人気ブログランキング |
2019年 01月 24日
人間能力の根本原理
04 - 人間能力の根本原理


「 概念的解明 」


 成立根拠
 和声現象の多様は多数の実践的事実によって説明される。その実践的事実を語るためには、その事実を現実的に理解可能にする何らかの場を必要とする。言い換えるなら、事象の事実は様々な現象が関係し合って、一つの機能的な全体を生成していることを示しているからである。したがって、他のもの_個々の現象_に対する確かな認識根拠とその過程の説明がなければ、対象の概念の規定やそれに対する概念の適用の説得力は失われる。たとえば、旧態の和声理論には事象の事実を示することもなく、実体概念の内包は検証もなく放置されたままになっているが、この概念的方向とその視点は、規則主義的な考えにおいては超越的思弁の十分な対象となり得るとしても、説明的思惟の役には立たない。その意味で普遍的・恒常的であることからはほど遠い。しかも、表出にとって人間的思惟に対する特殊な正誤判断によるものであり、そこには理論的にも論理的にも、それが事実であるか否かを見分けるための基準的弱体化が生じているといえる。
 理論とみなされていたもののうちに、すでに目的が実現できているといっても、依然として進歩発展のない理論がそれ自身で自己目的と化することによって空洞化現象が起きている。これらのものは、やがて音楽家や研究者にとってその存在意義を失い不必要なものと化する。とりわけ考察と分析領域を故意に狭める特殊な理論構成は、それが掲げる知識の体系的構造を明らかにした理論という建前にもかかわらず、最終的絶対理論の思考論理に引き寄せられて行く誘惑にさらされてきた。経験的世界の事実のなかに概念的方向を読み取ろうとする和声学が成立可能であるとするならば、西洋 18 世紀_バロック・古典派和声音楽の一般的な対象全体の完全解明なくして存在意義は望めないとした規則禁則による理論と演習は、その考えを示す思惟的動機を全面的に失うであろう。別の言い方をすれば、絶対理論の論理が規定した概念的方向は、私たちに対する対象の関わり方を示した認識基準となるものではない。このことはいわゆる理論と演習は古典的な芸術作品には関係がなく、それに関連しているものではないというレヴェルの論議にはならない。それは、音楽文化論および音楽教育論に関わる世界観と結びついた新しい概念形成に対する拒絶であり、すでに現代人が理論情報としてもっている様々な現象・事象・要素に関わる各構造間の関係がどのように存在するのかを、和声学的手法による分析についての思惟説明がなされていない、というだけのことである。
 これまで述べてきたような事実に対する誤解はすべて、規則禁則が主張する「先例主義的な概念定義」、論理の飛躍した「自然な概念認識への必然性を原理的に解明することの否定的言説」から生じている。古典音楽を創造した作曲家たちの作品に対して、丁重な断わりもない例外箱の持ち出しには、事実論証の量と幅が広がっていく中で「ルールは普遍」の説明が正当化できなくなり、ほんとうのことは隠したい、という思惑が透けて見える。とすれば、限定進行音・禁則のルールは、現象の差異が自己批判的機能を失った正誤判断によって相対的特質の片方が排除され、その実体概念の本質的規定が操作されてしまったものなのである。
 概念規定の歴史は、いままでに、音楽的な事実を和声学的な事実として扱ってきた。しかし、和声について「理論的な定義」を行なおうとする場合、とにかく「事実」の問題を扱わないのであれば検証は前に進まないだろう。事実検証というものは、つねに「考察される事実」または「分析された事実」のいずれかの形をとる。それは人間的な思考と行為の産物であり、また何らかの言説を残すことから論議の対象となるものである。検証による概念規定の言説は単なるルール的なものと同じ意味におけるような概念規定ではない。つまり、和声学的な概念規定の言説は他の対象すなわち検証される音楽的な事実がなければ成り立たないのである。
 検証分析を伴わない理論はともすると一人歩きする恐れがある。序章からルール主導という過程を歩ませ、画一化された基礎論の現状は、大作曲家が実践した和声法の実例を示すこともできず、例をあげれば、古典作品の事実が認識不可能に陥るとなると、機能論的思考が実体論的思考への配慮を無視しているために虚構のもとで病理を重くしていく一方である。と同時に、楽曲分析に関する音楽大学の学士研究論文、大学院修士・博士課程のそれは「基礎研究や論述基盤となる基本的前提内容の質性」、また「検証データの分析レヴェルの信頼性」を低下させ、「和音表記」を含め国際的水準にさえ達していない事態は何が原因なのだろうか。その原因として、表出をできるだけ限定制約することによってその表出の完全な実現を期待する、という疑似和声の概念定義による規定内容の閉鎖性の問題がある。可能性が多ければ多いほど、可能性への能力不足によって思考停止になる率はそれだけ大きく、表出概念の形成過程には実践能力に対する要求をできる限り単一化する和声的認識の固定化があるからだ。とはいえ、単にその次元だけで済む問題でもないのである。これは「表出の世界をありのまま開示することができない基本的基準」や「対象の諸現象を否定する疲弊した基礎論」の問題にほかならない。

 私たちは過去の遺産を掘り起こしそれを再生することで自分となり、その自分を次の世代に引き継いでいく。歴史的・実践的事実を思考するということは、連続して奥深い世界へ開かれているものであって、誰でもそれに近づく可能性において自由である。和声に関する理論は特殊なルールの累計的な集積ではない。しかし、旧態の機能論的思考が、分かりやすいことだけを求めて、客観的実在性に対してどこかで線を引き実体論的思考を断ち切っていたのではないだろうか? 日本の1970 年代の和声理論の問題を論議できない潮流にも、具体的な事実領域への顧慮が欠けており、それに対する認識は希薄であった。一般的な和声理論の妥当性・確実性を踏まえれば、柔軟な思考能力をもった現代人は事実と合致しない規則禁則を思考の原動力にすることをやめてしまったのである。古典音楽とのコミュニケーションが途絶えた前時代的思考法が、その考察と分析を基盤にする直接的な実証研究の現代的復活に置き換えられ、規格理論や感情理論に依存する理論と論理は、再構成されるようになった。旧態依然としたルールを再確認することは、そこに留まることではなく、限定や制約の成立根拠を明らかにするとともに、観念的世界観を克服することであろう。我が国の和声理論の基本的基準に関わる指向にありがちな、和声現象を倍音共鳴論の部分適用だけですべてを解釈しようとする立場からの脱却である。


 反転している検証結果
 まるで他人事だ。旧態の機能理論による知識体系の限界がこれほど批判されているにもかかわらず、その公理や定義が対象の概念規定における結論を導きだすための判断条件や、他のものと区別するための基本的基準とされるのはなぜか? また、私たちが実際に体験する古典音楽の事実と矛盾する限定・制約が、いまもって正当化され続けている理由は何か? こう問いかけたくなる音楽人は多いだろう。その問いかけが起こる原因は、現代の実証主義的な研究結果を受け入れ、実在を再検証することもなく、規則主義者が、カルト的に、 19 世紀的機能理論の立場を唯一の理論情報として取り入れ、実体概念の本質的規定の認識根拠についてみじんも疑いの念を抱かなかったという点があげられる。そのうえ歴史認識の不足によって生じる誤った象徴化を見過ごしてしまったからである。 20 世紀の理論家に言わせるなら、一般的に、本質的概念規定は経験的実在に向けられ相対的な視点から行われるものであって、もはや旧態の理論に示される事実検証とそれについて述べている言明もない禁則・不可などという概念規定は存在しない。この観念的に論じられる規定は、時代の移り変わりと共にその事実誤認に対する厳しい指摘によって窮地に立たされているのであり、いまや古典音楽を対象とした検証結果それ自体がすでに反転しているのである。
 たしかに和声学の理論や論理もその演習も、工夫のない紋切り型に寄りかかった偏見をそのまま繰り返すだけでいまさら「もの」の役に立つようなものではない。根音5度進行による属和音機能を機械的に濫用する何もかもがそこに集められてしまう特別な概念、たとえ話でしかない借用という和音解釈、全体からみるとひとつの現象でしかない限定進行、そして、多くの実態を厳密に考察していないためにそう思い込む正誤判断、明けても暮れてもどれも同じ鋳型のくり返しでは和声学が面白いはずはない。問題なのは、従来の和声学において 19 世紀的な機能理論と日本の規則主義者が考えら限定・制約が完成された絶対理論として強引に位置付けられるところにある。ことあるごとに古典音楽の実践的存在は和声学とは関係がなく馴染まないものであることを強調して、定義の正当性を確立するために芸術作品から距離をとり、古典音楽の事実は例外的概念とする規定である。言い換えれば、現代の文化社会が認める芸術作品の和声の創出法を、歴史的な伝統性および現実的な法則や原理をもって行われるのではなく、その認識根拠とその過程が思弁的な規則禁則でもって行われるとする認識基準である。
 学習効率を競う規則主義は、手間が省ける事実認識の曖昧なものを選ぶ。勢い、ひとつ覚えで演習のできる安直なルールを重用する曖昧なものも出てくる。このようにして私たちが求める認識根拠には、事実の偽装という「すり替え」が素知らぬ顔で同行することがある。見抜けない人間を責めるのはたやすいが、古典の隠ぺいで成り立つ理論は危うい。とはいえ、音楽が音楽である限り、どんなに理論形成の方法を整えてもミスは起こる。ときによると、機能論的思考が実体論的思考への顧慮を忘れた世界観は事実の概念化において考えられないような誤りをおかす。それゆえ中世以来、理論構築において一般的な古典を対象にした事実考察と検証手続きという防止策が立てられ、その対象と分析状況の如何によっては規定全体の真価が問われた。対象との関わり方を芸術に携わる多くの人が論じてきたように、他の学問と同じような重みをもって存在する和声学の概念規定は、私たちの能力発展のための確かな認識基準となるものであった。もし、認識の根拠づけとなる一般常識が抑圧を受けたり、視野の狭い粗野な知識を強いられるようなことがあれば、それは理論的成熟からほど遠い状態にある。
 その原因は、単に「理論体系の矛盾」の問題だろうか? そのような原理しかもてない「和声学の主体性」の問題なのか? あるいは現代の音楽文化を意識した「基本的基準」に必要なものは何かを検討できずに、思いつきや便法だけで走りまわる「概念の適用」の問題なのだろうか? ともかく誰もが自覚していることは、和声学はあくまでも音楽理論における主要なカテゴリーであるという現実である。その役割をより明確なものにしようとするなら、「音楽性とは何であるか」を論述するために「人間の音楽的行動とはどのようなものであったのか」について、私たちはあらかじめ認識しておく必要がある。


 実証的論述
 限定という日本的形態の和声学においては、概念規定の再検証は決して行わないという不文律が常態化していた。つまり固定概念を変えようとしない認識構造がある。しかし対象を概念的に規定するということは、私たちに対する対象の認識方法を実証的論述で明確に説明することであろう。たとえば、導音進行に関して主音へ上行する現象だけを集め、まとめてひとつの導音の概念をつくることもできるが、私たちがそのような概念をつくらないのは、それが認識の発展には役に立たないからである。それにしても、概念規定に向けられる方向もしくは視点は、芸術作品の多くの構造とは無関係であり、本質的に体験的実在の芸術的な表出価値をもたないものという論理の意味を考えると、私たちはそれに答えることなく話をそらしたまま通り過ぎるわけにはいかないのである。さもなければ、その象徴的概念の独自性をとらえ損なう危険性が生じてくる。
 もし、発想の幅と量がきわめて低いルールは単にユーモアの類いであるというのなら、いっそのこと、そうした趣向(便法)を意味するサブタイトルを付け加えればよい。それは、現代の音楽文化に対する社会性もなく、規則主義者が執拗に発している概念規定によるものであって古典的事実ではなかった。もっとも、こういった限定・制約が私的な経験則上どんなにすばらしく見えても、あるいは見えるからこそ、実践的世界観を放棄する理論と演習の基本的基準になってしまったのである。この概念規定は、多様なるもの実践的存在を考えるための、ある一つの現象をルール化したにすぎない。それゆえ、ルール自体が事実を事実として論述することをあきらめてしまったことを理解している人間が、「こんな学習をさせて何になるのだろう」と嘆くのは日常茶飯事である。彼等は、浮かれた話に横たわる理論の理不尽な内実を見てしまった人たちだ。「概念規定において一番不思議なのは、対象に対して一体どのような分析を行ったのか」という疑問を、また、そこを明らかにしない不透明という意味では証明のない先入観と一緒であり、「規則禁則論つまりそこに認識論を欠いた限定進行音」という概念、さらには「機能論的思考から逃避する偶成音」という定義の看板倒れを感じている。
 こういう理論があらわれた後には必ず難問が山積する。たとえば、理論には、諸現象の象徴化の論理的言説において「ある現象がルールになるまでのプロセスはどのようなものであったのか」についての説明を行う場合の基本的な問題がある。つまり、事実に基づく直接的な証明もない認識方法はもとより、その世界で実際に機能している諸現象を禁則・規則違反と定義するルールを指して、「古典作品の美しい響きを分析したら、それがルールとなった」「それは美しさの普遍的なものである」という、実践の事実説明を放棄している概念規定だけが構造的な認識基準として提供されるために、その現実性と有効性とを確保しようとしてもそれができなくなる大きな問題である。
 以上のようなことを考えあわせてみると、歴史的・文化的に容認された芸術作品のさまざまな和声構造を拒絶することで、論理的矛盾を抱え多義的な価値を見い出せない定義は、普遍的な原理の発見や知識の基盤を経験的実在に求めず、唯一論の論理に合った括弧付き条件を示し規則禁則を使い分けているのである。こんな表と裏のあるやり方では、いかに巧妙な手法を用いたところで満足のいく言説的論述は得られないだろう。したがって、現象の部分的な概念化に依存する理論とその概念を前提にした演習には、多様性を統一性として理解する能力育成のための定義概念は構築されていない。というのも、現代の知的状況下において、芸術作品における実践と和声学の象徴的概念とがこれほど相反するのであれば、耳を通した現実体験で得られる現象の本質を論じることなど到底不可能なのである。一方を立てれば他方が立たなくなるからだ。機能理論、そしてエクリチュールにおける「何を対象に、何を認識方法として、どんな立場で命題に立ち向かうのか」という言説が明解でなければ、所詮そういった理論の質性は、他性をかえりみず前後矛盾したことを述べ、しかも、対象と概念の関係は擬似的なものから媒介されたものへと変化し、実践的事実の多様性・変化性を確保しようとする実証的思考は希薄化していく。歴史はその矛盾をこう形容していた。「規則禁則に奉じる唯一論を徹底的に信仰する規則主義者は一見してゆるぎない信念をもっているようだが、それが何であるかが分からない」。
 ところで、人間が変化することがなくなる時はあるのだろうか? そのような時があるとすれば、その時とは歴史の終結した世界なのである。人間が根源的に実践的存在として変化する限り、また、文化社会が独自の芸術を創造する限り、観念的な人間の行う象徴化は暫定的な言説にすぎない。その意味でこの言説は、人間の聴覚に備わる普遍的な能力かつ共通感覚の決定的な無化をもたらす。ここでは人間的なロゴスも消滅する。歴史性や具体的な実例を中心として組み立てられる現代の実証的理論が、歴史の終結によって閉じられてしまう定義概念を学術的に受け入れ難いとするは当然であろう。
 和声学に関わる「言動」の意味は単なる私見の釈明ではなく、将来的に教示する象徴的概念が理論発展のための内容として適当かどうかが評価される。和声学が究極において音楽文化社会に実在するものについて洞察し、それは対象の現実的な法則を見い出すための確かな認識方法であると論述するとき、理論は西洋における古典作品と伝統的に継承された理論史を考察することが和声学の大前提である。これに反し、その作品の考察や分析は、また歴史的経緯の考察は本義ではないといって人任せにしているにもかかわらず、「望まれている概念規定やルールは古典音楽における正しい和声のあり方であって、それに関して誤りはなかった」と強弁を張り、その正統性を擁護しようとする規則主義者や理論解説者が今もって和声学的唱導の先頭に勇み立つ由々しい問題がある。芸術概念の美的な価値は、規則禁則による正誤判断の試練を受けなければ、それを学んだことにはならないという見方は思い込み以上のものではない。換言すれば、実証的研究によって得られる多数の現象を排除する唯一性の概念は普遍であると決め込む理論と演習が存在したことを物語る。しかし、このような概念は、超越的認識論の対象となり得るとしても、古典音楽の事実に関わる説明的思惟の役には立たない。そこには歴史がある時点でその動きを停止し、人間の経験的実在から得られる一切の実践を放棄し、同時に事象の定義においては現象のどれもが同じ現象と捉える不可解な混同が見られる。この混同は、西洋 18 世紀_バロック・古典派の和声はもちろん、それ以前それ以降の歴史的・実践的実在を忘却したルールによって構成される概念定義において甚だしい。つまるところ、人間の文化的繁栄を示す顕著な古典音楽との出合いの中で、実体概念の検証と本質的規定を行う意味さえ失いかねない、しかも、事実の認識方法を考える思惟動機を排除するため、大作曲家たちが創出した構造特性を覆い隠す自己矛盾を引き起こしている。さらには、研究者集団を支援するどころか概念追求手段としての思考のメカニズムさえ提示できていない。なぜなら、理論の役割とは単に推論の道具として存在するのではなく、経験的実在の考察に基づく相対的機能の概念的解明であり、和声学とは、私たちが積極的に体験しようとする共通の感覚という人間能力の根本原理を、あらゆる道理の基礎と考える理論的・論理的記述であるからだ。




by musical-theory | 2019-01-24 12:38 |     04 - 人間能力の根本原理
<< 象徴事実 分析状況 >>