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2024年 03月 01日
和声 基本的前提


和声



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 和声学の基本的前提を考えてみよう。和声の事象現象は静止している。その構造は均一である。これが成立しないことは現代では明らかである。和声は静止して均一どころか非均一的であり、しかもその非均一性は実証研究によって検証され、今日「実在検証の一般原理」として知られるようになったからである。基本的な概念が、実在検証の一般原理によるものだとすれば、対象が多くなるほど和声としての連続進行は実在密度が高く、その実在密度に準じた割合で、古典音楽に現われるその進行の性質が増加する傾向にシフトする(発展する)から、和声学ではこれを「性質の多様化」という。多様化の検証については「和声学:旋法和声および調和声、続いてロマン派の和声」の章で説明するが、連続進行の定義がそれにともなって明確になっていく。定義の明証性(直接的な確実性)は検証領域の広さに比例するからである。そうした明証性を拡張するためには、その原理的な保証を、規則禁則の外に求めるか、あるいは憶測や推測に現前し、明白な一般原理、つまり、歴史的実践的に実在した基本的前提に求める必要がある。
 理論家は和声学を本来性に立ち返らせ、本来的検証分析にもとづく新たな存在概念、おそらくは「存在→継承→生成」という存在概念を構成し、再び歴史的な存在つまり古典音楽に包まれ生成するものと観るような基本的前提を復原することによって、明らかに挫折してしまった限定規定中心の認識的環境を解体しようと考えていたのである。それは、古典音楽の根幹でもあるバロック和声_J.S.バッハの和声法を理解しようとするものであろうが、他方では、実証的研究が示すように、存在を継承しながらも古典派およびロマン派の和声の新しい実践構造の生成に強く促されたものであろう。そして、おそらくはこれが現代の理論家を由来証明の確かな定義に近づけたにちがいないのである。


理論と実習


 時代がいくぶん前後することになるが、新たな知をもたらす実体概念の検証と分析そして概念定義に応じて、禁則限定矛盾の問題を考えておきたい。今日では、その「事実関係」の有無はほとんど明らかにされている。いまや文化社会の急転換にともなう教育的役割という、客観的な成立条件が求められてる「和声学基礎論」は情報化を組み入れている時代である。理論家も理論解説者も、そして学習者の誰もが濃密な情報社会の恩恵を受けている。事実、そういう社会状況の新しい変化によって、おびただしい資料を把握することが可能な環境にある。その意味で、もし和声という響きの世界に、ひとつの事象だけを正しいとして、すなわち限定的な規定によって正誤判断するという、限定性を凍結した前提条件が本当にあることを信じて、これに様々な願望や期待を寄せることによって、人間の思考や選択のあり方である「実在性」を貶めるだけであなく、排除することが妥当であるとするなら、話はまったくおかしいことになる。つまり私たちは、過去と現在だけでなく、未来の和声についても知り尽くせることになるからである。過去の人間の文化創造における多様な実在つまり人間の思惟による存在が切り離され、「歴史的存在」が極端に断片化され機能不全に陥った限定性凍結の概念は、理論的構築性に疑問符をつける不条理と矛盾があることを意味していた。私たちは「和声学」や「書法規定」において、規則論の説明と実習の内容が異なることはないということを知っている。たとえば、導音進行の理論説明を楽曲分析で再認識しても、実習において実行する内容しても、同じ結果が出る。理論においても実習においても規定の内実は変わらないということである。
 ところが,滑稽なことがある。

      「禁則限定は実習にだけにあるもの」、という、規則論に生じた歪みを帳消しにすることができると思い込む
     主張である。これが、連続5度禁則の理由である、の学習者が無根拠主義者の主張によって仕向けられた将来に
     わたって、将来、学び直しのできない危険を暴露しているといえよう。だが、ここで理論の存在意義を一緒に考
     えると、このような論理(無根拠主義者のネグレクトを真似たような言説=環境世界に対する回避的行動_実習
     の評価・認定における ” 連続8度・連続5度の禁則に結びつけ、 技法説明が否定や排除からはじまる " 連続5
     度の禁則の理由 " " 連続5度の見つけ方 " )、さらには、 虚偽説明の非常識を冒すことによって伝統的様式を廃
     棄するところまで陥ってしまう原理の否定性、いわゆる " なぜ連続5度は禁則なのか " ) が与える弥縫性こそが
     不条理と矛盾なのである。

 この「不条理と矛盾」の記録は、今世紀に入って、「和声 理論と実習」に準拠した教育体制の教材アプリとなって残されている。そのなかでもっとも逸脱した概念規定が「連続8度・連続5度の禁則」である。最も逸脱した概念規定が禁則_禁じられていた_を基準にして組み立てられたという事実は、教材アプリの前提破綻がどこにあったのかを明らかにしている。したがってこの論理で、実習の規定内容をそれぞれ擬似的基準から決定したり、また別々にセットされた概念規定で論証もなく実習を指示したりすれば、実習結果は理論のいう内容とは違ってくるだろう。たとえば、_理論的にみても古典音楽には導音の限定進行という原理は存在しない、つまり規則に従ってあれこれ演習する意味はないのである、そもそも連続8度・連続5度は禁則ではなかった、だから、連続8度および連続5度は合理的な和声構造だ_ということが起こる。これは何を表しているかというと、和声学の理論は、その時どきの規則主義者の勝手な=歴史的環境世界が内包する可能性を見いだすことができなくなった言動に連動することはない、ということ、また、学習者を強引に隷属させてしまう準拠主義者の定義スライド=閉鎖的な自己ブロック化に対しては対称性をもたない、ということである。これについて理論家はこう考えている。


和声 基本的前提_c0070638_14584119.jpg


連続8度・連続5度


      「実習にだけにあるもの」の弁明が、古典音楽そのものに解釈され、事実存在にのしあがるということになる
     と、どうであろうか。そうなれば、理論と実習は切り離され、「理論に連動する実習」としての意味は認められ
     ないことになり、 そうした帰結は当然のように、 テキスト「和声 理論と実習」は_理論書ではない_をあえて
     露呈することになった。言い換えるなら、実在が説明できない欠陥規定の閉じられている性質をあらわにしたの
     である。というのも、「和声 理論と実習」のコミュニケーション的基盤は、 定義放棄においてあくまでも無根
     拠主義である必要があったからである。古典的和声の演習の規定内容は、テキストのこうした立場にとって基礎
     論の禁則と限定は安易に固定化されるものとなった。その意味で、定義放棄の機能不全を自覚して、基礎論にお
     ける実在和声の検証分析の登場を時代の要請と受けとめていたにもにもかかわらず、概念規定は結局は定義放棄
     を正当化するものとして振る舞っていた。定義矛盾による技法論および書法規定は、このようにして「無根拠主
     義的規定=再現再生の断念」つまりバロック・古典派音楽と一致する「リアル・ハーモニー」ではなく、検証拒
     絶を真とするために、バロック・古典派音楽に実在する技法を変貌させた俗説的「ペーパー・ハーモニー」につ
     ながるものへと追い込まれた。

 そして、その通りになったのである。要するに、規則禁則を理論の枠組から切り離したことだけが「問題」なのではなく、それによって、歴史的存在概念を相互に認識する仕方までがそうした事実を遮断する認識環境に巻きこまれ、文化的教育的に価値のある思索をリードする人間的実現行為を実在的構造=環境世界を例外化してしまう逸脱_美しい街なかの樹木をなぎ倒していく無分別な行為を見ていもそれに対して無関心_疑似和声4声体書法(音楽からはかけ離れた機能不全的現実)_が実在の支配的な解釈になってしまうことが決定的なのである。 この事実遮断に端を発した「和声 理論と実習」の疲弊しきった禁則規定は、バロック時代の「代表的な作曲家_フランス_クープランとラモー、ドイツ_J.S.バッハとヘンデル、 イタリア_スカルラッティの音楽」に対応できなかった。
  では、モンテヴェルディ、シュッツ、そして、マレンツィオ、ヴィヴァルディのように、また、ムソルグスキー、ラヴェル、バルトークのように、よりいっそう和声的に、歴史的に存在した実在の本質に基づいて活動をしていた作曲家は、端緒の思索、あの雄大な射程をもった思索において、一方では、無制限に増大してゆく暴力性を縮減する能力が備わっていない非合理な禁則、そして定義が成り立つ根拠を説明していない限定についての認識という必要性を考えていたのであろうか。そうではない。
 和声学の実証的研究には新しい概念枠組をつくり、それによって特定対象に対する従来の解釈を眺め直そうという根源的な志向があるが、研究が飛躍的に発展を遂げるのは、いつもそのような志向がなされたときである。先にもふれたように、和声学が本来的な実在性をもたないときに、歴史的存在を検証分析してその構造を再定義すれば、伝統的な技法のシステム学修ができるのである。この定義される歴史的存在のことを実在性という。このような実在性の命題を第一義的に扱って構成された場の理論を「実在理論」、この理論と整合性がある、またその内容をもって古典音楽に存在する和声を、理論家は「実在和声」と呼んでいる。



# by musical-theory | 2024-03-01 13:06 | 和声 基本的前提