象をさらに拡張された事象現象のもとに関係づける概念の認識を、認識論や論理学の領域で実体論的思考による概念認識という。和声学に特有の世界とは、そうした認識方法によって構成される実体論的思考体系のことなのである。
 和声学は人間の「5感」によって認知できない存在を考える学問ではない。また、歴史的な「時間性」の外に位置した神学的観念において、服従するか、反抗するかを決定する場でもない。それは人間の合理的経験論と一般的な認識論に依拠する。その基本的概念は対象とそれに関わる数々の対象とを突き合わせることによって見出すことができる。その手段となるのが考察である。つまり事実に基づく分析である。この比較検証は一挙に行われるのではない。何らかの実践的関心を満たすために検証するのである。しかし、概念規定のあり方が経験的実在から得られる事実を象徴化していないなら、理論をその方向から構成することで私たちにもたらされるものは少ないということだ。さらにそのような事象に対する非現実的な概念の適用は、現象の多数と多様をひきかえに神話に相当する認識基準の混乱を引き起こすものなのである。
 音楽とは何か? この問いは、音楽理論にとって積年の課題であった。それは西洋音楽理論史における中世の音楽について詳しく述べた「音楽教本/著者不詳_ムシカ・エンキリアディス 」、「同書への注釈書_スコリア・エンキリアディス」が理論書として音楽の世界に現れ出るはるか以前から同じである。これらの理論書は、グレコローマンの著書から引用した諸原理を採用するものであり、多くの研究者が筋道を立てて述べているように、和声現象に関しては、ピタゴラス理論をはじめギリシャ音楽の音組織、和声の根本原理となったオルガヌムに依拠する_音程の和声_を明らかにしたものである。
 ボエティウスは音楽と人間の関係について「音楽は本来、私たちと親しい関係にあり、私たちを気高くすることも節操を失わせることもできる。すべての知覚力は人間に生まれつき自然に与えられているが、心に感じることを見つめているだけでは何も分からない。その行動にともなう感覚機能にとって根本的なものとは、また感覚的に感じていることの性質とは何であるかは、事実に沿って専門的に塾考することができないのであれば明らかにされることはない」と述べている(De institutione musica/Book one_1.Introduc- tion / Boethius 音楽教程-第1巻)。
 古代世界の文化において、音楽は、民族性や道徳性に影響を与えるものとして、また、真理探究の哲学的導入手段として一般教養である7自由学科の主要4学科の中に置かれ、算数、幾何、天文学と並んで数理的な教科の一つとして重要視されていた。すなわち音楽は人間の精神的な豊かさを示す顕著な実例であって、想像力や実践力を理解するための源泉であった。この音楽についての考察は、中世・ルネッサンス・バロック・古典派・ロマン派・近代的という段階を経て、現代の実証的研究に至るまで連綿と続いている。そうした理論書は音楽の無限の可能性と固有の構造特性とを見い出した点で、ヨーロッパ音楽理論史の発展を意味するものである。 20 世紀において西欧の思惟が経験したように、歴史家・理論家・評論家が新たな角度から論じる機能論的思考と実体論的思考は、理論を社会的・文化的実践と定義する。


 原理的保証
 本来、実証的精神を踏まえてきた和声学がなぜ規則禁則へと向かい変わってしまったのか。その理由を、現代の理論家は、ルールの普遍化からもたらされた公理的理論とみる。その特殊的概念は和声をコントロールできるかのような錯覚をもってしまった。定義概念の形成過程は排他的であるから、他者の表出である古典音楽の実践的存在は視野に入らない。和声表出の面からいうなら歴史的存在である音楽作品の関係という問題を全く無視している。現象の多数を、現象の多様を語ることに対しても無関心。したがって、理論と演習は規則主義によって拘束され、私たちはもはや変化発展のない疑似和声を嫌でも聴かされることになる。唯一論的な理論構成はこの孤立化する限定・制約の概念規定から一歩たりとも超えることができなかった。つまり、人々に力強く訴えかけてくるJ.S.バッハやモーツァルト・ベートーヴェンの和声と一緒に音楽芸術作品への畏怖の念をすでに失っている」と指摘する。
 周知のように旧態の和声学は、定義不十分で不正確なドグマを前提とするため、理論の中枢部には本来的実体を排除しようとする正誤判断と、調構造の論述においても部分であるにすぎない概念の適用がしきりに起こる。歴史的な結果責任という意味においてもその説得力の足りない論理は言ってみれば、創造における可能性探究の道を逆行するものである。それだけではない。古典音楽という芸術作品が有する確かな現象の多くを例外に区分する考えは、実践的事実と自己判断の不適合性を打ち消そうとした取りつくろいである。また、曖昧な概念化は単なる埋め草。それは語意が示すように素材を構造特性に結びつける機能は存在せず、このような概観性や全体的な直観性が欠ける概念は事象の起こる必然性を考えた機能理論にとって適切な象徴化ではない。それに加え、近代的な機能本位の合理性を曖昧にし、大々的に現象の機能性を語るにしてはあまりにも破壊的である。しかも象徴的概念の基盤となる芸術作品の実例表示を怠る、すなわち、歴史や実践の事実に対して対応能力の備わっていない定義概念は、私たちを現実体験から引き離してしまう反文化的なナンセンスに陥っている。
 音楽芸術は本質的に歴史的である。その移り変わりの現象を離れてその本質は論述できないとされる。音楽芸術が歴史的であるということは、その和声における構成要素も人間の記憶と現実的な経験の一部をなしている。それは論理的な確実性にあらゆる概念を引き入れるものでもある。その明証を一般的な定義概念とするためには、原理的な保証を歴史的事実に求める必要がある。だからこそ、私たちの体験が現実である古典の直接的な探究を決して無視することはできないのである。よく引き合いに出す「ドイツ和声」「フランス和声」についての概念の規定は、たとえ過去におけるエクリチュールがどのようなものであれ、ドイツそしてフランス古典音楽における伝統的な和声構造を再生するために、しかも、現実的・具体的に理解可能な基本的基準を数多く見い出せるように、まず事実に基づいた特定対象の考察と分析から始まったのである。かつて西洋の和声学が、起源的な音組織となる教会旋法の排斥、際限のない借用和音論の乱用や元の対象と合致しない規則禁則の固定化、また、古典における事実検証の放棄を容認しなかったのはなぜなのか? そうした逆説的な意味において、有用な和声現象を理論に還元するための理論家の常識的なバランス感覚、確かな認識方法に依拠した客観的で合理的な基本的前提そして多義的な概念定義から学ぶところはいまなお大きい。


 理論的空間
 和声創出の世界には、その全体をつらぬきそれを成り立たせている多くの独立した「原理」がある。その歴史は特殊な領域内部の断片的・限定的概念規定から成り立つものではない。作曲家それぞれが創意工夫した実践と各技法間に生じる相互作用の結果として得られるものであり、その多数で多様な和声のあり方は、人間が自ら変化しようとする本能によって、昔からどんな時代にもどのような作品の中においてさえも見ることができる。私たちには仮に一義的に見える現象であるとしても、それは多義的な表出をもつことを前提としている。それゆえ、近い将来にはデータ・バンクが提供してくれる知識体系を活かす方法、また、その新しい認識根拠と基本的基準が必ず問題となるだろう。たとえ、そうなったところで、対象の全体像を洞察するという知的活動が不要になることはない。というのも、私たちが音楽文化社会という世界にはめ込まれ、音楽文化に参与した存在である限り、実践によって統一される思惟と存在を区別する公理的理論は成り立たず、音楽体験は本質的に両議的なものとして現れるからである。このような根源的両義性は、諸理論の解決の手前にあり、ルールの唯一論的規定によって霧散するようなものではなく、考察と分析を通じて、一つひとつ明らかにされていくにすぎない。各時代の理論書を見ると、理論の構成というものが古典音楽の和声構造を本来的実体とする一般的な説明原理に基づいたものであり、私たちの思考の概念的方向への問いかけが自然にかたちになり、そのかたちを確立していった理論であるということが判る。周知のように理論とは、人間が試行錯誤しながら身につけた実際的な知識の総合体であった。その認識方法は分析と統合を繰り返し新たな概念を組み入れ時代と共に変化発展していくものである。
 現に和声学が背負っている問題とは、前提である西洋古典音楽の和声からみれば、概念規定が不正確でしかないというパラドックスである。歴史的存在である西洋古典音楽つまり「基本的前提」を認めるのであれば、そこに実在した事象現象をまず肯定する必要がある。前提を認めた上で、その実在にあらわれる「基本概念」を否定あるいは禁則・例外などとすることは、自分の矛盾を表明していることに等しい。もし、理論の目的が誤って導かれたままであるなら、その明確な問題解決のためには、対象となる様式特性レヴェルを明確にした事実の考察と分析が必要なわけを理解することだろう。なぜなら、実体論的思考への顧慮を忘れた規定「たとえば連続5度は禁則」という考えは、人間が日常的に体験する音楽の概念内容を反映させることができないからである。したがって、原理的保証のない公理から独立した媒介機能的環境と理論的空間を生み出す必要がある。人間の素質や能力という人間活動が認識できる実体論的思考を拒絶し放棄するとき、それは単なる原則主義に変貌してしまう。これが 20 世紀までの和声学が教える必然的な結果であった。
 現代の和声学は、よく知られているように、歴史的・実践的存在を学ぶ場である。現代の理論家に支えられた象徴化の多くは、この点に関してきわめて明確である。






# by musical-theory | 2019-01-24 12:41 |     01 - 実体論的思考