カテゴリ:  和声概念 [1]( 1 )
2018年 01月 24日
和声概念 [1] / 和声学序説:基本的前提
和声概念 [1]


本源的な存在構造
 和声学は、普遍的な理論体系である。私たちが聴いているマクロな音楽の世界を記述する、したがって、和声の構造様式は4声体構造にだけに依存していたわけではない。古典音楽にみられるように、和声表出は個々様々な声体数変換によって実践されていた。しかし、現実体験とかけ離れた声部の書法による実践は、対象の吟味などのない無自覚で直線的な先入観によって、4声体書法以外の構造形態が非実践的なものとして無視され切り捨てられてしまう書法となる。その内容は全教程を通して規則禁則とその適用によって行われ、すべてが音楽の現実在の概念とはまったく違った概念の規定に重点が置かれ、そして、これこれの限定進行に合うような、これこれの禁則を遵守するための、検証不備の概念定義が実行されてきた。
 事象現象の検証において、そこに多数の現象・形態、さらには多様な結合・分離が分析されるとき、そのあり方に条件をつけて範囲を狭める一義的な和声学もまた、旧態的な規則禁則による理論状況の産物でる。そのことは組織化された和声学の無内容な現状を見ればよく分かる。関連分野の指導者が、実践の設定は規則が行うエクリチュールの神話を夢見ているような場合には、人間の「思惟・存在・実践」が限局的概念に振り回され、和声のおおもとすなわち古典和声に対応する「理念の放棄」という弊害を伴う。この「限局方法論」とともに「検証の拒否」が始まるのである。「本源的な情報資源」などというとあらたまって聞こえるが、要するに「原初的実在」のことであり、そうした実在検証において学ぶことは、単なる知識ではなく、自分の足で立って新鮮な視座で音楽の世界と向き合い、原則としての限定に対して常にクリティカルな眼をもつこと、制約からは見えないものを観ようとすること、多様で柔軟な価値観に開かれることの重要性である。ところで、機能和声の技法の説明において `J.S.Bachをはじめモーツァルト・ベートーヴェン は各分野の創作活動で、過去に存在する始原の存在、その原理の意義や価値を認めないことがある`という説明は何であったのか。

 `Web_和声 - Wikipedia`_機能和声の原則は、理論性に立ち返らせるような原初的実在の再生力が弱い。むろん事実の隠蔽体質と検証放棄、不透明な出口のあり方が問われていたのである。今日、その意味での伝統的な実在性そのものを非実在性とする特殊な原則主義に拘束されており、そのもっとも大きなそして自己撞着的なものとは、いわゆる`実曲中では無視されることもある`という概念定義であろう。それは理論体系の全存在に関わる重大な命題といえる。またそうした定義は`脚注`に挙げられた「書籍」からの引用であるとすれば、その説明からも判ってくるが、そこに見られる`限局的な概念規定`を体系矛盾としてとらえる人間にとって、これがのちに問われる楽曲分析の「つまづきの石」になるのである。そこでは、その根本問題とされるあの生きた「存在一般の歴史的・実践的実在の究明」は行われていないことは明らかであり、それらの内容が「実在性から切り離されてしまう無機質な原則論」などと厳しく批判されたのはそのためである。古典和声の理論的な解釈にしても、古典楽曲を眼の前にして、いったい何をどう解釈するのか分からないことになるだろうし、その考察の仕方さえも変わりかねない。和声を学ぶ人間は、まず、「古典和声のもつ明証性」がいまだに表明されていない`原則`のあり方を見直すことではないか、としたうえで、実在的事象現象の実証的なあり方を重ね合わせ、そうすることによって、そこに風穴を開けるという判断には合理性がある、と見ている。当然、歴史上においてすでに自立していた実在を根拠にその自然な現象を規範にしておこなう理論演習の地盤確保もなく、和声的な世界観を放棄する規則に対して自己批判的機能の必要性が恒常的に指摘されていたとしても、そう不思議ではあるまい。
 なぜなら、「実現行為の事実に定位して概念が形成される_合理性_は、人間の基本的欲求であり、和声学は限定に先立つ人間の素質や能力(可能性)を理論体系に回復し、この分野での根本問題を克服す必要があるからである」。というのも、「規則偏重および例外枠組によって次第に変質していった`原則`つまり`声部の書法`は、検証と分析によって概念化される、本質存在の事実存在に対する優位はゆるがない高次の創出レヴェルが説明できないからである(和声学:調和声_基本的命題 [2] )」。
 それは、こういうわけである。バロック・古典派和声に存在する生成の概念からすれば、実在全体の本源性もその「想像力への可能性」にほかならない。つまり、実在全体の本源性というものは、たとえばJ.S.バッハ・モーツァルトの和声を捉えてみても、たえず拡大し続け、より創造的になろうと生成されているわけである。もはやより限定的(擬似的)に、より制約的(非実在的)になろうと思考することなど原理的にありえない。とすれば、元の対象との不一致が起きているために事実について的確な答えが与えられない`声部の書法`_導音は主音へという解決の限定、_並進行(連続)5・8度は禁則の制約、_ただひとつの_関数5_に閉じ込められた和音配列は、過去や未来という次元を開くことができず、無力に転じ衰え滅びてしまうものであろう( 和声学:総合 )。

 現代の理論家の考えでは、こうした元の対象との不一致、ことに実在との調和を破るあからさまな規定矛盾と、それを隠蔽することになった`原則` は、当然のように「過激な検証放棄を引き起こしたもの」として見えてくる。和声の歴史の生成を説き、まったく新たな機能論の成り立ちを告げるのに、安逸な概念認識の場で当然とされた説明ではとうてい間に合わない、と見られるのである。言葉のまやかしとしか思えない` 16 世紀ヨーロッパに端を発した機能和声`といった前置き、その「端」にいたるまでの由来説明を捨て置く曖昧さ、つまり16・17・18世紀における機能和声を論じる本質的根拠は何かを表明できない事態、これらが 検証(前提)放棄の引き起こす結果であり、 ...... 西洋古典派音楽がもつ明証性を原理的に説明したものではない規則禁則、そうした内部的規定に翻弄される`声部の書法`もまた、それに追従していたことはこうして明らかである。
 そればかりか、和声のあり方は4声体であるという思い做しは、宗教音楽が中心であった中世・ルネッサンス時代における合唱編成を受け継いだことによるものであり、古典和声はそれにもとづいてつくられている、という学問的に根拠のない「俗説」が流布している。ところで、その時代の混声合唱曲を考察してみると、実在の歴史における和声の本源的本質は、原初的な声部編成の多義的構造が実在形態であって、この分析をも含めて考えるなら、「4声体構造が基本である」は俗物の思い込みである。
 「和声が認識されて多義的構造になる。この認識の遂行とその準備とともに、和声の歴史が始まるのである」。つまり「多義的構造の認識の遂行は、和声的思考におけるの単なる派生的実在といったものではない。それは和声の歴史におけるひとつの真実在を示している」。そうだとしたら、当然すべての「和声」は、人間に「多義的構造を通して現れてくる」のである。
 「和声が多義的構造であるからこそ、人間は絶えずこの多義的構造を聴くことによって和声概念に行き着く。ルネッサンス音楽を聴くとき、バロックや古典派音楽を演奏して楽しむとき、人間はいつでも2声体、3声体、そして4・5声体構造の和声を聴いているのであり、たとえこれらの用語を口に出さなくとも、そうした響きを体験している。楽曲を調べてみると、和音はけっして混声4部合唱構成と見なされないことぐらいすぐわかる」。こう考えれば、「多義的構造が和声になる」ということの意味も判ってこよう。
 そして、「多義」という視点の設定、つまり「多義のあらわれ」が、人間の想像の世界で生成されながら人間のつくる規則に従ったものではないのと同様に、実在の事実と本質つまり「和声」の形成も人間が限定的におこなうことではない。むしろ人間は、すでに投げ出された和声の力を借りて、概念の事実認識を果たすのである。その意味では、人間が和声を語るというよりも、「和声が語る」のであり、人間はその多義的構造によって考えさせられているのだといった判断が和声学の命題に合っている。したがって、人間は和声の本源的な存在構造_多義的構造を基本的前提として、それを検証することによって、和声概念を明らかにするのである。


検証にもとづく実在性
 現代の理論家がこの検証にこだわるのには理由がある。というのも、前述の_根源の存在を消滅させる`書籍の概念定義`と併記された`原則の規定`_は結局失敗に終わり批判されたわけであるが、その失敗がどこで起こったのかという問題にこれが関わるからである。この場合、理論家は次にあげる2つの命題だと考えている。つまり、この過程で「和声学の歴史全体についての命題認識が間違いであった」ということ、そして、「命題究明のための準備作業に欠陥があった」ということである。まず本来的命題のひとつの例を示そう。
 和声学の歴史において、人間が創出する和声のことを何でも解きあかそうとして、なぜそれが可能となったのかという問いを発することが和声学の始まりだといわれる。和声学の始まりはこの問いよりほかにないのである。おそらく問いを発してこそ、人間は、今日もそうであるが、昔からそのようにして和声学を始めたのである。これは、和声学とは、概念認識の諸段階を昇りつめ、真の実在はどれか、対象の本性は何かを尋ねようとするものであり、そうした事実を理論的にしかも論理的に説明しようとするものである、という意味である。そのためには、私たちは「歴史的・実践的実在(たとえば、大作曲家の和声法)はそれぞれであり、その和声の統一的概念化(プログラミング)はできない_困難である」と述べながら、多様性も可能性も包括できない特殊な考えのもとで、実在的連関から引き離された「バロック・古典派・ロマン派和声の原則」を語ってしまう、という極端な言動を慎む必要がある。というのも、検証を拒否する`原則`には、そのつど和声を限定のうちに引き込み、制約のうちにとどめようとする_事実認識を妨げる偏った限局_が立ちはだかっている、と考えるからである。
 その証拠をいくつか挙げてみる。

        たとえば、
           J.S.バッハ _ Four-Part Chorales
                  Brandenburgishe Konzerte
                  Suiten
           W.A.モーツァルト _ Symphonie No.41 "ジュピター"
                     Le nozze di Figaro
                     Piano Sonate
           ベートーヴェン _ Violin Sonata No.5 "春"
                    Symphonie No.9
                    String Quartet No.1
           R.シューマン _ 8 Novelletten
                   Blumenstück
           ブラームス _ Symphonie No.4 "ブラームス交響曲の最後の曲"
                  Drei Intermezzi
                  Rhapsodien
           マスネ _ Meditation de Thaïs "タイスの瞑想曲" など

      これらは、原則に照らし合わせると、規則が無視された声部の書法、和音の配列、つまり規則違反や禁則
      の事象現象が次々と現われる楽曲_ということになる。

 このような人間の実践的課題の重要性から目をそらす「機能和声の原則」は、いわば歴史からの贈りものである和声を、限定が切り開いたもの、制約の企図したものと判断をあやまり、意識的に古典音楽の和声は規則禁則が基本的な認識基準であると見せている。つまり、虚構的テクストとしての規則禁則の地位を主観的な論述を通してだけでなく、現代の理論家たちが閉じられた疑似構造として論じているように、一切の多様性と変化性を排除する一元化、概念の外延に関わる定義であるにもかかわらず、さして実体論的思考のない非現実的な推測や仮説を通して行なわれているのである。このように、それは蓋然性が高い和声の仕組みを体系的に踏査したものではないのだとすれば、今もこうした原則が人間に与えているものとは何であろうか。
  21 世紀に入り、それまで動的な本質を否定してきた`機能和声_声部の書法`の限定制約からようやく脱却し、基本的前提としての事実認識に達したいま、現代人はこのように考えるようになったのである。「`和音の進行`の使用価値と範囲を離れれば、何の価値ももたない。経験する実体概念の認識がないなら、すなわち可能性が活動していないなら、それらは概念として静態的であり、伝統的和声の面からも破壊的である」。なぜなら、現存在を明確に語るための実在検証の直接的間接的な排除は、無邪気な誤りで済まされるものではないからである。それを妥当性があるものとして操作することは明証化のゆがみを助長する。音楽人にとって、この後退的概念の規定は妥当性をもたない。
 ルールという問題を捉える表出的認識論において、理論解説者が「歴史上の大作曲家たちはこのルールに従っていたのではない」とわざわざ注意を呼びかけているように、そうした概念的方向と視点は自明であり人々の間では常識化されている。しかもルールは、古典和声(作曲・演奏・聴取活動)そのものではなく、本来的理論としての基礎的役割から外れていることを、少なくとも単純な事実の論述に還元できない概念規定であることを常に示すことになるのである。概念の内包を明確に与える定義、それは和声全体の問題を論じる場合、基本的な認識基準にほかならない。ゆえに実体とのコミュニケーションの様態だけが事実の論述と音楽文化社会を結びつけるのである。なぜなら、それはあらゆる人に共通するものに関係するからである。しかし、私たちが古典音楽の演奏や鑑賞において経験する和声の実践原理を理論の問題に対して当てはめてみるなら、つぎのような事実が分かってくる。

      古典音楽における和声の様式特性を保全しようとする限り、そこで検証される実践的実在(バロック_モ
      ンテヴェルディ、J.S.バッハ、ヘンデル、古典派_ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、そしてロマ
      ン派_ショパン、シューマン、ブラームス)の和声そのものは、すでに限定制約というルールの支えなしに
      成立していたのである( 和声学序説:実体概念_古典和声の検証分析 ② )。

 和声学が古典和声の様々な現象を再生するという役割は、現象の情報伝達力にある。今まで続いていた反社会的文化的欲求の原則主義の動きが止まるのは、永々と続く古典和声の恩恵を知るときである。不明確な概念から解放されない公理を基本的前提とするために実在そのものを俯瞰できなくなっている考えを、概念的に古典的な意味での和声の正しいあり方として規定することは妥当なのだろうか。その実在という実体の多くを例外視する概念化が矛盾していることは明らかである。こうした矛盾は事実をルール化する際の対象と認識基準とのセマンティカルな問題であり、理論構成の意味においても概念の象徴化においても、和声学の知識体系が和声構造の客観的実在性を枠組としているからである。
 したがって、古典和声の特徴とは、人間が歴史上において獲得した多様な「実現行為」であり、ノーマルな聴感覚に裏打ちされた検証を通じて人間を豊かにする「経験の対象」でもある。そうした対象は、理論の基本的象徴と本質的概念となるものである。理論がその認識根拠と概念規定で人間的実現行為と結ばれているのは、個々の理論家の生きた分析と総合という研究があるためである。そうだとすると、和声学が人間的実現行為を前提条件とする理論的探究、事実判断の拠りどころとなるような明証的な認識に到達するための実証的研究である限り、なんらかの音現象を古典和声の構成要素と認めるためには、対象の現実性と効用性とを確保した「事実であるもの」と、分析データの裏付けを欠いた「事実ではないもの」を前もって区別しておく必要がある。




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by musical-theory | 2018-01-24 12:43 |   和声概念 [1] | Comments(0)