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2019年 01月 24日
分析状況

05 -
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「 認識基準の定義 」


 本源的論証
 現代の理論家の多くは、人間という歴史的存在やその思考と選択による実現行為の過程を、先験的な概念にすり替えてしてしまう規則禁則論の説明全体に警告を発している。学習経験者は聞いたことがあるだろう。たとえば「和声学にはこの音はこの音に進行しなければならないとする`規則`がある」という説明の後に、しばらくすると、「みなさん、大作曲家たちは本当のところ、こういった規則に従って創作活動をしたのではないのである」という言説に至るものである。そして「歴史上に遺された音楽作品、あのJ.S.バッハの4声体コラールは実にすばらしい」と口をきわめ賞賛していながら、「しかし、そこには`規則`を守っていない現象が数えきれないほどあり、それを見習ったりすれば、実習の学習効果が著しく損なわれるので、参考にしないように」といって排除してしまう。これらの言葉は、1970 年以降、流行語にまでなった。先にふれた「和声学の根本問題」では、「事実存在」と「本質存在」の論証がとりあげられ、そのそれぞれの概念の由来は問題にされていたが、この論証そのものの由来は論じられなかった。

 そうした学習目標は、限定と制約にとらわれた書法`Web_和声 - Wikipedia`を指し示し、「この`原則`に従うことが基本」と述べている。古典音楽や実在検証という道筋がないところに、さらに、この`原則規定`に向けられる質問にあわてた答えは「`実曲中では、規則は無視されることもある`」と続け、実在に対する定義欠落をさらけ出したのである。
 「実在が論証されて事実存在と本質存在になる。この論証とその準備作業とともに、和声学としての「存在の論述」が始まる。事実存在と本質存在の論証の遂行は、単なる限定的概念の認識と定義といったものではない。それは「実在の歴史」における「実践構造の本源性」を示している。もし、ある規則についての判断が事実であることをはっきりさせるために、その根拠となる分析資料も提示できない`原則`が「理論体系」を成立させているのだとしたら、当然そうした和声学の論述においては、原則の由来を明らかにすることどころか、それを問うことさえできない。

 概念定義は、すでに存在している「実在」の助けを借りて、歴史的・実践的実在の分節を果たすことになる。その意味では、概念定義が和声を語るというよりも「実在が語る」のであり、概念定義はその実在によって考えさせられているのであると言った方が実態に合っているといえる。つまり、和声学は実在という生成の場へ眼を向け、そのあり方と連動することによって、実在に随順するのである。コステールは「あらゆる技術的な訓練を積んだ人たちが規則の無効を宣言している」と述べているが、これも同じ意味である。では、和声学の基礎と言われてきた機能和声の説明において、`それは無視されることもある`とはどういうことなのか。この無視が規則違反を指すことはすでに明らかであるのが、この無視という規則違反に`原則`はどのような意味を認めようとしているのか。そして`実曲`とは、バロック、古典派、ロマン派音楽のどれをさすのか、また、どのような作曲家のどの作品のことなのか。その作品は検証されているのか、いないのか。

      なんと音楽を愚弄する`原則`であろう。それは情報皆無の`和音の進行`である。作曲家が守らないことも
     ある`限定規定`と、実在とはまったく逆になっている`禁則規定`しか示さない未熟さ、古典音楽に向けられ
     た傲慢な存在否定のあらわれである。それと同時に、楽曲分析体験の少ない人間には概念の抽象は困難であると
     して、規則の説明において事実を検証する過程がないのも、ある意味では古典音楽の私物化である。

 時代状況を相対化することのできない原則論は、元の対象からばらばらに引き離された`規則`の話はできるが、実在論的機能についての一般常識の話はできない。とくに、現実在という概念認識と概念定義が明確になった段階以降、常識の話というのは質の高い言説能力が問われるようになった。どのような話に発展するか分からない「問いかけ」を受け、それに対して「答え」を返す機転が必要になるといわれている。
 機能和声の`声部の書法`にあらわれる常套句_たとえば`例外規則`という用語は、結局は不明確な説明に落ち入り、試みられた演習内容も無惨な結果に終わったことになるが、`原則`からすれば「多様や変化は実在しないもの」あるいは「限定規定以外の実践的実在は"蓋然性"からはずれている」、という意味であろう。とすれば、バロック_モンテヴェルディ、J.S.バッハ、ヘンデルの創造が完了し安らいでいる和声は、「よくわからないもの」と定義されることになる。この定義のもとで実在認識がおこなわれるようになると、古典派_モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派_ショパンそしてシューマンやブラームスの和声は「ふつうの様態から逸れているもの」となってしまう。先ほどもふれたように、`例外規則`は古典和声の概念的本質を拒絶していたのである。
 それは、実在和声における理論的体系構造が概念定義の誤謬に敗北した構図である。いいかえると、実在和声についての概念定義が他者認識の弱い衝動論理の前に屈服している姿である。和声学の歴史のなかで、この実在を明らかにする概念定義は、オルガヌムの音程和声から中世ルネッサンスでは音程と3和音和声へ、さらにバロックの和声においては3和音の和声へと変わっていくが、その後を引き継ぐ古典派の調和声、ロマン派の拡張的調和声そして印象派の混合和声によって現実に生成された「実在概念」の優位は揺るがない。だが、その`声部の書法`は狭い舞台で、退屈なひとり芝居を延々と続けることが多くなっているのではないだろうか。
 そればかりではない。象徴事実の概念定義は、「何を対象にしてどのような問題を提起するのか」さらに「実在的な事象現象から何を数え入れるか」の実質的な認識基準をまるごと放置し、編者が理想とする4声体書法の内的決定の支配下に置かれた。したがってまた、声部の書法を範例とした疑似和声も長いあいだ晦瞑の域を脱しえなかった。すでに学術的な意味において、その定義の「端緒」においてさえ価値が問われた。つまり、和声学は、実在に由来する本来の知識体系は崩壊して、実体概念が消滅するような限定制約を規範とするものになるほかはなく、「現実的な事象現象の概念的本質とは何か」という命題は、検証手順が省略された和音の進行、限局的な限定進行や禁則、要するに、事実の存在(実在)と本質の存在(実在性)によって基礎づけられるその根本概念が無視される疑似概念にまで格下げされていたのである。

 事実を受け入れることは困難なことである。私たちの知性には人間の思惟・存在・実践に近づくのを妨げる偏見が巣くっている。その偏見は、古典音楽の壮大さや微妙さには到底及ばないとき、自分の本性に即した一義的な枠をはめたり,古い知識に動かされてありもしない限定的な概念を考えたりもする。それゆえ、私たちは絶えず「基本的前提」となる人間の実現行為によって立ちあらわれた対象と行き来して、検証分析を繰り返し「実体概念」の本源的論証による確認が必要であろう。それが概念的本質の実証研究ということである。それは再生の一形式である。検証において事実を私たちに教えるのは感覚である。そのために,たとえば古典和声が「包摂」している実践的な「実在性」を理論と論理のための認識基盤とするなら、それは私たちの聴覚に対する現実的な再生の一形式にほかならない。検証によって確かめられた構造特性をさらに確かめるために分析が行われる。分析もまた再生の一形式である。そうすることによって、その実践的事実の現実性と効用性が検証分析において実証されれば、それが「一般原理」になるのである。
 大作曲家の和声法のすばらしさとは、芸術作品を必要とする作曲家、演奏家、評論家、聴衆の頭をいっぱいにしている様式や表出の本源性、つまり相対的なあり方の正統性をさまざまな方法で実証してみせたことである。もう1つ付け加えておけば、実証的研究によると、すべてに先立ってまずあるのは可能性である。和声法は、人間の本質へのこの可能性との関わりを完成させるのである。その和声法が、歴史の一部になることだけでなく、自分の生きる時代を豊かにし、また先入観や固定観念を超越する論議を提示し、どの時代にも、どの世代にも属することなく、すべての時代のすべての世代を代表できる存在概念のひとつの例を私たちに見せてくれたことである。それは歴史的・実践的実在についての論証にほかならない。つまり、後の時代につくられた超越的思弁あるいは先験的基準などで計られる`原則`があったわけではなかった。和声法は、伝統としての存在(創造性)と人間的な思惟(能動性)を自らの実践によって具体的・現実的に統一させることができる、という本源的論証なのである。
 そこで、「和声学の概念認識」の根本問題と「相対的な専門知識」の梗概とをとりあげながら、楽曲分析の実情を再検討してみることにしよう。


 事象現象の解釈
 学習者ひとり一人は若さゆえに無力だが無能ではない。惰性化した規則的環境は、学習者たちの精神的・身体的状況と常に相対的である事実を否定し、その人間的で瑞々しい感覚をむしばんでいる。古めかしい和声学にしてみれば、実践的方法論上の諸問題を理解可能にしたのが学習規則であった。しかし、演習の前置きとして「誰もが認めるように音楽芸術は本来開かれたものだ。とはいえ、学校和声には守らなければならない規則がある」という心ない語りかけは、どうしても初心者を面喰らわせる。だからといって、そこから新しい視点による新しい理論が生まれているわけではない。もっぱら学習規則を理解しそれを実行さえすればこうした疑問が根源的にすべて解決されると指導しているが、しかしその指導は疑似和声や原則に対するものであって、実在が語る基本的特質そのものに対するものではない。あろうことか、このような規則が認識できていないという理由だけで試験の成績評価は不合格となる。このことによって、「和声学は古典である芸術作品とは何の関係もない講座だと思っていた」と考える学習者が増加する一方である。この論理破綻的な認識状況を見ると、彼等は、どんな問いかけにも対応できる専門知識、問題解決と学習の能力を高めるための情報資源の恩恵から取り残された人間であるといえよう。要するに、規則でつくられた軌道上を全速力で走らされているのである。和声学はここで「アポリア的な性格」をあらわにする。これと同じように、「近代の作品を対象とした実証的研究において、フランス印象派の諸作品を、カントゥス・プラヌスによる旋法的可能性を放棄して、近い将来解体廃止されるであろう特殊な和音表記でもって分析したところで、創出特性を明らかにすることはできない」のである。そういった言説的論述の形成過程には、必然性も妥当性もない。

 _印象派和声の楽曲分析_あえて例をあげれば、芸術大学や音楽大学の学士・修士論文には、近代和声の論述のための作品分析において「前時代的な調性から離脱しようとした想像的創出の過程」、「旋法的可能性を復活させ属音機能がもたらす類型化を防いだ構造特性」、という古典派・ロマン派音楽とは異なる印象派音楽の自立した概念が基本知識として存在しない。様々な理論を取捨選択する能力も様式分類能力もなく、たとえば、「古典派音楽における調構造」と「印象派音楽における調構造」との概念が違えば当然異なるはずの和音表記など、なにもかも「一緒くた」である。こうした文化的遺産排除の理由や指導手順が見えていない負の連鎖は、他の音楽部門はもとより、一般教養科目_哲学・美術・文学_担当スタッフですら気づいている。その結果、「印象派およびそれ以降の 20 世紀に生成された楽曲の分析」についての「調査の報告書」は、佶屈した検証と狭い領域の局所分析、さらには、そのテキストでしか意味をなさないという理由から実在認識が消滅した楽曲分析の方法ということになる。なかでも、借用という意味を示した和音表記を読んでみると、なんとも面妖な和音の解釈である。
 周知のごとく、ドビュッシーが印象派の作曲家であるなら、その和声は古典派・ロマン派の和声ではなく印象派の和声にほかならない。音楽史において明らかなことは「印象派ドビュッシーはヴァグナーのトリスタンの先を訪ねはじめる。その先に、彼のスタイルと語法を確立する。それが、調性(狭義)的な和声法の中核にある機能的関連から音楽を解放するものであったことはいうまでもないだろう」(ドビュッシー_大音楽家・人と作品/平島正郎)。さらにまた「ドビュッシーが創出した様式は18世紀の和声様式とはちがうものである」(Impressionism in Music_Music in Western Civilization/P.H.Lang)。すなわち「その基本的な要素は、和音は前時代的な和音進行の解決を通して緊張と弛緩によってフレーズを形成するために用いられるのではなく、響きの単位として表出されたのである (New Currents in France_A History of Western Music / D. J. Grout)」。新しい和声概念に対する彼の強い関心は、そこに帰結する。

 和声構造の特性には多様な音組織についての象徴概念や認識規準があり、作品研究においては歴史に沿った個々の構成原理をわきまえた楽曲分析が必要とされる。さもなければ、人間の様式への概念認識は変化も発展もしない、ということになる。もっとも、実証的研究が中世オルガヌムまで視野に収めたた音程と和音表記法をまとまったかたちで提示するのは、1990年代半ば以降である。


 システムテスト
 あやふやなまま、長い間これほど放置された「楽曲分析法」も珍しい。翻って考えてみると、こうした分析的環境は閉鎖的性格と結びつく傾向がある。しかも、事実還元のための基本的基準となる限定制約の規定はどこへ行き着くのであろうか。それは規則違反および禁則という正誤判断と評価にもとづいて、徹底した実在否定をもたらす閉鎖性であると現代人は指摘する。つまり、限定制約を基本的基準とした分析法は、もはや時代に合った知見を見きわめる情報化社会のターミナルとして機能する能力を問われることはない。とすれば、この点で現代的な和声学研究が受容する学問的事実はどうであれ、これまでの慣例に従っていれば何をしてもよいという分析の方法は別の問題に直面せざろうえない。分析の労力は認められても「分析それ自体の質性が疑問視される」、という問題である。元来、世界水準(グローバル・スタンダード)を目的とした楽曲分析法は、日本の和声学の場合、規則主義者の観念の中心に潜む単なる自己撞着に陥ってしまった。ということは、規則を認識根拠とした原則と、それを基準にした演習が同一コインの両面にすぎないことを理解していないために、人間の素質や能力という合理的な可能性が活動する現実的な経験論を提供できなくなったことを意味する。 しかし、 21 世紀に入り、基本的前提となる対象の基本現象を明らかにする方法論は、現代の私たちに対してもつ客観的実在性の意味とは何か、また、実在性検証の遂行をこれに関連してどう捉えるのか、ということが新たに問われ、事象現象の事実と和音表記を含め概念的本質の定義では、特定対象からどのような「分析結果」を導きだしているのか、また、その「分析結果の選択」をどのような方法で行っているのか、さらには、それを「どのような_分析状況_」をもって記述しているのか、といった問題が命題的に論じられるようになった。
 実在性から得られる柔軟な概念を身につけるための「場」の選択は重要である。しかし、その認識論は「理解可能な音楽文化との共存」を認めるものであり、それゆえ、和声学が「歴史的実在」と「経験的実在」の分析を放棄するとき、理論体系は規則禁則に変貌するだけでなく唯一性概念に停止してしまう。このような概念認識を理論や演習全体に敷衍したところで、はたして和声構造がうまく説明できたことになるのであろうか。私たちの周りに存在する楽曲を聴いても分かるように、「属和音および属7の和音_導音・第7音は限定進行音」「導音・第7音重複および並進行(連続)5・8度は禁則」という概念規定の方向と視点の固定化は、どのような説明をしたとしても、事実のうちに見られる本来的実体概念を受け入れようとしない点において「致命的な欠陥」をもっている。
 声部書法に原則とし示される限定進行と禁則は、開かれた和声の本質は説明できないことになってしまう循環定義であり、人間によって知覚される事象現象に対して、常にその一部分しか把握していない局所的概念に関心を向けざるを得なくなる実在否定が含まれている。したがって、人間の素質や能力を活動させることができる実在和声の本質を目指した概念定義によるものでもない。むしろ問題なのは、その規定は古典和声の生きた経験を再確認する譜例を排除し、現象がそれなしでは考えられない性質という「属性」を誤認しているということである。なぜなら、はじめから一義的な限定を強制するような古典和声などけして存在しないからである。和声の場合、長い歴史のなかで作曲家たちの首尾一貫した「システムテスト」によって、つねに可能性の活動状態である能動的な「実在性」が現実的・具体的に創造されてきたからである。
 たとえば古典和声の実践を能動的なシステムテストとしよう。発展して進化したバッハの和声は実在性である。このバッハの和声を継承する次の時代のモーツァルトの和声から見ると、バッハの和声もシステムテストによるものである。このモーツァルトの和声という実在性も、和声の世界から見れば、能動的なシステムテストによるものである。このように、専門的な和声学においては、音楽に与えられた自然観を基盤にして、検証による実体概念と連動した能動的なシステムテストは実在性となることを目的とするが、実在性はふたたび目的を実現するためのシステムテストとなる。






by musical-theory | 2019-01-24 12:37 |     05 - 分析状況
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