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2019年 01月 24日
限定以前の基本現象

07 -
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「 実在概念 」


 認識の発展と分析方法
 現代に生きる人間としていま私たちがなし得る和声学基礎論の改革とは、規則禁則論を批判理論として克服することである。西洋のその壮大な音楽理論史を展望しても、限定という唯一性の概念に帰することで、平行法というオルガヌム以来の伝統的実在概念を具象化できた理論などないことは明らかであるが、もし、理論にできるだけ厳密な概念定義、できるだけ自然な論理的説明を望むとするなら、そのための有効なアプローチとは、根源的存在の基本的な構図を理論史から学びながらも、歴史の中でさまざまに移り変わり、その端緒から遠ざかるにつれていっそう発展していく事実に対する直接的な探究と、相対的な概念を分かちもっている認識方法だということになる。すなわち、諸概念が集まって互いに関係し合い体系的に組織化された理論は、どのように多様な現象であってもそれらを排除するのではなく、それら基本現象を理論内部に取り込もうとするものである。また、できるだけ多くの異なった視点のもとで、実際に機能しているシステム_現実の実践的な対象_を捉えようとするものである。このような認識は、当然のこととして実践的技術知の担い手である人間的実現行為と顕在的に連動している。

 チェリビダッケの弟子、P.バスティアンは演奏家としての経験をもとに、音楽について次のように述べている。「机の上のハサミやロウソク、その他の物がピカソやマチスによって完璧なバランスをつくりだす芸術家の見事な集中力で、あるべき場所に正確に配置されているとき、ただハサミを見るだけでその構図について何かを学ぶことができるだろうか? 何ひとつ学べはしない。必要なのは相補的な記述だ。背景から取り出されたハサミは何の意味も持たないからである。すべての記述は相補的な記述、つまり最初の記述が除外したものに光を当てる記述によって補完されなければならない。デカルト的モデルは全体論的モデルによって補完される」。また、「何かに焦点を当てるということは、他のものを犠牲にするということだ。そのやり方を安易に音楽に当てはめることによって、多くの誤解が生じている。いかなる場合であれ、音楽にデカルト的な考えを適用することは、やぶを棒でつつくようなものでしかない。音楽は、ハサミ、ロウソクその他の物との関係が完全に経験されたときに起こってくる」。さらに、「音楽と呼ばれる領域の十分に包括的なモデルを見つけるためには、それと同じ程度に包括的な意識のモデルを探すしかないことは明白である。それは音楽が限りなく包容力がある意識の現象だからだ」(Ind I Musikken_音楽の霊性/澤西康史訳)。このことから私たちは、理論構築の基本的な前提条件として「音楽が多様である以上、音楽をめぐる"ことば"も多様なものでなければならない」、という問題を見逃すわけにはいかないのである(Coming Community Music/全 - 世界音楽論 / 東 琢磨)。

 根源の存在を必要のないものと思い誤り、基本的現象さえも第2義的な存在として忘却してしまう規則主義者は、ルールを実体的なものと考えている。ルールはただ目的手段の観念によって1つの現象を定義する概念にすぎないのであるが、ルールの規定さえも、自分が作成し自由に操作できるもの、これを普遍の実体概念と考える手段だと思い込む。ルールを対象の解析結果と主張する。この認識はルールと多様とを混同するものにほかならない。「ルール」は選択の自由をもたないのに対して、「多様」の根本は選択の自由にある。ということはつまり、ルールと多様の「同一視」は誤りということである。
 そこから明らかになってくることは、古典音楽に携わる専門家が和声を語るとき「検証を人任せにした概念規定が一般的な構造特性を説明したものであるとする疑わしい定義をどのように修正すればよいのか」、また「事実の確認もない認識基準を実体が還元されたものであるとする初歩的な誤りをどうしたらよいのか」、さらに「現象の現実的な法則を見い出すための定義はいったいどれほどの有効性を確保しているのか」という問題設定から生じてくる最も大きな問題である。専門家にはこれらの問いに対する説明責任がある。しかし、現代の飛躍的に拡大する理論体系の仕組において、事実の単純な論述に還元できずに放置され、理解可能な認識方法を提供できない実在忘却のルールの所在を示す固定的な場所はすでに存在していない。なぜなら、和声における理論体系という視点の根源的な分節である象徴的実体概念の性質は、新しい視点による認識の発展と分析方法とによってすでに変化しているからだ。


 創造的性格
 西洋の古典音楽は、多様性・変化性が常識の音楽である。人々がそういう古典と深く関わって学びたいと考えることは、結果として歴史上に展開された古典に身を寄せながら、それを実践によって具体的・現実的に統一した作曲家たちに視線を投げかけ、合理的な経験を積み上げていくことではないだろうか? 当然、その対象が何であってもいいわけはない。しかし、私たちは時折つまらないものを得るためにあくせくして大切なものを見失うことがある。それを考えると、創造の世界であるのに「許される、許されない」といって、ただ一つの概念規定から引き出されたモデルを古典和声の規範にする理論と演習、事実に対する認識方法についての論議が、「現実体験への無関心」「作品分析の放棄」「同一視点による特殊な概念の寄せ集め」で終わってしまう「自律性のない認識論」に依存した規範からは、個性ある演奏家・作曲家、独創的な音楽企画を率いるようなエイジェント、世界的な研究とリンクさせ国際的に発信のできる理論研究者、音楽文化、知識産業、あるいは現代の I T 音楽文化社会ヘ積極的に貢献できる「エキスパート」を育てることはできないといってよい。
 現代は科学技術と情報の伝達・処理・蓄積の時代であると同時に、あらゆる研究領域でその根本となる認識基準にさかのぼって変化が求められている時代でもある。和声の理論研究の領域においてもまさに同様である。近年その象徴的概念が学問としての役割を果たすこともできず、古典和声の多様な構造性を代理的な形で表象的に論述する過程において、「我が国の和声学の四半世紀に及ぶ苦い歴史を繰り返してきた問題点とは何か」の批判が生じていることもまた事実である。そうした定義と規定を、明確に与えるための定義を論点とする批判論の展開は、新しい研究方向について理解する能力をもたない和声学の限界を示そうとしたものである。むしろ、音楽芸術に関わる象徴機能の一つに和声理論があるとすれば、諸科学において用いられる概念の内包を明らかにする定義自体が固定的で序列的な規則禁則をもつことを禁じるのである。本来その理論が定義する概念は、和声の考察と分析に基づく譜例(直示的定義)を示しながら、歴史性と革新性、すなわち限定制約に抑圧されない多様性と変化性の事実である。たとえ私たちが一つの規則性を部分的に見い出し、その規則性が他の作品にも見つけることができたとしても、創造的な和声のあり方がその制限内におさまるという保証は何もないからである。
 要するに、認識基準の誤りは「多数の現象からなる多様な現象」と「ひと塊の現象」とを同じものとして考えてしまうことである。和声が和声であるために必要なのは前者だけであって、後者は単一項目で均質化された一集合を意味するだけである。過去の機能理論を得手勝手な自己定義によって多様性を排除する理論に改編された和声学は、表出が実際とはどれほど異なったカテゴリーに構造化されているかに気がつくことができない。私たちの経験的実在において、もし規則禁則が普遍的な事実として現実に確かな構造で存在するなら、規則禁則の普遍性もまた確かに存在する。しかし、歴史的・実践的実践における構造が規則禁則を超越している例証は調べれば幾らでもある。つまり古典における音楽芸術の創造的性格こそが規則禁則の定義を論理的に不可能にするのである。規則禁則は普遍的なものではない。なぜなら普遍的な特性というものは反証不可能なものであるからだ。そもそも、特定枠組と関わりをもつ対象の分析や認識の方法の間には、理論と事実の両者における歴史的な変化発展の原因や経緯を明らかにするような強い相関関係が存在しているのであって、それゆえルールは個々の現象のあるがままを再生できないのであれば、その妥当性を失うことになる。


 知識の体系的構造
 和声に関する知識の体系的構造とはどのようなものなのか? それを厳密に還元する認識方法はどのように選択され、基本的基準はどのように形成されたのか? 規則主義者はその答えに行き着いていない。事実誤認がはっきりした後も何がどう間違って事実誤認が生じたのか、それがなぜ例外・排除・隠ぺいにつながったのか、問題の所在や解決を事実をもって明らかにしようとしていない。だから絵空事を言い続けるらしい。十分な裏づけ考察と分析のうえで現実的な事実を象徴化するのが、理論の基本であり、論理の一般性である。その点、「ルールは建築物の土台となる基礎工事のようなものである」は、基礎的という名に値しない言説である。それを主張するのであれば、その建物に住む人間の立場になって「土台工事の方法は改良と改善を重ねた新しい資材が採用されているのか」「手抜きはなかったのか、安全性は十分に確保されているのか」を自分の目と耳で確かめる必要があるだろう。それはルールに固定化された事実否定という深刻な病理の回復過程にほかならない。
 さて、概念枠組の前提としてつくられた規則禁則、音楽芸術における合理的思考にとってその有効性を主張している理論は問われている。能動的な事実究明の本質は、具体的に事象を判断するために、広範な考察、分析原理の明確化、対象に対する概念規定といった複数の要素から成り立っているが、それらをどう考えているのだろうか? また芸術作品という現実体験を対象にして、学習規則はあくまでも論理的に定義十分な言説に基いて説明を行っているのだろうか? さらには、従来のように例外という枠を設け、都合の悪い事実は隠そうとしている。もっとも、人々はそれを恐れる。そういう考えは歪曲の習慣とさえ云えるが、規則禁則はそうした習慣の産物にすぎないのではないだろうか? 
 和声学は、改善を約束する知識の構造的条件やそれに対する動機的条件が欠けるため、すなわち自己反省的な規則主義者は効率を基準とする序列化が増大するにつれ、分析的にみて自分が規則禁則を一方的に美化したことに気がついている。それもそのはず、歴史的な大作曲家の名はあげるがその古典作品の解析を人任せにしているからである。ルールが批判にさらされると急に弱腰になり、自らが提示する自家撞着だけに眼を向け、取って付けたように規則と規則違反の「境界」を平気でづらす。そうした変更は手っ取り早い一時しのぎを手に入れるが、説明手段が不足する苦しい窮乏が訪れると、目撃される事実はどうでもよくなり、最後には、規則は必ずしも規則とはならない、限定進行音は必ずしも限定進行するとは限らない、という寒々しい「負の策略」を次から次へと生産していく。
 そればかりではない。たとえどのような反論がなされようとも、疑問なのは変更にかかわる理由の説明は何もなく、また、言語による定義のもつ構造特性のリストをどのようにして提供するのか、という問いかけは宙に浮いてしまい、その検証内容が不透明なものに零落してしまうのである。ルールがつぎつぎと後から付け加えられるなか、括弧付き条件の設定によってそれが唐突に変更され徹底されなかったり、和声の実際との乖離はかなりのものとなり、そのような根拠のない変更は決して事実の証明による理論的立場ではあり得ないのである。
 だが、そうした不透明な概念の適用をかかえた和声学は、その損失がもたらす知識的弊害が、予期しなかった結果を生み悪循環となっていることに対して根源的な反省はあるのだろうか? というのも、 18 世紀の芸術作品は古典和声の歴史的な源であるが、いまなお「表出技術の核心」であり、その特色ある美的形式や美的メッセージの中心的な「リスト・ボックス」である。とすると、和声学の機能理論はその事実を考察においても分析においても機能理論でありながら、特定対象に関する概念形成のための方向と視点を取り違えている。西洋人の歴史的な実践と伝統的な思考をはねつけ、本来的な和声研究にとってその記号化の必然性は妥当なものであったのだろうか。さらに事象の象徴化において、単声旋律_グレゴリオ聖歌、9世紀〜 16 世紀_和声発祥の先史学的な存在である中世・ルネッサンス、 17 〜 18 世紀_バロック・古典派、 19 世紀_ロマン派、すでに古典となった 20 世紀_印象派様式の諸概念、すなわち古典による直接的なコンポーネントはなぜ対象にならないのか。もし古典の和声が事実として考察・分析の対象にはならないのであれば、その理論を学ぶ人間にとって歴史上に展開された古典作品は意味をもたない芸術となってしまう。
 概念化に対する非難はまだある。私たちの経験的実在から得られる芸術概念を、相対的本質をもたない認識方法でもって論じるのは乱暴なのである。もっと乱暴なのは、そのルールに準じていないすべての現象に与えてしまう「誤り」や「否定的なイメージ」というのがそれだ。こういった理論は、唯一性という点で、現象の多数と多様を説明することができない。つまり、現象の現実的な法則を見い出し、この法則としての一般的事実を結びつけることによって構成される知識体系を確保していないからだ。受講者たちの行く手を閉ざす一元論は、対象において必要とされた相対的概念の一方を取りあげ、それを禁則・規則違反と判断して否定する。この問題は理論家だけではない。実践的存在である人間の能動性と歴史的な古典的対象を見失うほどの先入観にとらわれ、社会的な音楽活動や思考活動から遠く離れてしまい、それとのつながりにはまったく関心を示さない概念的方向にもある。定義の出発点が見えない論理。しかも、説明的思惟の役には立たない認識方法。要するに、「多様性・変化性を排除する特殊な概念」を「事実によって証明された普遍的な概念」にすり替えていたのでは、公理的方法による公理的体系としての理論にはならないのである。それは同時に深い疑念と批判の集まるところでもある。
 これらの理論と演習が空虚なのは、芸術の理念や理想が欠如したまま語られるからだ。そうなるのは、和声学全体がいまもって現実的な芸術作品を必要とせず、社会的文化的実践の考察ではなく説得力の乏しい規則禁則にしか目を向けていないからだ。しかも、そこに付された曖昧な括弧づけは、事実を頑強に拒み続けている自分自身を他から指摘されるのを回避するためにつくられたい常套的な言い逃れであろう。こういう和声概念に関する難点は、制約を論述する人間が実際との論理的矛盾について言いわけがましくなりその数があまりにも多くなるという点である。つまり、このような理論は決して肯定的につくられたものではなく、体験的実在と対立するルールがそれとの対比で自らを合理化する否定的な基準として役立つにすぎない。利己的目的に没頭した諸規定を無批判につくり出してしまうため、慣例的な正誤判断に訴えるだけで規則禁則の妥当性を証拠を挙げて説明することはないからである。それにしても事実の現実性と有効性から学ぶことをせずに何を学ぶというのか。

 たとえば、日本文学の専門講座において、万葉集、源氏物語、徒然草などの作品にまったく触れずに、日本文学論を学んだことになるのだろうか。和声学によくあらわれる生気のない正誤判断のように、ついには価値ある文学作品が「異質」「例外」とされてしまうのか。また、美術大学の西洋美術講座が、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ゴーガンやピカソの絵画・彫刻品の存在には無関心で美術論を論じたといえるのだろうか。

 もう時代が違うのである。このままでは和声学の基礎論全般に対する信頼を失いかねない。たとえ和声学が確認をしなくても、古典和声の多様性は本質的であるか、非本質的であるかの区別もなく、とくに客観的実在性の問いかけもなく放置され、実在の基本現象を抜きとられたような旧弊の概念規定を強行しているなら、私たちには耳ざわりな「迷うより知らない方がいい」という転倒した言葉遊びと同じである。もっとも、西洋の伝統では、基本現象は明らかに実在に由来する言葉であり、あくまで実在としての基本現象なのである。いかなる分析も、いかなる概念定義も、疑似和声を対象にする私的な聴き方に依存したルール主義が描く認識規準を、音楽文化社会における一般常識と統合することはできないということだ。あえていえば、こうした実態からしても、現実的に理解可能な実践的実在に関して知る機会を奪われている現実を、また、規則禁則に従う者とそうでない者が、今日においても和声の構造体系を明らかにし得ない基準によって評価されてしまうことの意味を、和声学は説明する責任がある。
 作曲家や演奏家たちは常にそれぞれの時代・文化に重要な機能を果たし、その歴史的な経緯は表出の多様化とほとんど歩調をそろえてきた。作品として安らっている想像というダイナミックな流動の過程を考えてみるならば、思考するものという概念を拠りどころとしている文学や美術に限らず、音楽の天才たちも私たちを元気づける。人間はみな、人類の歴史以来蓄積されてきた途方もない文化遺産の大海原にいるのであって、それを体験しようではないか、と励ましているようにみえる。
 その流れをみると、すでに幾度も述べたように、機能和声の原則の多くは生彩を失うに至った。現代社会における情報の発信と処理能力が問われるなかで、和声学は特定対象とその概念が合致しない規則禁則を基礎論の一般原理とすることはできなくなり、新たな問いの前に立たされているのである。とすれば、「限定以前の基本現象」の検証分析を通して、対象とその領域を逸脱した基本的基準を事実の証明をもって再構成する課題をかかえているのは確かであろう。言うまでもなく他の学問分野と同じように、西洋和声学の伝統の線上に位置する「現代的な構成」と、歴史的・実践的実在という対象についての「理論的な言及」がはじまるのは、まさに人間が歴史においてつくりあげてきた実現行為の「思考と選択」、現実的で有効な事象現象を見い出すための「実体概念」に触れることを通過してからなのである。




by musical-theory | 2019-01-24 12:35 |     07 - 限定以前の基本現象
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