人気ブログランキング |
2019年 01月 24日
基本的前提の構造
09 - 基本的前提の構造


「 開かれた概念定義 」


 基本的前提の条件
 ある音現象の生成が、歴史を基盤として成り立つもの、さらには未来に向かって成り立つものとして捉えることができるならば、その音現象はそれ自体として完結することになる。完結するということからすれば、それは個性をもつとされ、過去から現在、現在から未来に向けて更新されるとなれば、それは発展するといえる。それゆえ概念定義とは音現象を発展という範疇で捉えることにほかならない。ところで、限定と規定された音現象はそれ自体として完結されたのだろうか。複数の選択肢がある音現象は今でも例外なのだろうか。完結され例外とみなされたとすれば、それは過去の世界においても、そこで停止し、それ以上は発展しなかったはずである。
 和声理論がもつ構成原理の本体を見極めるために、文化社会が認める音楽作品が提供する個性的な創造性にこだわることは間尺に合わないと思われるかも知れない。しかし、そこに存在している技法がもつ多様性・変化性こそが分析の根底に潜む概念と認識を明らかにしてくれるのである。芸術作品における実践とは、例外的な特殊現象の集合体であるどころか、私たちが理論構築の知的作業を行うための根源的な認識規準となるものである。音楽作品をめぐる解釈だけでなく、その基準を解釈するために用いられてきた従来の機能理論を検討してみれば、彼と同じような結論に達するだろう。ローパーが指摘するように、論理思考の最も希薄な理論のあり方を疑問視する度合いは、我が国の文化社会や音楽教育においても次第に強まっているといってよい。ここで問われるのは、和声学の論述はいかなる条件においても多様な形態を理論的に総合する問題に対処できていたのか、という点である。「歴史を横断するという視点」の導入もなく、厳密で基本的な前提条件を導き出そうとつねに変化する現象の根拠を断片的に`単一規則`に収束した`原則`は、これを単に外からの強制として受け取る知的な学習者を対象とする限り有効には機能しない。たとえ、個別に芸術作品の和声について語ることがあるにしても、具体的に知る手がかりは方法的に遮断されることになった。過去そして現在において相対的であった概念そのもの「つまり実在」は、「実在を限局する定義が非創造的と呼ぶもの」に零落してしまった。これは演習の問題に限らず、一般に規則禁則の評価にしても同じことがいえる。もともと`原則管理の破綻`に関しては、概念の形成過程において多くの弊害がある。それが和声学基礎論において拡大されて現われたのである。
 それはこういうことである。つまり、規則禁則論に影響された人たちは、一様にその規則禁則によって動かされ、決定者の発する文言を復唱することしかしない。こうした人たちにとっては、少なくとも 1970年代の教育事情の不本意な出来事で、その規則禁則の妥当性には関わりなく、学問的教育的責任がないのは当然だ、ということになる。そうだとすると、いま歴史的・実践的実在の一般原理を客観的事実をもって定義する際に、実在では「実際に機能している概念」を"例外枠組"に投げ入れる概念定義は、その性格において1世代前の"機能和声の原則"と同じ限界状況を露呈していたことになる。
 いく度も述べたように、概念定義は、他のことはさておいても、実在概念に関する関連領域の和音とその用法を明らかにした資料の作成を命題とするが、和声を形成している諸要素を中立的なレヴェルでさまざまな概念の内包を明確にするためには、実在認識のための検証と分析の手順いわゆる明証性の原理的な表明を踏まえる必要がある。当然のことながら「再整備の条件」は、人間の創出とその歴史的経緯が作品という素材そのものにおいてどのような形で総合されているかを示す点にある。そうすることによってはじめて、実在の概念的本質、つまりそこに立ち現れる相対的な基本現象もまた表現手段の要素となることができるからである。


 論理的基礎論
 西欧をはじめ、限定離脱は存在したとしても、機能離脱などという時代をとり違えた実在についての歴史観はいまや何処を探しても見当たらない。このとり違えは普遍的な妥当請求をする概念定義にとって、論理的にはすでに動的な古典和声の可能性に対する「否定的指向」をもち込んでいるものであり、なかなか消えることがない。周知の公理的概念を思い浮かべると、この点はいっそう腑に落ちる。_規則違反、例外枠組。というのも、規則主義は、古典和声においてあくまでも実践的な領域に属するものであった人間本来の普遍的な自由、すなわち多様な人間的表出行為に関わる定義であるにもかかわらず、その内部に「思考するものではない」という正誤判断をもちこみ、その枠組に「先験的」な概念規定を設定してきたからである。この無謀な判断と可能性が封じられる規定に対して理論体系はどこまで従うことができるのであろうか。思考の対象についての確かな検証を回避してしまい、原則を特権化された聖域にまつり上げる方向に進んだ規則主義者がいつも決まって口にする「それは考えても無駄なこと」なのだろうか。
 とはいえ、現代に生きる社会人は、もともと道理に合わない原則に陥ったとうてい無理な論理をよく心得ている。理論家が特定の対象についてある判断をするに際して、その判断において必要な実在認識の認識基準とは何かと考え、それを概念化したものが和声学でいう実在の概念定義であった。理論家によれば、概念定義とは、実在を経験する人間が、実在のただなかですでに存在している実在を根拠に、その自然な基本概念を思索して立ち上げる自らの理論的論証基盤の確保なのである。だが、傍観者的スズメたちが鳥かごの中で公然と騒ぎ立てている規則禁則が、重要な課題を積極的に担えないことが検証と統計学的分析の発達によって証明されてしまったことに、そして、論理的矛盾を否定するために非現実的な収集枠は引き出せてもそれが妥当な判断であるとは言えなくなり、「事実を検証すれば例外が多い」の弁明を連呼しながらあわてる場面をみていると、その騒ぎ立てや凡庸な論理は、根本的な問題解決を保証する概念認識、すなわち相対的な実在性を還元できる概念規定ではないことに漠然と気がついているのであろう。しかし、和声学基礎論はつねにこの矛盾を指摘しつづけてきたが、当然それに的確な答えが与えられたことはなかった。現代人は、そこで、この肥大した矛盾を「再度」指摘し、もしこの指摘に明確な答えが得られるならば、中世から現代にいたる和声学基礎論を根本において動かしていたものが何であるかを理解することができる、と考えているのである。それにしても、「事実を検証すれば例外と定義された事象現象が多い」とは、どういうことなのか。
 それは、`機能和声_声部の書法の原則`が、実在を実在として成立させている「生成の機能」とは、どのような概念であるかを厳密に論証することができないことなのである。たしかに、実在を概念とする定義が実在を自然とみる合理的経験から生じていることは否定できない。したがって、そのような定義は、現存在である実在の本質からのいわば帰結なのである。もっとも、この帰結というものは、限定制約的とか、疑似的といった意味は、まったく含まれていない。だが、実在概念の限定的制約的なものでしかない疑似概念が概念的本質そのものにすり替えられ、本質の存在が論じられる場で伸し歩くということになると、どうなるのであろうか。そうなれば限定制約的ということになるであろうし、その限定制約的なものが"あくまでも原則"という帰結を生むにちがいない。そしてその通りになったのである。
 イギリスの歴史家H.T.ローパーは、時代は「芸術」によって表現されるとする立場から芸術を「歴史の証人」とみなし「芸術や文学をもたない社会が退屈であるように、芸術や文学を無視する歴史は退屈である。反対に、歴史と切り離して研究される芸術や文学は、十分に理解されるとはいえない。むろんすぐれた芸術や文学は、それらを形成した歴史的状況、つまりその偉大さを生み出した状況を超越する。わたくしはフランスの歴史家フェルナン・ブローデル(1902〜 85)と同じく、芸術と文学は、保存するに値する全歴史の真の証言者であり、文明の後継者が我々であることを想起させてくれる精神的な蓄積物だと信じている」と説く一方で、「われわれの世紀の厳格な理論家(イデオローグ)たちは、失われた一体性を人為的に回復しようと試みたけれども、この野蛮な実験は芸術の面では成功していない (PRINCES AND ARTISTS-Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts 1517-1633 / ハプスブルグ家と芸術家たち/横山徳爾 訳 )と述べ、規則主義者のただひとつの主張のためのプロパガンダ、つまり他性を執拗に否定する安直な小細工を見破っていた( 歴史家フェルナン・ブローデル )( PRINCES AND ARTISTS _Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts/ハプスブルグ家と芸術家たち/横山徳爾 訳 )。
 このような見解は重要な意味をもっている。というのは、音楽芸術の場合、対象を概念的に規定する定義やその適用が、ひとりの作曲家の現実的な実践の多くを考慮しなければ理解できないことを示しているからである。あらゆる現象はそれ自身が独立した形で存在しているものではない。和声的なシステムに近づくことができるのは、知ろうとする対象を生成においてとらえ、存在全体を組織的な形で理解可能にした理論があるからだ。対象が私たちにどのように働きかけてくるかを洞察するに際して、そのような理論は萌芽的な概念による認識に発展的可能性を与えることに役立ち、さらには象徴化の能動的な補佐役であることが分かる。それによって抽出されたさまざまな構造的概念は、自らを明確にし現実体験によって得られる合理的な現象から出発して直接的な定義となる言説の中で具現化される。私たちがおこなう検証や分析の対象を、新しい人間のイメージをつかみとろうとした創造的という芸術作品の音楽的な構造領域へ移行させることで、和声的で論理的な基礎理論というジャンルへ到達することが可能になる。
 私たちが、「いかに創造的になれるか」と同様に、「いかに音楽的になれるか」、そして「いかに和声的になれるか」を問題にしたとき、歴代の大作曲家たちが思索していたのもまさにそのことなのである。


                                             中 村 隆 一


c0070638_10402621.gif








by musical-theory | 2019-01-24 12:33 |     09 - 基本的前提の構造
<< 理論家グラレアーヌス