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2019年 01月 24日
理論家グラレアーヌス

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「 妥当性を守る教程 」


 構造的可能性
 理論家は創造的役割を担う必要があるのか否か、が問題であるなら、なぜ理論家は創造的役割を担う必要があるのか、について考えるのは何の矛盾もない。古来、歴史に残る優れた理論体系は、理論の現実性と有効性を保つために、「概念の本質的規定」を理論構築のための「必要条件」として取り上げ、そこから得られる多くの「分析データ」をもとに構成されるのが常であった。実際その象徴化において、概念を明確にする定義そのものが、まちがいなく文化的な実践、文化的遺産として評価される芸術の世界を基本的前提としているものであった。現代では多くの音楽経験論において、多様は人間の心の動きの基本的な原理をなすものと考えられている。多様性は派生的なものと考えられ易いが、人間は能動的にこれを身につけるという本能があることに注目する必要がある。理論を学ぶ者の立場になって考えれば、はじめの段階から多種多様な実践的事実を観察し、将来における音楽活動のための知識の有効性を見極める方法論を身につけることは不可欠であろう。
 規則禁則という定義によってつくられる概念規定が、「なぜ現代の音楽文化社会における古典和声の実際_人間が歴史の中で実践によって探究してきた存在すなわち普遍的妥当なもの_と違っているのか」、おそらく理論家はそれを説明する義務と役割は、作成者側にあると考えたにちがいない。旧態のような学習規則をつくった規則主義者に、「歴史的な経緯と表現者の表出に対する真剣な眼差しがあっただろうか」、「人間の無限に存在する創造行為の意味が、さらには合理的経験で得られる実在的認識がほんとうに洞察できていたのであろうか」。
 そもそも、紀元前のギリシャ音楽の研究のように、実証するだけの音楽が遺されていないため、仮説を立てるほかはないというわけでもなく、今日、我が国の文化社会とその環境において、古典和声について記述したラディカルな理論体系や認識論がひとつしかないわけではない。理論は、言語による定義において循環定義という無限に近い後退を避け、通常、実例に基づく解析資料を集めることで進化していく。次世代の創造的な理論家には、現代の音楽文化社会に創造的な演奏家が存在するように、さまざまな芸術作品の考察と分析を通し、そこから得られる一般的に熟知された対象の現象について論述可能な定義概念を見い出す判断能力が求められているのである。いまや、現実とつじつまの合わなくなった理論は困惑した不幸な姿をあらわにするのではなく、検証によって明らかにされた個々の現象をもとに諸現象の相互の連関・作用・関係を把握するために、すくなくともその理論構成の中に事実考察に適応させた「実践的プロット」を準備する必要がある。
 ルールを順守することの目的や有効性はほとんど誰にも分からない。定義自体が矛盾しているように、それを出発点とする論理もまた矛盾している。しかし、ルールに対する疑問が発せられると、規則主義者は自分でさえ考えたこともないような質問に驚いて答えに詰まってしまう。具体的な認識根拠を示すこともなく、質問の意味が分からないと言ってすり抜けようとしたり、そういった疑問は受容できるものではないと繰り返すだけで他になすすべがない。やがて、そんな答え方では「大人が考えた説明にはなっていない」ことに気がつくと、おもむろに「例外と名付けた収納箱」を持ち出し納得させようとする。そうはするものの、「どうしてそれが例外の枠組みに区分されてしまうのか」については正面から答えようともしない。いや、筋道を立てて説明ができないのである。
  「つまり、旧態の規則に拘束される美的体験は、人間のありふれた現実体験から得られるものではないからである。こういった過
   去において思慮分別のない人間が発してきた無効な論理を押しつけ、現代に生きる人間がもってまわったように限定制約を正当
   化しようとすれば、それは反歴史的な退行である。」
 過去をふり返ってみると、有効な現実体験から得られる想像力は、人間がもつ様々な感性や思考を交流させ、それを通じて私たちの思考活動を高めたりすることが可能であり社会に寄与するものであった。私たちに周りにはそういった文化的音楽的事例は数えきれないほどある。西洋 18 世紀_バロック・古典派の音楽に限らず、 20 世紀_近・現代の音楽、地球上のありとあらゆるエスニックな音楽、シンセティック・システムを駆使した未来志向のサウンド機能にもある。音楽がもつ多様さは、演奏者とそれを聴く者たちに快く受けとめられている。
  「たしかに音楽はすばらしい。音楽とともに生きることができる人間は幸せである。しかし、最初から限定しよう、などという態
   度であっては相手は何も語りかけてこないのである。まず、相手の全体を全面的に受け入れ認めることが必要であろう。その意
   味において、私たちはこの音楽環境の深々とした息づかいを単なる部分現象を取り出し普遍項として論じてみたり、正しい和声
   のあり方という要求の実現を通じて排除したり、時代認識もばらばらな古典的意味性や先入観によってないがしろにすることは
   できないはずである。」
 なぜ概念定義は確たる実在を無視し「その多くの現象を禁則といって規定するのだろうか」、この規定に関する論理の帰結も常識的な判断をすれば、最も貧弱な検証と分析的内容しか提示していない。したがって、人間の自然な思考において感性的本性の生み出す様々な表出を排除しようとする理論構成となる。そもそも、それらの実在は検証から除外され、無謀にも規則違反と定義されるようなものではない。それは、その現象を<有する和声>と<有しない和声>として判断される「構造的可能性」への認識の問題なのである。
 一歩踏み込んで考えれば、音楽関係の企業や法人を含むすべての知識産業は、それぞれの時代に重要な文化的機能を果たす芸術家たちが、歴史上に展開した美意識を学ぶこともできずに、創造的な表現手法の多くを例外と定義し、それを規則違反・禁じ手などときめつけているような人材を必要とするだろうか? というのも、文化社会はそれ自体が人間の感性や精神のあり方がいずれか一方だけに基礎づけられるのではなく、人間が実践した文化・芸術一般に対する相対的な言及能力を備え、必要最低限の社会性を身につけ個人の中に調和を育んだ人的資源を切に求めているからだ。


 実在現象の資源化
 実践的プロットの分析の有効な道具としての対象は、何を扱えばよいのだろうか? この点に関して、哲学者が主張する知識の体系形成のための規定概念を引用しておこう。「公理体系(自明であって証明なしに真であること)において矛盾が生じれば理論構成を行う意味は失われる。矛盾が無いことは独立性・完全性とともに、しかも、もっとも根本的で強い公理体系の条件である(現代哲学辞典_矛盾/杖下隆英、公理/大出 晁)」。それゆえに、限定をモデルとした理論が新たな直示的分析と概念定義に直面して崩壊したのは当然だといってよい。
 そのように身動きのとれなくなった概念認識と循環論法は、理論家たちの早急な体質改善の論議ならまだしも、理論の修得意欲をそいでしまうような「検証放棄」という問題にまで発展し、批判の対象となっている。この問題の真の所在は、和声学の前提としている概念規定とモデルが、歴史的・実証的・相対的な視点がないため、西洋 18 〜 19 世紀_バロック・古典派_たとえば、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの和声全体を捉えたいかなる構造様式にも当てはまらないという矛盾した点にある。こうした和声学の前提とは、伝統的な西洋古典和声様式の認識論に連動するものではなく、言説的論述の空洞化や学問的論理性の瓦解以上のことを暗示する。 20 世紀の音楽理論家V.パーシケッティも論じていたように、古典和声の事実の考察に基づく構造概念を規則禁則に縮小することは、音楽教育のなかにある底意地の悪い区別を反映しそれを増長させている。その区別とは、経験的実在から得られる「対象における実際的な構造特性」と、実践的事実を排除しそれは例外であるとする「規則禁則の矛盾を放置した概念規定」とのすり替えによる区別である。世界的に見ても、和声作成の演習において旋律(声部進行)と和音(和音配列)をここまで規制している音楽教育は珍しいだろう。その結果、事象に対する限定・制約に従う概念の適用、あるいは自己合理化のための正誤判断のかたちで、少なくとも対象全体を再生しようとするものではない特異な区分は和声学的分野そのものを劣化させた。
 明らかなことは、和声は聴くためにある。和声は聴くことによって理解されるという、普遍の事実がある。とすれば「規則禁則を知るということ」と「和声を聴いて理解するということ」とは、ほとんど無関係である。人間が当然知っているはずの基本的な知識を忘れてしまうと、人間はごう慢な態度になり、無神経にもなる。忘れていることに気がつかないと無謀にもなる。何の考えもなく限定という号令に従っているうちに、いつのまにか自分が、以前よりも一徹で感覚のとぼしい人間になっているということはうっかりしがちなことである。自分の感覚が自分のものでなくなるとき、もはや和声を和声として感じなくなってしまい、かつて自分は何をもっていた人間なのか、また自分は何を無くしてしまった人間なのかさえ分からなくなり、やがて自分を変えようとしなくなるのである。
 スイスの音楽理論家であった H.グラレアーヌスは、著作「ドデカコルドン_12 弦法」のなかで、音楽を多様化した伝統的な音組織の検証を行い、音楽は規則禁則などで作られていないことを、古典の分析に基いて実践的なあり方を説明しようとした。さらには、芸術の価値判断と実践的表出法の学び方についてつぎのように呼びかけている。

 「ジョスカン・デプレの音楽は、私たち人間にとって “ 他に比類なき贈り物 ”である。もしもこの男が、生まれながらにしてねじ曲がったあるいは過激な性格によってごく限られたことに応じる便法だけを身に付けた人間であったなら、このようなより壮大で崇高な音楽を生み出すことはできなかったであろう。ジョスカンは融通の利いた鋭い洞察力と精神力を備えていたので、専門的な職業_作曲_において出来ないことは何もなかったのである。それを考えれば、それに違反しているからといって取るに足らない些細なことにはこだわらないようにしよう」( From the Dodecachordon Book three _ Chapter 24 _ Examples of the Paired Combinations of the Modes/O.Strunk_ Source Readings in Music History)。

 これこそ グラレアーヌスが教えてくれた音楽の見方なのである。彼の理論家としての、また、人文主義者としての学術活動の原点には、事実の現実性や有効性を疎外する規則主義者への批判があり、その対極にある芸術作品と共に生きている人間への尊敬と共感を語りながら理論における音楽という現存在の認識根拠とその過程を私たちに問いかけている。グラレアーヌスは理論統合に芸術学・論理学的関心を集約させた。だが彼の考えは、従来の理論との矛盾を対置させるだけでジョスカン・デプレが実践した表出は「誤り」と判断する軽薄な手合いとは異なり、実は中世の「De institutione musica/Boethius 音楽教程 」「Scholiaenchriadis/Anonymous 音楽の手引 」に言及されている「音楽理論の危機意識」を共有するところに由来していた。彼に言わせれば、他の人間が言い募る「正しくない」という理論の基本的基準は、すでに概念形成の発展には役に立たない_「当時の音楽理論内部にある時代に取り残された概念規定によるもの」_という認識であった。そして、基本的基準の問題は人間の自由の問題であり、責任の問題であった。現代においても、この危機意識が音楽理論の再生に不可欠という発想はあらゆる理論構成の基盤となり、和声学のテーマとなる分析状況は、事実の検証に基づく現象間の存在機能を洞察するに際して、その直接的な探究に現実性と効用性つまり基本的知識を確保しようとする時代に入っている。それは、つねに相対的である「概念的方向」と「視点」をもたらす「人間知識の起源」および「合理的経験論」「可変的一般原理」という、実証的研究に依拠する新しい時代の理論構成といえよう。和声学基礎論の理論と演習にとっての壁とは、そのことに気づいていながら、平明な方法で古典和声のさまざまな実在における事象現象を「資源化」できない点である。
 この基盤となる「基本的前提」_進んでいく場所_と_ものを考える立場_を「基本的基準」が支えないでいったい何が支えるのだろうか。幸いにも、歴史上における卓越した理論家たちは私たちがあまり失望しないように、和声学の妥当性を守る教程に支えられた知識の体系的構造を通して温かい手を差し伸べてくれているのである。






by musical-theory | 2019-01-24 12:34 |     08 - 理論家グラレアーヌス
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